Home - そのように生きるため、「認識」は、- 項目へ戻る

     
Homeテキスト本文−「認識」は・・の続き(A4用紙1枚+α位。)

 「認識」は、そのように生きるためにそのように生きる術[すべ]−方法−を、「できる限り理解して知る」という取組み、あるいはそのような取組みによってこれまでに知ったこと、さらにはその総体、というような意味で使っています。その「理解して」は、「何よりも『なぜ?』を考えて(その対象になっているもの−体験の世界の中での現実とその残像との関係で相対的なものもでありうる現実−の残像を)納得できるように把握して」というような意味になると考えています。(「認識」を、「知恵」、又は知恵の全体、と言った方が分かりやすいかもしれませんが、この「知恵」という言葉はそれが正しい知恵(あるいは認識)であるという評価判断が伴って−しまって−いると思います。「認識」という言葉には、価値判断が含まれていない−ニュートラルである−と考えます。言い換えると、間違っている蓋然性が基本的に含まれていると考えます。それが正しければその限りで有効であるものとして。)

 (「体験の世界の中で現実とその残像との関係で相対的なものでもありうる」というのは、体験の世界の中で、現実の残像も、それを把握している限りで[さらには明確に把握されていない漠然とした印象でさえも一つの現実だと言えると思いますが]、体験の世界の中での一つの現実だと把握することもできるからです。もう少し言い換えれば、何かをイメージしているときのそのシメージも[何らかの現実の対象に基づいてイメージされたものでしょうが]体験の世界の中の一つの現実だと言うこともできるからです。)

 今の時点で、できれば束の間のだけではないような、またほんの少しのだけではないような幸福を体験して生きるという人生の取組みは、そのような「認識」の、一つ一つが集まってのものでしょうが、その一つ一つだけではなくその「総体」に基づいて、その取組みの成果が大きく異なってくるのではないかと考えています。(当たり前、と言われるかもしれませんが。)

 そして、認識[の総体]の[その人にとっての]有効性は、直線的にのみ上昇し、あるいは下降していくものではなく、螺旋[らせん]的に、さらには交錯的に[複雑に入り組んで]上昇しあるいは下降していくものだ、ということも踏まえて、個人的なノートに近いものですが、サイト運営ノートに含めてしまっているこの「幸福に生きることに関する認識ノートメッセージ」のページも継続していきたいと考えています。

 (充分に予測可能な−たとえばその予測可能性が考えられ、たとえば医療や経営におけるように計算さえできるような部分の−場合を含めて、少しでも予測可能な、幸福への、また逆の、事故や災害などなどへの遭遇の蓋然性についても、この前段前半のことは言えると思います。)

 幸福の中で重要な要素を占める経営 [ここでは個々人が経済的に豊かになること−一部の人にとってはそれを維持すること−への取組という意味での経営] に関しても、(人生の中で占めるそれへの取組時間の集中度合いなども基本的にはそれらに含まれる)嗜好[好み]や、才能の有無などの個人差を別にして、この()括弧部分を含む前三段に述べたことと同じことが言える、と考えます。

 さらに、認識は、−言い換えると、問題になっているあることがらについてその理由をできる限り理解して知るということ、と、その結果は−、実践的には、創意工夫[考えて工夫して]の「系」[連続的に関係してくるもの]としての創造[考えて工夫した結果として獲得すること]である、そしてさらにそれによって獲得されたものである、と言ってよいものだとも思います。
 見付けること・発見(すること)・新しく知ることなども、実践的にはそうであるように。
 例えば、(人間にとっての、というのではなく、その人にとっての、でよいのですが)有益な何らかの法則性を、その理由を理解して見付けること・発見すること・新しく知ることは、新たな認識の獲得そのものでしょうが、実践的には創意工夫の系としての創造(的な取組)によって獲得されたものでしょう。
(人生における−できれば束の間のものとしてだけでなく幸福に生きるための−新たな有益な認識は、それぞれの人が、−他の人の考えを参考にするにしても−自分自身で考えて創意工夫をしていって獲得していくべきものだ、ということをこの段落で言いたい、という趣旨です。これも当たり前なことなのかもしれませんが。)

 なお検討してみると、束の間のものだけではないような幸福については特に、幸福それ自体も、人生の時の中の多くの場合、創意工夫をして創り出して把握すべきものだ−そして実践的にはそれ以外にはないものだ−、と言えるのではないかと思えます。
 (このことも、そのような−幸福の−対象を自身の体験の世界の中に、現実的なものであれ残像的なものであれ、見付けること、それ自体が創造的な取組なのだからと考えられれば、当然の帰結なのでしょうが。)


 
Home - そのように生きるため、「認識」は、- 項目へ戻る
Homeへ戻る。