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THE WHITE PEOPLE
「白い人びと」
 フランシス・ホジソン・バーネットの作品。英語の勉強を兼ねて自分でも読みたい作品として。日本語訳が、「白い人びと」の題名で最近出版されたので、分からないところなど、それとも照らし合わせながら。

 物心ついてからの − 人としての自己意識を持つようになってからの − 誰にも基本的に − 人を束の間でも愛せた体験やその残像を少しでも思い起こせることを条件にして − 愛していた人を失った時に人がどのようにして生きるかの − 共通的な体験を出発点にする一つの有効な物語だと言える、と思います。

 この人の作品は(この人の作品も)、すべてがこのような −人はそのような状況の元で幸福になる(生きる)ために生まれてきた、というような − 色合い(感受性の質)を帯びているようにも。

 この作品の中で述べられている、ヒロインの体験の中の現実の、幾つかの感覚の対象(事象)として表現されるものが、他の多くの人たちからは、その、他の多くの人たちの体験の現実の、他の幾つもの体験の感覚の対象との間でのものとして生じる不思議さのような(なぜなのか、本当にか、を考えてもその回答になるようなものの把握ができないような)感情が生じること、そして他の多くの人たちの間ではそのような不思議さを感じることの表現がなされること、については、その回答が出るまで(と言っても、そのそれぞれの時点まで)は、そのまま、その回答になるようなものの把握ができないものとしての把握をしていくのが、自分自身としても、またそれぞれの人にとっても正しい(あるいは有効である)のだろうと、考えています。
 ヒロインの体験の中の現実の幾つかの感覚の対象(事象)として表現されるものが、現実の対象の再構成把握残像なのではないかについても、なお検討していって。
 それがどちらでもよい、相対的なものとして把握してもよい、という回答が得られるようになるのであればそのように把握していくものとして。
 さらにこの把握については、ヒロイン自身と、作者自身と、さらには翻訳者自身と、その作品を読んでいく自分自身のそれぞれの身になってみての把握が必要で、有効なのだと考えています。
 美しい物語であり、深く心を動かされる物語であり、ヒロインでもあることは、確かなので。
 これも、当たり前の認識にすぎないとも考えられますが。
 回りくどい、うまく表現できていない言い方は、今のところは、このままで述べさせていただきます。

 (20150106追記として。
 当初この前段落部分の、「他の多くの人たちの体験の現実の、他の幾つもの体験の感覚の対象との間でのものとして生じる不思議さのような(なぜなのか、本当にか、を考えてもその回答になるようなものの把握ができないような)感情が生じること、そして他の多くの人たちの間ではそのような不思議さを感じることの表現がなされること、については」の部分を、「他の人たちからは−ヒロインの−幻視や幻聴・・である−の−か・・−について−は」と述べていましたが、それが、本人と、まわりの人たちにとってそれぞれ幸福に生きるという目的からみて、そのように(幻視又は幻聴などのように)呼ぶべきではないと考えるようになりました。幻視又は幻聴などの言葉の意味の中には、幸福に生きるという目的からみて、「正しくない」「誤っている」[つまり、実践的にマイナスの要素を持っている、という]意味を持っているからです。
 日本語への翻訳者である中村妙子さんは、「物事の真相を直視する視力」と述べています。)

 そしてこのような把握は、広い意味での絵画作品でもあると言ってよいと思われる 『スタジオジブリ』のいくつかのアニメ作品などについても、共通的に必要で有効なのではないかとも。(但し、絵画作品は、「[それぞれの作者の体験の中の])現実の対象の、再構成把握残像の再構成把握」の中に位置づけられるものだと考えています。)
 日本人には特に人気があると言われている、フィンセント・ファン・ゴッホの作品についても。このゴッホの作品は、−複製かwebでしか見ていないものですが−私自身では美しい(感覚に快く訴えかけてくる)とは感じられないのですが、さらに、その作品の中での幻視(ここではこのまま使用して)とは言えないと思われる現実の対象の見え方そのもの、あるいは、その現実の対象の再構成把握残像についてなのですが、やはり心動かされることは確かな作品なので。


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