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Homeテキスト本文−友情は・・の続き(A4用紙1枚+α位)

 「友情も、助けを必要とすることによって生まれるのであるが、しかしながら、人はまず自分の方から先に相手を助けてやらねばならない。(収穫を得るためには、われわれはまず大地に種を播くのであるから。)しかし、快に充ち満ちている人たちの間における生活の共同によってこそ、(真の)友情は形成されるのである。」

 ・・「隣人たちから煩わされる心配がないようにする力を最も多くそなえている人たちは誰もみな、そうすることでまた、最も確固とした(安心の)保証を得ているがゆえに、互いに他の者と最も楽しい生活を送ることになるのだ。そして彼らは、最も満ち足りた親交を享受したのちには、(親しかった)友の一人が自分よりも先に死んでも、そのことを哀れむべきことのようにして嘆き悲しんだりはしないのである。」

 というような性質を持っているものだと思います。

(ディオゲネス・ラエルティオスが伝えているエピクロスの言葉。岩波文庫・『ギリシャ哲学者列伝・下』・加来彰俊訳・297ぺージ及び322ぺージからの引用。)


 「エピクロスは愛には厳しいが、友情はこれを賛美している。愛他主義[利他主義−小谷付記]はまったくない。」という、ポール・ニザン(フランスの小説家)の言葉があり、私は、この言葉(の認識)も好きで、受け入れています。


 友情とそれを育てる取組みは、経営と同じように、偶然(すなわち蓋然性の低い出会い)的なものを待っていたり探したり創ろうとしたりしていくのではなく、偶然的ではないものを把握し探して見つけ出し創ろうとしていく取組みの一つであって、ほんの束の間のだけではないようなほんの少しのだけであっても、さらにはそれだけはないような幸福の−物語のと言ってもよいものの−不可欠なディテール(構成要素)なのだろうと思います。


 また、現在の時点で−うすうす気づいていたのかもしれませんが−自分自身では「発見した」こととして、経営においても、友情とそれを育てる取組みは必須だと言える、と考えられます。短期的にも長期的にも、販路獲得の取組みの要素としても、予測できなかったような危機への対応の要素としても。

 必要な時には助けてもらえるようにという欲求や意思が含まれていてもよいので、また「助けて(差し)あげられそうな人たちを」、でもよいので、さらには自分自身をその一人に含めてもよいので、その人たちを助けて(差し)あげるという取組みは友情を育てることの中軸的なものになると考えられますが、それは、多くの人びとに「役立つ」、さらには「手助け」になるような仕事の成果を社会に対して供給していく、という経営の取組みの中軸的なものの内容と、共通する要素がありうるものだと考えます。

(「ロータリークラブ」などのいわゆる「経営者」のリーダー育成・交流を目指して運営されている組織も、現在では「奉仕」という言葉で言い表わされる要素が中心的な推奨価値として運営されているものが大多数だと思いますが、出発点では少なくとも「このような(奉仕的な要素が中心的な推奨価値にはなっていない、経営の面でも友情を育てるという価値が中心的な価値になっている)」要素が中心的なものだったように思われます。私自身はそれでよいのではないかと考えています。このような考え方は現在の世界中の各ロータリークラブではごく少数意見あるいは少数者の主張であると思いますが。また、奉仕的な要素が中心的な推奨価値として運営されて来なかったのであれば、世界中にこれほど広がっては来なかったのかもしれませんが、それでも。)


 少なくとも自分自身にとっての亀鑑的作品−生涯を通して一番素敵なと思えるような作品−の一つ一つはそのような友情を育てるまた守るための一番有効な手段になるものでもある、とも思います。それを作ってくれた人たちは、自分自身が生きている限りその体験の中に現実にあるいはその残像して何よりもそのつらさやさびしさではなくそれらのつらさやさびしさがもはや勘定に入らないものになるような喜びや幸福として生きていると言えるし、そのことで自分自身の人生の−先輩であることを含めて−友人であるとも言える、とも。

 笑顔は下手(へた)でも自分自身と他者への友情を育てる上で不可欠なその実践的な証しの一つであって、それが、まったくの自分自身のためだけのものである場合、他者にとっての恐怖になる時もありうると言えるかもしれない、と考えます。

 友情の正反対のものの一つであると言える脅しにかかわる恐怖は、何よりも自分自身の生存が維持できなくなるほどの苦痛の原因となるものや、その再構成して把握される残像などを手掛りにしてその原因となるものからの忌避の選択をするために、自分自身の身体の感覚経[私の造語で、中枢も末梢も含む神経のこと]に生まれつき保持されている、そして体験からの−必ずしも言葉によって把握されているものではないようなものを含む−認識に基づいてその残像が把握されることになるその忌避選択のための現実的な証しである、と、把握できます。

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