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20120418
 質とは、差異のこと。質の高さ低さも、質の一つであり、差異の一つ。幸福ないし喜びの質の高さの観点から、肝心なのは明らかな、決定的な差異なのだろうが、その獲得のためには、わずかな差異を蓄積していく必要がある、というのが、基本的な法則性といえるのではないだろうか。

 
20120408
 認識も記憶の一種かもしれないが (ここでの「記憶」とは、現在の体験の中に把握できている、過去の体験の中の出来事[ないし過去の体験における意識ないし感覚の対象]の、再構成[把握]残像だと言いうるもののことだが)、そうだとしても、実践的に (すなわち、目的意識的に)、対象の (在りようを含む)変動の法則性を把握している記憶であって、より実践的に活用頻度が高い記憶であるもののことだと言える。言いかえると、実践的により肝心なのは、認識としての記憶だと。

 認識のうち、言葉によって把握できるものは、より活用有効度が高いものになるし、さらに、数式データとして計算可能なものとして把握できるものは(言葉や数式データは、物質的なものとして把握できるという点でも)、より確実性の高いものになるにしても、数式データによっても、また言葉によっても把握できてはいないが、再構成(把握)できる認識の重要性も(おそらく、繰り返し体験の中にその残像を[その重要性の意識に基づいて]再構成把握していくことを通して)、意識していくべきものだ。

 逆に、そのためにも(言葉や、さらには数式データによって把握できてはいないそのような認識の獲得とその意識的な活用のためにも)言葉や数式データも活用されるべきものであるし、言葉や、さらには数式データによって把握できてはいないそのような認識も、科学的認識(共通的に体験の中で検証可能な法則性の認識)の一種であると把握するか、少なくとも、科学的認識への過程的認識だと把握して、活用されていくべきものであると思われる。

 
20120204
 「行動によって把握される心・精神、を中軸とした人間の美しさの、欠如・欠乏からの保護の取り組み(体験の中の高い質の幸福の充実のためには何よりもそのような人間の美しさが要るので。また、現状ではそのような人間の美しさは弱いものと言わざるをえないので、保護、の取り組み。)」を。

 
20120101
 できる限り最良の「思い」は、できる限り最良の体験の再構成把握残像の、再構成把握という実践であって、体験の中で−同じことだが体験において−充実している幸福の質を獲得できているのでないかぎり、その思いなしに幸福の観点からの体験の質が高まることはない。

 
20111210
 楽しいとは、幸福とはと言ってもいい、体験の身近なものの中にすごく美しいと感じるものが密度濃く在ること。沢山の金銭よりも。再構成把握残像を含めて。その最も肝心なものが人間のすごく美しい部分。そのような、すごく(とびきり、飛び抜けて)美しいと感じる部分が体験の身近なものの中に密度濃くあることは、少なくともこれまでの経験的に、基本的・恒常的ではなく、むしろ束の間のものであることが基本的・恒常的である。とりあえず、自身の場合には。

 
20111203
 この体験の中の、人間のすごく美しい部分だけから構成されるような作品の世界(そうではない部分、その逆の部分が、ないわけではないにしても)を、この体験の中に構築するよう取り組むことは、何よりそれによって初めて、その体験の中の、振幅が基本的に恒常的にある体験の中の感情の質の、その総体の、わずかでも向上が可能になるものであること、と言える。そして、その取り組みは何より、その取り組みそのものがそのようなものになるように、なされるべきものである、とも言える。
 美しいとは、感覚に快く訴えかけてくる(「角川類語国語辞典」)ということ。
 感情は、恒常的な快・不快の観点からの、無味なものをも含む体験の質のこと。

 
20111018
 自分にとってのすべての時をその質の向上のための取組みにすべきであるくらいの、視覚に関わる「最初夏」の光を感じているような体験の質と、少なくとも一見幸福とは言えない体験の質(身体的なまた精神的な苦痛という質も含む)に対する、可能な限りでのそれをおそらく和らげるための取組みであるやさしさという一種の幸福の質の重要性は、認識として、また合わせて把握していくべきものだ。

 エピクロスの、『主要教説』のうちの「四つの薬」(「神々はなんら恐るるに足りない。死はなんら恐るるに足りない。幸福は手に入れることができる。苦痛は耐えることができる。」[ポール・ニザン、加藤晴久訳『古代の唯物論者たち』、晶文社、1974年版、55頁。また、ディオゲネス・ラエルティオス、加来彰俊訳『ギリシャ哲学者列伝(下)』、岩波文庫、1994年版、312頁、313頁。])のうちの、「苦痛は耐えることができる。」ことに関して、自身にとってのその実践的に有効な認識としては、前段後者の質に関わる認識のように把握することができるようである。前段前者の質に関わる認識もその一部だとも言えるかもしれない。さらにこの前段前者の質は、「幸福は手に入れることができる。」ことにも関わるものだが、それら前段後者及び前段前者の認識は、連続的ないし交錯的なものとして把握されていくべきものである。

 さらに、前段後者の、たとえば束の間の幸福の輝きのようなものさえの欠如感を和らげるためのできる限りでの取組みのその中には、それに適うまなざし−基本的に地球上のいのちのそれぞれの身体の旬の、つまり生き生きとしたという言葉の意味で把握されるような時ないし部分を含む光への視覚(その再構成把握残像を把握しているそれを含めての)を反映しているそれ−をも基本的に含ませるべきである。

 さらに、その時に現実の中に価値ある視覚的対象を見いだせないなら、再構成把握残像の方を見ていくくらいの取組で。これには、その結果でその再構成把握残像がより生き生きとしたものになってくる、という効果もあるようでもある。いずれも、少なくとも自身の場合には。

 
20110625-2
 自らの死は、他者の死の再構成把握残像の再構成把握のありようとしてでしか把握できないものだ。死の、特に愛する他者の死の厳粛さは、把握している幸福感の最も重要な源泉が消失するということによるものだ。それ以上のものである、としても。
 その消失の把握を含めて、忘れることで済めばそれでよいものは別として、再構成把握残像としてのものでさえあっても、心に(ないし体験の意識の中に)痛みのようなものとして残っているものについては、さらにそれへのそれを消失させる取り組みをしていく、そしてしているのでない限り、幸福の質の高まりは相対的にでも困難である、人間関係上のことでも、お金に関わることでも、身体に関わることでも。そして、この取り組みはまた、これを含むさまざまな仕事に対して、どのように取り組んでいくか、によって、自らの人生が決まる(つまりその基本的なものが構成される結果となる)、その一つの取り組みである。このことも言えるように思われる。

 
20110625
 それをできなくさせる障害を持っているのではないすべての人が、自分の人生の数十年にわたる意識的な (その再構成把握残像の再構成把握の繰り返しないし持続を伴う、休息はあっても、その必要はない取り組みなので逃げたり、投げ出したりしない) 経営者としての (私の言葉で言えば「就職-権限を得ての経営参画又は起業-経営」への取り組みの) 努力と能力を持てるようになるのでないと、人間間のゆるぎない幸福と平和は実現できないのではないか? それがとてつもなく困難な取組課題だとしても。

 
20110501-2
 新しい言葉の意味を一つ把握することは、基本的に、体験の中に存在した (現に存在することを含む) ほんの少しのないしごくかすかなでもの幸福感を相対的に一つ高め、強める、それは、新しい有効な法則性の認識を獲得したということでもある、母国語でも外国語でも、また、自分が心の中で発する言葉の意味であっても、と言えるか。世界の酷さあるいは優しさあるいは美しさというそれ、などでも。

 
20110501-1
 経済的な側面に限ってみれば、経営は、経営組織を通じての個々人の (税務で規定しているような意味での) 所得への取組活動 (但し、より正確にはその中での経営組織そのものを維持させていくことを中軸とした取組活動) であり、政治は、多数者意思の形成を通しての個々人の所得の調整への取組活動であり (なお、公的な裁判所の事務は、この意味での政治に属するものであり)、 寄付(ないし贈与)は、所得の個々人での再配分への取組活動である、と把握できるかもしれない。

 
20110320
 経営は、その出発点は、各自の生活の糧(衣食住等が可能になる-またできればより質高く、でのそれの-ための物質的対象)の確保のための活動であるが、そのための活動そのものを、より、社会に貢献していくように(より、多くの人々の幸福の質の高まりうるように)進めていくという取組みの有りようを選択していくように進めていくことは、その経営を確保していくための有用な方法選択となるものである。

 なぜなら、基本的に、そのような貢献への志を含む(相互的な)協力関係があるところに、経営上でもより有用な成果が達成していくものだから。(着想的なものにすぎない、まったくこなれていない、認識だが。)

 
20110103
 いつでも、そのそれぞれの時点からの時間において、「何かをじっと見ていると、非常に美しいものに見えてくる」ようにすると決めてそうしていると、物語のような有りようで非常に美しいものは、たいてい見えてくるようである。(この認識は、スタジオジブリの高畑勲さんの言葉からのアレンジ。) - 但し、最低限度そのような取組の時間を持てることを条件にして。


 
20101201
  「人間の旬」と名付けることができるような、共通的な状態は、可能な最も質の高い幸福を確保できている状態のこと、と言うことができる。

 優しさとは、それが可能な場合に、美しいもの(「感覚に快く訴え掛けてくる」[『類語新辞典』]もの)で、可能なすべてのものを置き換えていくこと、と言うことができる。

 経済的な豊かさへの各人自身の取組み(経営)は、各人の(また可能な限りすべての人の)人間の旬といえるような状態に向けての取組みを進める場合においても、共通的にとても重要な取組みであるが、同じく共通的に、100パーセントのものではなく、常に他の重要な取組みと並行的に追求されるべきものである、ということも、言える。

 
20100920
 「当サイト内用語索引」のテキスト中に、経営についての実践的な意味での定義を追加記入。

 
20100829-2
 記憶は、体験の中の(再構成して把握される)残像を、体験の中へ再構成して把握できる可能性であり、情報は、記憶の可能性を高める有益な手段となりうるものである、そして、その残像は、感情や、余韻や、別の残像や、再構成把握された残像を含みうる体験の中の実在の残像である、という認識の有効性のテストを。

 
20100829
 各人から見て、人間のいいところで取り入れ可能なものの取り入れが、全面的・全点的人間らしさの実現の一つ一つ。

 人間として出発点の基準であり、最後の基準でもありうる、「それが人間として正しいか、また、その時その場所で何が人間として正しいか」は、各自が、人間のいいところを可能な限り全面的・全点的に取り入れて実現されるその人間と照らし合わせてなされるべきものだろう。 

 さらに言えば、「昨日よりは今日、今日よりは明日、明日よりは明後日」というありようでより実現されていくその人間と。

 人間としての成長の目標を、そのようにより具体的に設定すると、経営目標や、C/F改善目標などと同じように、「そのために貢献できる取り組みを極力増やし、貢献しない取り組みを極力減らす取り組みを進めていく」という方法が人間としての成長について、活用できるかもしれない。 
 
20100817
 作品の把握などによる質の向上化への取り組みと、その中での生の幸福感そのものの中に存在してるかのように感じられる息苦しさや疲労感や不快感などの減少化への取り組みとは、可能な限り等価的なものとして取り組まれていくべきものだ。

 この、変化のスピードの時代の延長線上でも、100年経ても(一人の人間の一生の時間を超えても?)人の心を深く動かす−つまりそのような質の高い生の幸福感を与えうる−作品は、1000年経ても、たぶん、よほどの根本的な変化が人間に起きるのでない限り、人の心を深く動かす作品であり続けるように思われる。

 但し、その年数は、その時現在の生の幸福感の質をより高いものにするための選択における確率的意味しか持たないものであるはずである。あたりまえのことのように思えても。

 
20100717
 全面的・全点的に人間らしい人間に成長するように恒常的に努力の選択などの取組を継続していくことは、可能だと思われる。そして、束の間のそれ--幸福の輝きの体験--を除き(あるいはそれを含めても)、全面的に人間らしい人間に向けて自身を成長させていくという取組は、恒常的な取組としては、最も幸福の輝きの--そのような質の幸福の--体験の確率--密度--を高める取組の一つだと把握することができるようである。

 全面的に人間らしい人間の--たぶん体験や既得の認識から再構成把握された残像としてのそれの--構成要素としては、疲れや苦痛や嫌悪などに関わる要素が体験の中にあるとしても--恒常的にあるとしても--、それにも関わらず、可能な輝きや美しさや快活さなどが主要なものとなるように恒常的な努力の選択などを継続していくこと--その恒常的な取組--が、必要的に有効なものとして含まれる。

 経営の取組も、交際的なものを含む公務的な取組も、そのような快活さなどをそれが主要なものとなるように自分たち自身の環境を整えていく取組の、その一部だと把握することも可能である。

 
20100501
 会社、つまり経営組織を経営する人の、その経営組織を大きくするということの、各自の人生の中での位置付けについて検討して。

 現在の把握として、何より、(各自自分自身のそれを含めて) 雇用の拡大という役割がある。それだけでもとても、肝心な役割である。

 さらに、自立経営組織の拡大の機会を、被雇用者各人に対して、自己の専門的技術を含む経営技術の研修等 (現在の認識では、フィロソフィ、ないし心や考え方のありようについての認識、の選択やその継続や向上化も、経営理念の策定や認識も、実践的には、技術として把握すべきものだと考えられる。) の機会と、そのための時間の猶予を与えることを通して、増やすという役割もある。これも、今日、きわめて肝心な役割である。

 「マイクロソフト社」についても、その他すべての会社についても、そう言えるか。少なくとも以上の役割を果たしている限り (そのための、最低賃金の給付をおそらく肝心な要件として)、そう言える。

 
20100430
 束の間のものだけではないような、恒常的な生、ないし体験の、幸福の観点からの質の把握という点で、生、ないし体験の、その環境の質のありようは肝心な要素であるが、その環境の中には、各自自身の身体的環境も、たとえば、手とか、目とか、相対的に各自自身の体験の中で対象化して把握することのできる身体的器官などとして、少なくとも相対的なものとして、含まれるものである。

 また、各自自身が再構成して把握することが可能な、体験の中の、ある対象、あるいはさまざまな対象に基づいて、常に幾分かは創造的なものとして、再構成して把握されうるそれらの残像もまた、 その環境のなかに含まれるものである、と把握すべきだ。 (なお、体験の中の対象に関して生じうる直接的な残像は、環境というよりは、体験の中に含まれるもの、と、実践的には把握されるべきものだろう。)

 視覚的に明らかな、花や芽吹きの時期の植物などを含む生物の生のありようという対象や、それらの生物のありようの対象から常に幾分かは創造的なものとして再構成把握されるさまざまな生物の生のありようの残像や、人間一人一人の視覚的な姿形や表情を含むその生のありようという対象や、それら人間一人一人のありようについての体験に基づいて、やはり常に幾分かは創造的なものとして再構成把握されうるそれらの残像もまた、もちろん、その環境の中に、やはり、肝心な要素として含まれる。

 それらの、環境、ないしその環境の質として把握されるべきものの中の、「再構成把握可能残像」、付記すると、再構成して把握することが可能な、余韻とか名残などの情緒的、ないし情動的なものを含む体験の諸対象についての残像、の中には、さまざまな人生の取組課題 (取り組むべき、ないし取り組みたい課題) も、また、さらには、その取組課題の達成ないし解決のために有効な、さまざまな法則性の認識も、含まれる。

 それらの、さまざまな人生の取組課題への取り組みの結果としての (一つの対象として把握される) 現実の体験、にかかわるものとしての、さまざまな人生の取組課題への取り組みの中でさらに再構成して把握可能になりうる、その取り組みの結果としての現実の体験の、再構成残像もまた、その、「再構成把握可能残像」の中に含まれる。

 そして、ひとつの取組課題への取り組みの結果として達成され、解決される現実の体験、ないし、ある取組課題への取り組みの結果として達成され、解決される現実の体験にかかわって再構成把握されうる残像、などに連なる、「連関的取組課題」とでもいうべき取組課題もまた、その、「再構成把握可能残像」の中に含まれる。

 以上のような認識が、当面、実践的に肝心なものとして、把握されているべきだろう。

 
20100203
 「『人間として正しいかどうか(あるいは人間として--その時、その場所で--何が正しいか)』という基準は、経営上の重要な、あるいは経営上の少なからぬ課題の判断基準としても、重要な要素」だとの趣旨の言葉を、稲盛和夫さんが折に触れて述べ、それを昔から現在まで言葉通りに実践してきて、とても多くの雇用を維持し、かつその経営組織の都合でその被雇用者の解雇をするようなことのない、おそらくさらなる成長をしている経営組織を先頭に立って経営してきたことは、実績として証明されていると思われる。

(「正しい」とは、何より、「まさにそれ」あるいは「丁度」あるいは「きっかり」というような意味で、その一点を判断することだろう。)

 そして、体験の検証結果としてもこのことの重要性に気づいてきた、とともに、経営上の課題の判断基準としてもという以上に、生きること--より少しでも質の高いありようで幸福に、そしてその充実に向けてこの生を生きること--の中での多くの課題の判断基準としても、このことは重要な要素だと気づいてきた、と言える。

 できればさらに、人間としてとても美しい--立派な、尊敬できる--人間のより密度多く居る体験として把握される世界を獲得することができるのであれば、少しでもより質の高いありようでの幸福と、その充実に近づいた生を生きることになる、と思われる。

 これらの、「人間として正しいかどうか(何が人間として正しいか)」、そして「人間としてとても美しい」との言葉によって把握されるものは、これらの言葉に対応させての、自分自身の、体験の中の(人間の作品を含む)対象やその部分や、それらの残像(余韻、名残・・)から再構成して把握される、「再構成残像(余韻、名残・・)」だと言える。

 他の人々についても、この、「人間として正しいか」、そして「人間としてとても美しい」との言葉によって把握されるものは、各自にとっての同様なものではないか。

 
20100130
創意工夫の具体的な進め方の一つ

 「どのようなことへの取組であれ、創意工夫は大事だと言われ、確かにそのように思われますが、では、具体的に、どのようにそれを進めたらよいのか。

 一つの考え方ですが、具体的な有効な成果を出そうとするのであれば、自分が体験したこと、あるいは学んできたこと (但し、それらは、後者を含めて基本的に、現在と過去の体験の中の、対象ないし部分として在ったもの、あるいはそれら「在ったもの」の残像に基づいて把握できるものだと思える。) から、有効と思えるもの (基本的にはそれは、取組課題の解決に有効でありうる関連するさまざまな--科学的な--法則性の認識だと思うのですが。 さらには、科学は、私は、実践的目的に有効でありうるさまざまな事象の法則性の認識と、その検証を伴いつつ進められるその法則性の活用だといってもよいと思うのですが。) を、イメージとか残像などの言葉で言い表しているもの (その、イメージや残像は、afterimageというような意味でのものであり、かつ、余韻-after-sound-imageとか、名残-after-mental-remainsなどを含む意味でのもの) に再構成して把握し、その有効性を、その再構成して把握されたイメージないし残像で確認することを、いくつか、あるいはいくつも可能なのであればそれらをいくつも、やはり再構成するイメージないし残像の中で検討することを試みていくという進め方(方法)が考えられます。試行錯誤を、再構成イメージないし再構成残像の把握の中で行っていくといってもよいかもしれません。有効と思えるイメージないし残像を再構成して把握することがまったくできないような時間が継続する場合でも、その場合でも、最後までその取組の中で実際の選択や行動はすべきなのだと思います。」

 追加すると、「連想」でも、単に「想像」でもなく、こなれていない言葉だが、今の時点では「再構成残像の再構成把握」と表現すべき取組が有効だと思える。

 どの時点での、また、どのような再構成残像の再構成把握であれ、体験の中の対象ないし部分として在ったもの、ないしそれらの残像と、まったく同じ再構成残像が(再構成)把握されることはありえず、あくまで再構成されて把握されるものなのであって、つまりは、創造性の要素が (よかれ悪しかれ) その中に必ず含まれることになると思われる。

 
20091121
 生きているこの世界の、いずれかに、とても--うっとりするくらいに、どうにもならないような苦痛やつらさも相対的にでも消失させるくらいに--美しい対象や環境が現実に存在している--そしてときどきはそれを「つかの間の幸福の輝き」のように現実に体験したりもする、そして、残像や再構成残像の体験ないし把握はそれ自体現実の体験の一つではあるにしても、残像や再構成残像とは少なくとも相対的に異なる現実として体験したりもする--という認識と、そのような対象ないし環境についての、残像や再構成残像 (創造的想像) の把握、ないし把握の体験との関係については、認識も再構成残像の一つといえるのかもしれないが、認識は、体験の中で、おそらく目的ないし実践の観点から--それも密度的な恒常性の把握という目的や実践の観点から--有効な法則性を持つものとして、把握されている再構成残像なのだ、といえるだろう。

 そして、その認識は、なにより、選択、ないし方向性設定ないし実践のうえで--それ (認識) に支えられて、ということを重要な要素として含めて--有効になるものだ、ともいえるように思われる。
 
20091120
 本屋さんに来る人たちは、相対的に、その時かぎりの--基本的には各自にとってたぶん質が高くはない--ものより、より恒常的(constantly)な、基本的により質の高い喜びないし幸福を求めている人たちといえるではないか。図書館に来る人たちの場合、これも相対的に、かならずしもそうではないような気もする。

 
20091109
 再構成残像 (視覚的なそれだけでなく、聴覚的な余韻とか、さまざまな感覚的な体験の質の複合体的なものでもあると考えられる感情ないし情動的な質の、その名残のようなものも、この言葉の意味に含めてのそれ) の把握は、現実の体験の質のためになされるべきであり、現実の体験の質は、現実の中に含まれていると考えられる、現実が望み、欲する、たぶん最良の、一番好きなものである、さらにはおそらく自身にとっての人間の最良の古典的作品の質に近接しているような再構成残像の方向に向けて、その把握をしていくべき、と考えられる。現実と再構成残像との関係は、そのように把握すべきものだ、と。

 
20090820
 残像・残映・余韻・名残やそれらの再構成などとしてはいくつでも把握できる、とも把握できる忘れてしまいたいことに直面した場合に、それを忘れることについては、基本的にはそれを相対的にでも消失させる−幸福とまではいえなくてもよい−快さ・快適さの把握、というような取組によって取り組まざるを得ないし、また取り組むべきものだろうが、その取組は、忘れていることができるところまで−その質のところまで−でよい?

 実際的にはすべてそのようにしてそのような場合を切り抜けて--ないし克服して--きている?

 忘れてはいけないこと、は、むしろ、それ−忘れたいこと−を相対的にでも消失させることのできる快ないし喜びないし幸福の把握という取組の方である?

 これらはなお−ことこまかく検討しての−試験・試行を要している課題。


 
20090818
 「喜びは(幸福は)過去の試練をもはや勘定に入れないものだ。」
 (ロマン・ロラン著、渡辺淳訳、角川文庫 『ピエールとリュース』の中の言葉の、少しのアレンジ)。

 しかし、「いかなる快楽(喜び、幸福)も、それ自体は悪いものではないが、ある種の快楽(喜び、幸福)をつくり出すものは、それらの快楽(喜び、幸福)そのものよりも何倍(何千倍)も多くの煩い(つらさ)をもらたすのだ。」
 (ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、岩波文庫 『ギリシャ哲学者列伝・下(第10章、エピクロス)』の中の言葉の、少しのアレンジ)。

 
20090812
 『月が欲しくなっても(幸福が欲しくなっても)顔を赤らめてはいけない(恥ずかしがってはいけない)。我々には月が(幸福が)必要なのだ。』(ジャン・ポール・サルトルがポール・ニザンの『陰謀』(鈴木道彦訳、晶文社)[『アデン・アラビア』(海老坂武訳、晶文社?] 再刊時の序文で引用したニザンの言葉のアレンジ。日本語訳、晶文社、ボール・ニザン著作集の、この書籍出版時の帯にのみ記載されていたコピーだとすると翻訳者は未把握。)

 
20090809
 『人間は互いに--何がその人にとってより幸福なのかを--認識しあい、幸福を与え合うために生れてきた。・・・』(ポール・エリュアールの詩−嶋岡晨訳−のアレンジ。相対的に各自がより幸福に生きるためだとしても。)

 
20090719
 「“喜びは、自分を忘れることにあるのだ”と。」 [これについては当初自らに関しては△と考えていたが、幸福--ある質の快さ--それは、『自らの苦痛の相対的な消失を含むそれ』であるが、『それ』---に在る・・090718---という点で、そのような意味で、以下引用部分へのコメントを含めたすべてに適用されるものとして、〇と把握すべき。]

 「だから私は、人の目に入る光をわが太陽とし、」[幸福な時間の中に居る人の幸福なそれ(人の目に入る光)を、自分自身の体験の中の光の残像とし、〇]

 「人の耳に聞こえる音楽を私の華麗なシンフォニーにしよう。」[幸福な時間の中に居る人の幸福なそれ(人の耳に聞こえる音楽)を、自分自身の体験の中の音楽の残像とし、〇]

 「人の唇から漏れる微笑みを、自分の幸せと感じられる人間に」 [幸福な時間の中に居る人の幸福なそれ(人の唇から漏れる微笑み)を、自分自身の体験の中の幸福の残像とする人間に、〇]

 「私はなりたい。」[なることの選択と実現を、として〇]

 「知識は愛であり光であり、未来を見通す力なのだ」 [幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関するその存在と変様(variation)---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識は、愛であり光であり、未来を見通す力なのだ〇]

 「すべてのものには名前があった。」[すべてのものは、名前を付けることでより正確にその存在と変様--の質の選択と実現090718---ついての有効な知識及び認識を把握しやすくなるし、その結果としてよりよく把握できる〇]

 「そして名前をひとつ知るたびに、新たな考えが浮かんでくる。」[幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関する存在と変様(さまざまなありよう)---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものになっていく〇]

 「家へ戻る途中、手で触れたものすべてが、いのちをもって震えているように思えた。」[たとえばこのように、幸福な時間の中にある人の幸福の体験に関する存在と変様(さまざまなありよう)---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものになっていく〇]

 「雲にさわることはできないでしょう?
それでも雨が降ってくるのはわかるし、
暑い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう?
それは愛と同じなのよ。
愛も手で触れることはできません。
だけど、愛が注がれる時のやさしさを感じることはできます。
愛があるから、喜びが湧いてくるし、
遊びたい気持ちも起きるのよ…」
byヘレンの家庭教師アン・サリバン
(ヘレンに「愛」を教えるときに語った言葉)

 「頂上へは楽な道などない。」[幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関する存在と変様---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものになっていく。としても、楽な道などない〇]

 「それなら私は自分なりにジグザグに登ればいい。」[楽な道などない、としても、まちがえているのでなければその道を。〇]

 「“知識は力なり”という。しかし私は、知識とは幸福だと思う。」幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関する存在と変様---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものに---というより、自らの場合では『自らの生が自身にとってのより最良の人間の古典的作品の選択と実現に近いもの』に090718---なっていく、という観点から、知識とは幸福だ。〇]

 「一人ひとりが、緑の地球とささやく水の記憶を潜在意識の中に持っている。」[〇]

 「だから、たとえ目と耳を失っても、
この過去からの贈り物を奪うことはできない。」[〇]

 「目の見えない人間が、手で触れただけで、
冷たい大理石の中に動き、感情、美を読み取れると聞いて、
不思議に思う人も多いだろう。
それでも、偉大な美術品に触れることで、
私が心からの喜びを得られることは事実なのである。」[〇]

 「すべては驚きに満ちている。暗闇と沈黙の世界も例外ではない。 だから、私はどんな境遇にあっても、満足することを[---以上の前提ないし内容で---]学んだのだ。」[幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関する存在と変様---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものに--というより、自らにとってのより最良の人間の古典的作品の選択と実現に近いものに090718---なっていく、という観点から、「すべては驚きに満ちている。暗闇と沈黙の世界も例外ではない。だから、私はどんな境遇にあっても、満足することを[---以上の前提ないし内容で---]学んだのだ。」との言葉がわかるような気がする。〇]

『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(同タイトルのホームページ)より。
当初20090520。
 
20090420
 これまでに(残像にかかわるものだろうが)自分が学んだことを実践しつつ、自分にとって(また各自にとって)新しく学ぶことができる有効な(基本的には技術化可能な法則性の認識に関わるものだろうと思われる、自分にとっての、また各自にとっての新しい発見を含むものである)何かを学んでいくこととを、並行的に進めていくこと。

 
20090329
 「多くの人にとって、さらにできればすべての人にとってわかりやすい」より高い質の幸福を獲得し体験していく、という限定をしての取り組みをしていくことは、その質の高上への確率やチャンスを、増やすことになると思われる。

 さらに、その質の向上は、主体とその環境との相互影響関係のもとでの、主体からの取り組みの成果でもあるものとしても獲得されていくもので、基本的に直線的なものではなく、時空の中で、らせん的な、ベクトル量的な結果としての高さ・位置・水準を占めていくことによって獲得されていくものだろう。

 それらの取り組みの中で出発点として重要な要素となると考えられる、素直さは、なにより主体自身の感受性への忠実さであり、同じくその結果的なものとして重要な要素となると考えられる洗練という取り組みは、何よりその素直さを、体験の質の向上へ向けて洗練していくという取り組みだ、とも思われる。

 取り組みの一つとしての仕事には、つらい現実の部分を癒し和らげたりする取り組みと、楽しい現実の残像や余韻や名残を創造的に再構成して現実化する取り組みとが、一応考えられ、質的相違は、もちろんありうるが、前者が後者でもあり、後者が前者でもあることは、ありうる。

 それらの取り組みとしての仕事の中で、稲盛和夫氏が折に触れ、『実学』、『高収益企業の作り方』などの書籍などに発表してきているような意味での、「人間として正しいかどうか」を基準とし、「社員一人一人が経営者」という考え方を土台にして経営上の数値をすべてガラス張りにした上での、「売上を最大にし、経費を最小にしていくことを通して企業の高収益を確保していくことを指標にして、その収益がすべて社員全員に帰属するものと考えての社員一人一人の時間当たり採算性を高めていく」という基本的な技術を中軸にしていると、現在時点で考えられる「経営」への取り組みは、多くの人にとってもわかりやすい、より高い質の幸福を獲得していくための有益な取り組みだと思われる。
  自分にとっての人間の古典的・亀鑑的作品から学び、体験的・批判的・創造的に再構成していくということをとおして、多くの人にとって、さらにできればすべての人にとってわかりやすいより質の幸福を獲得し体験していくという取り組みと合わせて。

 また、経営の中で、その主体としての社員(構成員全て)がその属する企業をとおして、その環境である社会に対して供給・提供していく仕事とその成果は、経営の不可欠な一構成要素ではあるけれども、経営そのものとは一応区別される取り組みとその成果であるものであり(つまり、経営そのものは、その社員の属する企業の存続を直接の目的とする取り組みとその結果であるものだと思われ)、その仕事の成果は、それと「等価」だと判断されて支払を受けられる代金(といういわば物質的質面)によってだけでなく、その仕事の成果そのものがその環境である社会に対して供給・提供していくその影響効果そのものによっても(その精神的質面で)、その主体としての社員自身の幸福の質の向上が得られうる取り組みとその成果であるものである。

 公的な仕事の場合、その社会に対して供給・提供していく仕事の成果の代価は、その社員が属する企業である公的団体や、その団体をとおしてそこに属する社員に対して、個別対応をもって支払われるものではなく、その社員の属する企業である公的団体に属する社員全体からその社会に対して供給・提供される仕事の成果の「総体」に対して、その「総体の等価」であると評価される代金が、議会決定基準(法律他)に基づいて支払われているといってよいと思われる。但しこの公的仕事の場合、前段に記載した動的・相互関係的構造については、特別問題なく同じであると思われるが、前々段に記載した、時間当たり採算性については、考えうるのかどうか。

 検討してみると、その社員全体が、総体として社会に供給・提供した仕事の成果であるものの等価として、次期の予算に関する議会で評価されて決定される金額として(場合によっては年度内修正予算もありうるのかれしれないが)計算されるという条件でだが、同じだと言えるのではないか?
(このように考えられて、次期時間当たり支払受け代金が上昇する場合、今期社員にとっては、総体として受ける代金に対して、その社会に対して供給・提供する仕事の成果の方が高い価値のものということになるが、その供給・提供する仕事の成果そのものの効果による精神的質面での質的な向上については、公的仕事の特性として、その分高いものになっているということも言えるのではないか[逆もいえるだろうが。]?)

 但し、以上の企業が、会社である場合には、法律(会社法)上、株主が経営に携わる社員を選任する権限を持つことになるので、「その収益がすべて社員全員に帰属するものと考えての社員一人一人の時間当たり採算性」は、社員がその会社の全株式を所有することによってのみ実現されるものであり、そうでない限り、株主の意向を考慮した相対的なものとなるものである。さらに、以上の企業が会社であれ、公的団体であれ、個人企業であれ、そこに属する社員は、基本的に雇用−被雇用の法律関係上の地位をそれぞれ持っており、その制約を持ってのものである。

 (以上のメモも、下記20090222付メモと同じ勉強会に参加して学んだことと、さらに再構成したものとして。・・言葉もわかりやすく、は、難しい・・。)
 
20090316
 数量も質の一種なのだと、言えないか?

 体験の中の物質的なもの[物質的な質]に主に関わって認識される「数量」自体が、各自の全体験の諸法則性の認識の観点から数量的な法則性を持つと認識される、体験の中の事象に関する法則性という(ないしその認識という)、体験の中の事象の、質の一つなのだ、と言えないか?
(あるいは、当然そのようなものとして一般的にも把握されているのだろうか。)

 そうだとするとさらに、
(意識や、その中の、過去の体験の残像や余韻や、その呼び起こしの要素を持つ想像や、他の生命体、特に動物やなかんずく人間の持つそれらに他ならないと思われるものとの共振・共鳴・共感などの、
精神的・心的なもの[精神的・心的な質]の事象に主に関わっている、生きているその時と時間の)
幸福のその質の度合い(ないしその質の高さ)を思い、考え、検討するという場合、
単に比喩的な意味としてだけではなく(相対的なものであっても)、
その度合いは、
そのような意味での、数量(という質)として、把握していくことは、
できるのではないか。
--物質的な質の数量の法則性に基づいて計算することはできないことはもちろん、物質的な質の数量の法則性の類推もできないものだ、と思われるにしても。

 もっと簡単に言って、実践的・体験的に、「よりよい(より高い質の)」人生、あるいは「よりよい(より高い質の)」世界は、体験しうる(逆もありうる)、さらには部分的なテストをして、計測することさえできる、と?

 具体的・実践的には、温かさや優しさを含む意味での質の高い(困難なことだが他者への自慢を含まない)美しさ、 立派さ、見事さなどがそこに在る街や森を、持ち場で作っていく取り組みを通して?

 
20090222-1
 「(就職・起業・)経営技術」の、いつも中心的な要素として把握されて実践されるべきものは、一見技術とは矛盾しているように見えるが、共に幸福に生きるという要素を含む倫理。(少なくとも現在、倫理も技術の一つと把握できる。)

 少なくともこれによって、その経営組織が社会に供給していく(代価をその要素として含む)サービスに対する社会的信頼が高まりうるとともに、自己の経営判断においての自信をより確かなものにすることができる。さらに、従業員の信頼も、よりよく獲得して行くことができる。いずれも、大きな要素だと思える。
 (以上、ある勉強会[講演会と意見交換会]に参加して学んだことの適用の1として。)

 
20090222-2
 終局的に経営技術がその終着点として目指されるべきものである「就職・起業・経営技術」での、経営とは、雇用の創出と維持と向上である、と言ってもよい。但し、長期的には、習得・修習期間としてのみ位置づけられるべき、被雇用労働としての雇用の創出である、と。
 個人事業主の場合(には雇用主である経営者と被雇用者とを兼ねているの)はもちろん、組合や法人事業者としての経営者の場合でも、そのように言える。この意味で、被雇用者も、自己の就職技術の習得適用の成果としてさらに、被雇用者ではない経営者になることを目指すべきである、とも言える。
 (経営は、より一般的には、基本的に各人の人生のそれぞれその時間における現状での物質的質のありようの、再構成を含む構成のための活動であり、政治は、今日、基本的に被雇用労働法制を基軸とする法律システムの、再構成を含む構成のための、各人の、意思表示と選択の活動である、とのそれぞれの認識の、妥当性と射程のチェックも進めること。)
 (以上、ある勉強会[講演会と意見交換会]に参加して学んだことの適用の2として。)

 
20090222-3
 経営者が、社員を育てることは、(司法書士、行政書士の仕事の観点から特に)その経営組織の後継者を育てることと同時的に、ないし並列的なものとして、取り組まれるべきものだろう。
 (以上、ある勉強会[講演会と意見交換会]に参加して学んだことと、自分自身での適用の3として。)

 
20090118
 幸福に生きる(それもできる限り高い質のものを確保して生きる)という場合の、その幸福の質という観点から、体験の中の「精神的・心的な質」の高さ(質が高いと−また、低い、と−体験されること)は、体験の中の「物質的な質」の高さ(質が高いと体験されること)と、一応区分して把握することができて、しかもそれと不可分と言える(境界的なものもあるにしても)。さらに、体験の中の精神的・心的な質は、「他者(基本的に他の生命−特に動物たち、それもなかでも人間たち−)の体験の中の精神的・心的な質」として−自身において−体験される質と、共感・共鳴・さらには情動等々としてだけに限られず、基本的・恒常的に不可分的なもののようである。(構成要素となっているのかもしれない−アンリ・ワロンの著作に記載されていたように。)

 また、体験の中の物質的な質の高さを確保していくこと、また高めていくことは、体験の中の精神的・心的な質の高さを確保していくために、時間と場所によっては不可欠でもありえ(基本的・恒常的には、意識を持っての生存のための、体験の中の物質的な質の高さ−その一定水準−は不可欠だともいえるが)、さらに、体験の中の精神的・心的な質の高さを確保していくために、有効でもあり得る。

 具体的な取り組みとして、体験の中の物質的な質の高さを積み上げていくこと・高めていくことそれ自体は、過去の体験から大まかに見ても、一般的・共通的に可能であると思われる。さらに、これに伴う・その成果としてのありようでの、体験の中の精神的・心的な質の高さを積み上げていくこと・高めていくことも、同じく、可能であると思われる。(逆に、体験の中の物質的な質の高さを高めていく取り組みを伴わない体験の中の精神的・心的な質の高さを高めるための取り組みは、その成果において、零といえるような質のものになってしまうことが、体験的に見て、少なくなかったようにも、思われる。)

 数学は(算数であっても)、それが適用できる、体験の中の物質的な質の高さを高めること・積み上げていくことについての、そのために有効な法則性の、より正確な近似値を得る有効な手段になるものだ、ということができると思われる。その質の高さという差異そのものを含む、その質の高さを高めること・積み上げていくことについての有効な法則性の、さらにより正確な近似値を得る計算を、機械化してそれを操作できることによって得られうる、という観点からも。
 少なくとも、経営組織の中での被雇用者としての職の仕事を含む、また起業を含む「経営」において、その「会計」で使用する算数について、そのように把握することができる。


 
20090104
 少なくとも人の一生のうちで、同じ時間と状況は二度とない、ということは、一見、とてもよりよく変動させることなど不可能に見える部分であっても、少なくとも、よりよく変動させうるために有効な法則性を見出すことはできないと判断することは、できないということ。

 論理的法則性、数学的法則性、語学的法則性、物理学的法則性、医学的法則性、精神・心理学的法則性、経済学的法則性、その他、個々人の生活の中に見出しうる、その個々人の、幸福に(という言葉で共通的に把握できるように見える、そのありようで)生きていくことにとって有効な法則性についての認識、などが考えられる。たとえば、経済は、個々人の経営の総体だという法則性の認識の、有効性の当否についても、検討(ないし検証)不可能ということは、いえないだろう。(補足:「経済は、個々人の経営の総体だ」という認識は、「経営」に、個々人の生活消費の部分を含めない意味においては、正確ではないけれども。さらにこの点については、より明確に把握していく必要があるが。)

 さらに、それらの探索を含む、作品鑑賞そのものとはいえない一切の活動や取り組みが、実務的な実践であるときでさえも、同時的に鑑賞でもありうる、と思われる。意識を持って生きている限り、 (精神的なものも含めてさまざまなパリエーションで体験する)痛みなどが主な取り組み対象でしかありえないような、それしかできないような時間においてさえも・・。

 
20081230
 人生の根本的状況は、「二度と同じ場所には戻れない四つ辻に常に居る」という状況なのだが、幸福に生きている時間は、その認識は忘れていてもよいのものであり、そうでない時間においてのみ、その質の高さの度合いに応じて、相対的に有効な法則性を−生活全体を見渡していって−見出して、それに賭けて、生きて、生活していくべき、なのだろう。

 
20081220
 生活のできる限りすべてを、自身にとっての好みの、人間の古典的作品の部分に連ね、その部分を活かし、可能な選択をし、形成していく、ように。実践的にはその部分への取り組みからだとしても、生活全体の意識ないしイメージは、基本的・恒常的に必要で、それの欠けた実践は、間違いかもしれない。

 
20081130
 感情や感覚のすべてを含む刻々の体験の意識の、恒常的なありようの総体が、幸福の質の基本的な高度を表している、とは言えるだろう。

 その、恒常的なありように対して働きかける具体的な方法として、その質を高め得るような対象を、飽きるくらい、ないし疲れ切るくらい見聞きし、また思う、という取組が考えられ、これは、体験の意識で反証されないようである。

 その取組の中での体験の中の、時間という質及び取組の強度という質に関して、どうしても他に取り組まなければならない対象(基本的には身体的・経済的なものに係わると思われるそれら)がその体験の意識の中に出てきた時に、その課題に直ちに取り組むことは、選択可能な範囲でそれぞれへの強度を選択しつつ、一緒に、ないし同時的に、可能でもあり、これも、体験の意識で反証されないようである。
 
 
20081124
 「探索」というよりむしろ「おさらい」だが、エピクロス(ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、岩波文庫、『ギリシャ哲学者列伝・下・第10巻・「エピクロス」』など)などが生きた西暦紀元直前頃のギリシャの時代に哲学の主要テーマであったといわれる、「幸福に生きる」--alive in pleasantness (of high quality)--というような--意味でのそれの--ための「技術」というようなものも、個人的な観点からその有益な法則性を探索して、獲得していく、ということも、少なくとも不可能とは言えないと思う。

 --が、何を幸福と思うかなどの個人的質差(性質に基づく差異)が、個人的な観点から見聞きする限りにおいてでさえあまりに大きすぎて、人間のさまざまな古典的・亀鑑的作品に対して、それに加えられるような、共通的により有益であるような法則性の認識に基づく「技術」の獲得などというものは、それら個人的質差の刻々の情報のすべてを把握することが不可能に近い以上、不可能に近いものかもしれない。

 それに関してごく個人的により有益であるような法則性の認識に基づく技術の獲得と、それを生かした取り組みということさえ、個人的に極めて困難な、確実性のごく低い取り組みにすぎないものだが、それ自体経験ないし体験の全体から見ても必要なものであると思われるし、また、共通的なものとして何かの獲得が可能になる--かもしれない--とすれば、それもたぶん、このことを通してではないか、とも思われる。

 
20081115
 サイトマップ-V.-トピックス(法制度)-に、「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」、「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」の要点を加入し、その他、同法律施行による必要な事項を加入。また、会社法施行に伴う改正事項の加入を一応完了。

 
20081113
 出発点は、幸福、それもよりよい質の幸福、それを思い浮かべるところからだが、結局それは、よりよい質の世界と社会を思い浮かべるところから、ということになるようである。そして、その可能になるかもしれない実現に向けて試みていくこと、そして確かめていくこと、検証していくこと、が続くようになるように。職の仕事やその他一切を通して。今は少なくとも。こんなことがとても困難なのだけれど。
(一見、金儲けが全て、であるようなこの世界と社会で?あるいは、戦争がすべて、であるような人々が生活してるこの世界と社会で?)

 
20080504-2
 軍備で戦争を予防することはできておらず、また、同様に今後もできないと考えられる。

 戦争予防のためには軍備以外のよりよい社会的世界的な経営及び平和安全保障制度を形成していくことが要求されている。

 なお、経済とは個々人の経営の集積されたもの(語源的な意味での経営のコングロマリット)であると考えられる。

 既存の軍備は、国連のそれを含めて、現に生まれている戦争ないし武力紛争を、その戦争下で生活している人々の抵抗権の行使としてのみ、与えられ、使用されるべきものだろう。

 よりよい経営の社会的世界的保障制度は、たとえば、既存の、個別的国際的援助運動や、国連諸組織や、経営力の高い者が低い者を食いつぶしていくことないしその自由への規制の各国の制度、たとえば金利、賃金、労働時間、中間搾取の規制などの各国の制度、EU各国の年金制度や経営労働機会保障制度や医療保障制度、キューバのそれらの制度、グラミン銀行の制度、などを参考に、形成していくことになる。

 日本の場合、今後特に、高齢者や障害者の実質的に可能な経営労働機会保障制度のよりよいものの形成が要請されていると考えられる。

 各人の経営技術(就職や起業を含むそれ)は、以上のような社会的世界的経営及び経営機会の保障制度を、また、それらとの相互的なものとしてそれぞれ前提してのものとなるべきものである。
 
20080504-1
 現在の体験の意味を考えることは、一番幸福だった時ないし体験のイメージないし記憶などないしそれらの名残と照合することと把握できる。現在の実践ないし体験の実践の意味を考え、位置づけることもそうだ。そして、それに近いないしそれ以上の質の時ないし体験のために、実践的にも、何より人間として尊敬しうるという要素がそこに在ることが要ると考えられる。


20080312
 特に実践的に、想像的(想像し、またされ、またしようとする)イメージ環境過程は、現実的・物質的環境過程の、なんからのありようでの身体的(という現実的・物質的)な再構成環境過程なのではないか、とも思われる。その環境過程間の相互区分は相対的なものでありうるとしても。また契機は、残像とか余韻などの、反映と把握できるようなものである、またあったとしても。

 時と場所が全く同じことはありえないから、その再構成環境過程は、創造の要素が不可欠的に伴うもの、でもあるとも思われる。


20080226
 話され、示され、書かれる言葉も、同じく数も、同じく数式も、そのような機械化の一部といえるかもしれない。各自の身体からの相対的独立性の質は異なるにせよ。但し、これについては、「パソコン情報化」を含めて、「書かれた」質のもの(「作品化された」質のものといってもよいかもしれない)でないと、機械化とは、言うべきではないかもしれない。また、その言葉や数や数式のイメージを持ち、操作すること、それ自体は、同様に、「機械化」と言うべきではないかもしれない。いずれも、実践的に判断すべき問題かと思われる。


 
20080224
 ある事象に関する法則性の認識の高さないし深さは、その時点までの、その事象についての法則性の認識の高さないし深さを前提とする技術的手段を前提として、とくに機械化(同時に共有化)が可能な技術的手段を前提として、初めて、高めないし深めることが可能になるものだ、といってよいかもしれない。
 
しかし、人間自身の(主体の)情感とか意欲とかに係わる部分の法則性の認識については、技術化することも、技術を端的に機械化することも(数式に表して計算することはもちろん,端的な言語化をすることさえも)困難だから、文学とか、絵画とか、映画とか、音楽とか、環境の観察表現記録とか、諸感覚さらには諸情感や意欲への可能な触発への働きかけの実践記録とか、さらには職の仕事や日常的生活のすべてを通して、その法則性の認識の技術化を行い、さらには、同様なものの延長としての可能な機械化を進めていくしかない、のだろうか。

関連して、快さの高い質の中枢的な要素である(質である)美しさの質は、その対象の法則性とともに、主体自身の情感とか意欲とかの質のありようの法則性に、不可分的に関わっている法則性を有している、と言えるのであって、その有益な、法則性の高いないし深い認識の把握をしていくことは、より困難である、ともいえるのてはないか。(意識のコングロマリットの法則性は、その対象のコングロマリットの法則性と不可分的なものだ、とも。)
 
とすれば、あるいは、としても、困難でも、その有益な法則性の把握と、可能な技術化と機械化と、それを活用しての実践とを試みていく、ことにすべきなのだろう。(経験的に、「束の間の幸福の輝き」というようなものは、ごくまれにであっても、体験されることもある以上。)

経済は、そしてその経営は、これももろろん上記の実践の中で、それ自体、想像力の働かせの結果としてのものを別にして情感はともかく、恒常的に端的に少なからぬ意欲は持てるものとして、体験的に判断できる位置づけで、取り組んでいくべきものだろう。  



20071213
 「つらさ(つらいそのありよう)」とは、実践的に、何より、期待しない肉体的苦痛が生じること、その他期待に添えないこと、のその度合いが、激しいものであるときの、その意識。
 「悲しみ」とは、実践的に、その中に含まれる喜びないし快さを、それを意識すればその喜びないし快さの貴重さを気づかせてくれるもののこと。
 「寂しさ」とは、実践的に、喜びないし快さへの、諸感覚の触発による発動を、より強く意識に与えるもののこと。



20071125
 心ないし意識の人間的な豊かさ(複合体としての質の高さと、その高い質の密度の濃さ)は、意識的なその獲得への実践の成果でもあるけれど、そして、相互的なものでもあるけれど、その心の環境(身体的なそれを含む)の人間的な豊かさに、何よりその諸感覚が触発され、発動されて存続する、と言えるのではないか。



20071124
 今日の、山梨日日新聞に、フェルメール「牛乳を注ぐ女」に関しての、小林頼子さんという方(目白大教授)の解説記事があり、「写実とは、現実に基づいて、現実よりも現実的なものを作ること」というような趣旨の記述があった。

 しかし、その「現実的なもの」とは、何か。実践的に、と考えてみると、「幸福にとってよりよい諸感覚の発動の、触発(ないしそれが得られるもの)」として把握できるか。(記憶というものの、--意識に依存している、というよりはむしろ、身体におそらく大きく依存している--その働きに大きく依存している、「想像覚」というような感覚を含めての、諸感覚の・・。11月17日のノートを上書きして消してしまった! 書式を使って記述を! backupから下記回復。)




20071117
 人生の成果として獲得していくべきさまざまな、ないし可能な幸福の、源泉となる対象の本質的属性としての深い愛--目に見える、また耳に聴こえる、などだけではないような深い美しさを対象として獲得したときのような体験--の獲得について。

 その「獲得」とは何か。実践的には、それを獲得しようとする意識の、姿勢、ないし努力、ないしたたかい、そのものと、その成果との、その両方を統一的に、ないし複合体(コングロマリット)的に含むものだろう。特に前者が欠けてはならないものだろう。(「フォイエルバッハについてのテーゼ」(カール・マルクス)も参照。)




20071028
 「人生の根本的状況は、二度と同じ四つ辻には戻り得ない四つ辻に、常に立っているという状況だ。」(ポール・ニザン、鈴木道彦訳、『陰謀』(晶文社他)から。)苦痛と絶望のどん底に居る時にも。幸福の絶頂に居るときにも。

 この法則性の再確認、再認識を、常に見失わないように。かつ、体験と経験の記憶の、すべてを踏まえて、その選択ないしその取組を進めていくように。

 さらに、ささやかな美しさも、あたりまえのようなやさしさも、あたりまえのような命も、あたりまえのような意識も、あたりまえのようなちょっとした、ほんの少しの幸福も、すべて「この世界(宇宙)の奇蹟」のようなものでも、あることも。




20070922
 認識と記憶について、--特に体験の中の、幸福感の(その逆の方のものではないものの)認識と記憶--について。

 記憶の方は、時の経過と共に必ず薄れるものだと言えるだろう。体験の中の、幸福感の逆の方のものの記憶は、薄れてもかまわないものだろうが。

 体験の中の、幸福感とは逆の方のものが、現体験として不断に強く感じられてしまうとすれば、それ自体を、なんらかの手段や努力や活動で消滅させる努力や活動は不可避だが、その努力ないし活動は、現体験の中の、あるいは記憶の中の体験の中の幸福感の、なんらかの増強(質の増強)への努力ないし活動と合わせたものでなければならないはずのものであり、記憶が時の経過と共に薄れていくものだとすれば、それに抗する努力や活動も含むものでもなければならないはずのものだ。

 認識は、このような認識を含め、なぜか、薄れる度合いが低い、といえる。 おそらく、深められた認識についても。認識は、意味(たとえば幸福感という言葉の意味)の記憶に支えられていても、あるいはむしろ、意味そのものとして、現体験といえるのかもしれない。



20070623
 個人の経済的富裕度と、属する階層としての経済的富裕度について、「その(-いわゆる経済的な)」(「富裕度の高さ」の選択と体験と制作の上で有益な、共通的な)基本的法則性を把握し、表現すると、

 一定又は特定の階層に属させる結果とさせる基本的なその有益な法則性として、

 職業としてその人の継続的に供給するものの対価としての、その特定又は一定期間に得ていく金銭又はその代替物の金額について、目標とする特定又は一定期間、継続的にその金額を得ていくことを可能にさせることになる基本的な要素は、

 「その供給を受けた人がその金額が妥当であるとして、その直接の対象の個々人と、評判として認識されている個々人が、その供給者個(々)人が職業としてその総体として供給する本来的商品(物に定着されたものだけではない、その供給を受けることによって本来的に付帯してその供給者から受けることが可能になる役務を伴うものであって、「その供給者の存在とその本来的附帯役務を受けられるということを伴う意味でのその『本来的供給商品』」)への信頼度の深さ(という質)が、一定の水準になっており、その一定の水準になっている直接の対象の個々人と、評判として認識されている個々人の総体が、一定数量に達している、という要素」である。

 なお、職業としてその供給者個(々)人がその総体として供給する本来的商品は、何らかの経営組織を介して、他の個々人に供給されていることは、すでに、明らかにしている。

 人生の選択上での、当面の、また長期的な目標として、階層としての富裕層に(すなわち、年間平均所得収入と蓄積資本としての財産が富裕な水準となっている階層に)に属するものとしていくか、富裕層には属さないものとしていくか、の選択とは、別個のものとして、その基本的な法則性は存在する。

 それゆえ、富裕層に属することあるいは属さないことのいずれを目標とする場合にも、

 「その供給を受けた人がその金額が妥当であるとして供給を受けるところの、その直接の対象の個々人と、評判として認識されている個々人とが、職業としてその供給者個(々)人がその総体として供給する本来的商品(物に定着されたものだけではない、その供給を受けることによって本来的に付帯してその供給者から受けることが可能になる役務を伴うものであって、「その供給者の存在とその本来的附帯役務を受けられるということを伴う意味でのその『本来的供給商品』」)への信頼度の深さ(という質)が、一定の水準になっており、その一定の水準になっている直接の対象の個々人と、評判として認識されている個々人の総体が、一定数量に達している、という要素」を獲得していくべく、その職業としての学習及び実践をすすめていくべきである。

  その学習と実践の中で、専門的技術力の一定の高さと、会計技術力の一定の高さとの獲得も必要であることも、すでに明らかにしている。上記の段での「信頼度の深さ」を獲得するための技術(認識とその活用)と、この段の二つの力の獲得のための技術とを合わせて、「就職起業経営技術」と呼ぶこともできないことはない。

 会計技術に基づく目標値は、実際の(資金収支管理の思惑などから調整記入した会計値などではできるだけないところの)会計値に裏付けられなくてはいけない。(この趣旨のことは、稲盛和夫氏が繰り返し語っている。)



20070422-3
 「偉い人」とは、(人間としての、と、ここで言っていいかどうか不明だが)地位や身分や能力が自分で高いないし優れていると思っている人、ないしそのように自分で感じている人のこと。「立派な人」とは、地位や身分などにかかわりなく、人間として尊敬できる人のこと。---一応の定義として。

 夏目漱石が、友人達と考えていた後輩達に、「偉い人」になるように、それも「花火を打ち上げるような仕方によっでなく、地道な仕方によって」(実際の言葉が思い出せないが)なるように強く進めていた手紙を書いていたという趣旨の記事を、実際の文面としても、これもおそらく新聞で、読んだことがあるが、上記の意味で、「偉い人」だったのかどうか。その意味も含まれていたような記憶もある。



20070422-2
 JANJANの記事--『ビデオが語る沖縄教科書検定問題の真実〜「集団自決」の軍関与否定の背景 2007/04/15 』から。

『集団自決のあったときのことを金城さんは次のように語りました。

 「米軍が座間味島に上陸したのが3月26日。その日に集団死を遂げた。渡嘉敷に米軍は27日に上陸。翌28日に集団死を遂げた。その経過を説明したい。

 米軍が上陸するとすぐ軍から米軍の陣地の近くに移動しろという命令が出た。日中は見つかるので夜間暗い中を住民がそこに足を運んだ。8kmぐらい歩いた。暗い夜道。悪天候で雨あられが降っていた。アメリカの軍艦に包囲されているので、艦砲射撃が激しく打ち込まれていた。雨あられと艦砲射撃の降る中で一夜を明かした。28日の朝はどんより曇っていた。雨雲が低くたれこめ、その日の悲劇を象徴するかのような天気だった。

・・・

 そのあと、衝撃的シーンに出遭う。日本軍と遭遇した。普通ならよかったと思うのに、そうではなかった。なぜ自分たちだけがこんな目に遭うのか。腹の底から日本軍に対する恨みがわいた。なぜ日本軍が生きていたのか。みんな死んだと思った。だから追い込まれたのだ。衝撃的場面だった。日本軍が、住民があっちに避難していると言った。第2の衝撃だった。生き延びてよかったとはいう考えは毛頭なかった。生きることが恐ろしかった。生きることが恐ろしかったということを知っている体験者は、本当に集団死がなんだったのか(わかる)。』



20070422
 「人生は、人が自らそれに意味(なんらかの喜びないし幸福の質)を課そうとしない限り、意味を持ちえません。」と語っていたニザンの言葉(括弧部分は自分での解釈部分)を含めて、体験と感性の質(ないしその質としてのその高さ)である幸福とは、少なくとも自身にとっての最良の、人間の古典的作品そのものなのではないか?



20070415
 体験と感性の質の、過去の最良のもの以上のものを獲得していくためには、今の時点で、特に子供たちとその親たちの心が−−熱い位に暖かいという部分をその一部であっても不可欠の要素として含めて−−暖かいことによって美しい世界への取組みを、その世界を想像し、ないしイメージし、ないし夢見て、現実の世界のすべてをないし世界の現実のすべてを、有効と思える限りでそれに近づけ、ないしかなうものにしていくというありようで進めていくことが、要る。



20070407
 「尊厳死ではなく、満足死、あるいは納得死との言葉を使うべきだろう。」(数日前の新聞記事から)。さらに、その数日前に、ALS患者のサポートに関するHPで(あるいはこれも新聞記事だったかもしれない)、重症患者自身の言葉で、「尊厳死という言葉には、なんらか外部からの強制を伴う要素が感じられる。」との趣旨(引用者自身の解釈で)の発言もあった。



20070330
 リンク情報に、「ひまわり(山梨県山梨市 社会福祉法人いずみ会 障害乳幼児通園施設)」へのリンク掲載。



20070217
 「隣人たちから煩わされる心配がないようにする力を最も多くそなえている人たちは誰もみな、そうすることで、最も確固とした(安心の)保証を得ているがゆえに、互いに他の者との最も楽しい生活を送ることになるのだ。そして彼らは、最も満ち足りた親交を享受したのちには、(親しかった)友の一人が自分よりも先に死んでも、そのことを哀れむべきことのようにして嘆き悲しんだりはしないのである。」(『ギリシャ哲学者列伝(下)』岩波文庫・第10卷・第1章「エピクロス」、ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳)

 自身の死は体験できない、ないし意識できないものであり、幸福は、ないし居心地のよさは、死の中にではなく、生の中に、その体験ないし意識の全対象の中に、求めるべきものである(から、でもある。)。生の対象の中の苦痛が極めて厳しく、また長く思えるものに感じられても。

幸福な生活その他の希求を実現させるとは、希求それ自身ないしその対象が持つ、生の体験ないし意識の全対象に対する影響が、決定的なものとなるような活動を進めることによって、その成果を得ること、と言える。

 さらに具体的には(これは、その活動の実効性・有効性の高さのために、そのさらに基本的なありようの法則性を問うものだが)、その希求ないしその対象の、実物(感情も含む)とそのイメージ(残像の一種とも言えるのかもしれない)とを、消してしまわないように維持しつつ、機会を得られるその機会毎に、それが、決定的な影響を与えるようにすべく、強いものにしていく、というありようでなされていくべきものだろう。(一応、であっても。)

 もう一つ、具体的・基本的なありようとして、その対象が、体験の中に見いだしえる、そして見いだしえた、「相対的な」との対比の意味での「絶対的な」、生の体験の中の対象、であり、おそらくそのことによって、生の中のつらさに対抗しうるという対象であること、の認識(これも一つの---運動の---法則性なのだろうが)は、持ち続けるべきものだろう。

 さらに、その有効性のためにも、人間の古典的・亀鑑的作品としての人間自身、ないしその人間自身の生の幸福ないし居心地のよさを、その希求ないしその対象の、中心的なものとして含めていってそうすること。---生の体験(ないし意識)ないし感性の中で、希求する力の、ある限り。

 「美しい」とは、つらい思いをして生きている人のそのつらさを強く和らげることができる、その人自身の生の(体験ないし意識ないし感性の)対象の、本質的属性のことだ、とも言えるのではないか。心でも、身体でも、環境でも、つまりその人自身の--たぶん構想されていく--世界で。実践的に有効な法則性の認識としても。



20070108-3
 さらに、ジブリ美術館HP-美術館について、の中、
「こんな美術館にしたい
2.いろんなものを発見できる美術館」
[2.もここで追加。これも抜粋。」

 これは、なぜなら、それによってたぶん、人間の-身体的な-いのち-生命-と同じように、人間の心にとっても快い、また、やさしいために必要な、懐かしさと新しさとが、たぶん相対的に、原因あるいは結果になって、現実の中に、見いだせることになるから。
 そしてそうだとすれば、受動的な活動よりは、むしろ休息になる、そのような創造といってもよいものの方をたぶんいつも選択していくべきなのだろう。



20070108-2
 ジブリ美術館HP-美術館について、の中、
「こんな美術館にしたい
1.おもしろくて、心がやわらかくなる美術館」
(1.は、ここで追加。以下継続有るものの抜粋。)について、

「」という現実と想像、また、「・・」という現実と想像、との間で、どのように、位置付けるか、

後者と同じように、不可欠的に重要な要素であるものとして。
なぜ?、については、緊張しっぱなしをほぐす役割を果たせるから。



20070108-1
 人間の古典的作品(一人一人にとっての人間の最良の作品)に接することによって得られる何よりその友情のような要素は、それ自体、現実上でのまた想像上での(それぞれ相対的なものでもありうる、また、再喚起であってさえも、さらに)、ほんのささやかなものであってさえも、この生の、そしてこの世界の、創造的変革のたぶん貴重な一つ。



20070107
 「赤は非常にやさしく、心を慰める色です。」という言葉について、

 『戸があいて、眼を紅くしたベッキイが現れました。彼女はアアミンガアドがいるのを知ると、気まり悪そうに前掛で顔を拭きはじめました。で、アアミンガアドはいいました。
「ちっともかまわないのよ、ベッキイ。」
「アアミンガアドさんのお招きなのよ。今いいものの入った箱を持って来て下さるんですって。」
「いいものって、何か食べるもの?」
「そうなの。これから、宴会のつもりを始めるの。」
「食べられるだけ食べていいのよ。私、すぐ行って来るわ。」
 アアミンガアドはあまり急いだので、出しなに赤いショオルを落しました。誰もそれには気がつかないほど、夢中でした。 「お嬢様、すてきね。私を招くようにあの方に頼んで下すったのは、お嬢様でしょう? 私それを思うと、涙が出て来るわ。」
 その時セエラは、眼にいつもの輝きを湛(たた)えながら、辛かった一日のあとに、ふいにこんな愉快なことが起ったのを、不思議に思い返していました。何か救いが来るものだ、まるで魔法のようだと、彼女は思いました。
「さ、泣かないで、テエブルを整えることにしましょう。」
 セエラはうれしそうにベッキイの手を握りました。
「テエブルを整えるって? 何を乗せればいいの?」  セエラは部屋の中を見廻して笑いました。テエブル掛も何もあるはずはありません。ふと、セエラは赤いショオルが落ちているのを見つけて、それを古いテエブルの上に掛けました。 赤は非常にやさしく、心を慰める色です。テエブルに赤いショオルが掛ると、部屋の中は急にひきたって来ました。』

「非常にやさしく、心を慰める」とは、言い換えると、非常に深く、つらい心つまり体験を、動かすことができるということ。まわりの人々のそれをも、を、不可欠にして。

 A LITTLE PRINCESS−(「青空文庫」−当HPリンク頁参照−版、フランセス・ホッヂソン・バァネット−Frances Hodgeson Burnett−菊池寛訳、「十五 魔法」)より。



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