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喜びや幸福な時間の密度を充実させることについて- 読本形式テキストの見出しを表示する。
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"喜びさらには幸福な時間の密度を充実させること"について-の読本形式テキスト(追記中)



20180824-(一瞬でも幸福な時間の)拡がりではなく密度を(少しでも)高めることと、思考を含む行動を 集中すること・させること、との関係について、は、
一瞬でも(人間である、さらには人間になるという要素を含む質の)幸福な時間への思いをできる限り散らさないように(ばらばらにならないように、あるいは、消失させてしまわないように)その思いを-そのような時間の現実の残像の再構成把握を-追っていく、

具体的には、見てる、聞いてる、話してる、歌ってる、家事してる、食事してる、体を休めてる、体を使っての何かの行動をしている、読んでる、仕事をしてる、(他のことを)考えてる、などなどの時間のそれの。

それが一つ可能でありうること(行動)である。これくらいしかできない、とも。

但し、つらければ、つらいその分余計、それに集中させて。



20180820-密度は、拡がりと逆のベクトル(逆の方向性への力)の要素を持つものであり、密度を、という場合に、
 その認識は持っていくべきである。

さらに、その方向に向かう場合に、現実的に問題になるものが、その質であって、人間であること、さらには人間になること、というその質を持つ幸福な時間の密度(割合)を。刻々。そのような質の幸福な時間の密度を獲得すべく求める方が、よりプラスベクトル要素が高く、それは、一瞬のような時間でもその出会いの確率が高いから。

予定をカレンダーにも組み入れてそれに従って、は、それはそれでいいとしても、以上の前提で。その時間のその予定のどれから選んで実行していくか、について、も。

経験的に在った、また体験的に在り得る一瞬のような時間でも幸福な時間、以外の時間は、"そう"ではない時間であって、ほぼ基本的な時間である。

一瞬のような時間であっても、そのような質の幸福な時間の獲得は、そしてその時間の密度の高さの獲得は、現実の、そのような時間の残像の再構成把握をしていきつつ、その中で、現実に把握できるそのような時間を、その密度が高まるように把握していくようにしていくことによって、だ。一つの可能性として。

『(危うく死にかけた・・。)命の拡がりを夢見る時期は終わったんだ。今後は密度を求めなければならないだろう。取るに足りないものは犠牲にして。』 (ポール・ニザンの『陰謀』[鈴木道彦氏日本語訳]の末尾にあった記述。認識、と言ってもいい。)

『人生は、人がそれに意味を与えない限り、意味を持ちえません。僕は生涯かけてそれに或る意味を与えるように生きるつもり。』(同じくポール・ニザン著作集の『妻への手紙』から。この手紙の当時は、フィアンセだった人への手紙の言葉。字句は記憶で。34歳で、戦争で、やはり若すぎる生を終えたニザン。そのニザンの高等師範学校の卒業?論文のテーマが、『意味の機能』。読んでみたいが。



20180815-一瞬のような時間であっても幸福な時間のその密度・割合を、可能な、おそらく「(全面的に人間らしい)人間になる」というような言葉で把握されるその質を
 選択していく中で、できうる限り高めていく、こと。

刻々(every moment:『類語国語辞典』(角川学芸出版、大野晋、浜林正夫著)には登載されておらず、『日本語大辞典』[講談社、梅棹忠夫、金田一春彦、坂倉篤義、日野原重明監修]に、時間がだんだん進む、あるいは迫るさま、との日本語の意味の定義の後に、前記英語訳での定義があった。)。



20180814-安易な幸福は、一瞬のような幸福な時間でも、在り得ない。同じく、
 安易な政治変革というものも在り得ない。同じ理由で。変動しているこの世界の現実の中で、目的への実践的な変革(可能性の獲得)は、できる限りプラスベクトル要素が高い認識のその総体に基づいてのものでしか在り得ない。

質が高い、低い(優れている、劣っているを含む)という言葉・認識は、多面的で在りうる質(性質)の違いそのものについての言葉・認識ではなく、"或る"質のその度合い(数量)についての言葉・判断・認識である。例えば「幸福な時間」のその"質"そのものについて、その度合いは、測れない。



20180813-2-新聞やSNSなどで伝えられる、この体験している世界の中のつらい出来事、その他つらいこと 、と、「一瞬のような時間でも本当に幸福な時間」とについて、
 すべて、一切合切把握して、方向選択していく、その在りようのこととしてのその基準は、

自分自身の課題であると共に、

その時点の記憶(再構成把握残像)としての・その時点の記憶あるいはその印象に残ってしまう、さらには現実に出会ってしまうそのつらさ、あるいはその対象を、克服していくその人たち自身の課題でもあるものだろうが、

「一瞬のような時間でも本当に幸福な時間」の割合・密度を高めるその時間の、その質の、可能なものの選択の取組課題として位置づける、その結果の基準、でいいものとして。

今の時点で。多分、以前からそうだった、そのように、認識として。

獲得できうる一瞬のような幸福な時間の、何よりその質に関わるものとして。



20180813-「本当に幸福な時間」という言葉で把握される記憶(再構成して把握される残像)、そのできる だけ具体的な在りよう、
 姿形は在る場合も、無い場合も、一瞬のような時間でも、あるいは一瞬のような時間でしかないのかもしれないとしても、

そのような時間の、体験しているすべての時間の中の割合・密度、を高める、現実のそれはもちろん、記憶(残像)の、であっても、どんな時間でも得られないことの無いような、一瞬のようなそのような時間を、上手に獲得していくこと、は、たいてい、いつもできうる(可能でありうる)、それを、でも。



20180812-一番肝心なこと・もののこと、の認識をできるだけ保持していくこと、と、思い出した「最善を尽くせ・一流であれ」(ポール・ラッシュ)との言葉と、
 どのように繋がるのだろう。

本筋と言えるのかどうか、わからないが、どうしても克服困難なように見え、思われる課題について(つまり、その解決のために有効であり必要であるということ)、で、よいのだろうか。(そうでない課題については、考えてみると、これについても、

そう、なのだろう。つまり、やはり、他者との、どんなに微かなものでも、繋がりの中にあるものだから、だ。質のこととしては、本当は、最も。これらの点では、本筋である。)

困難さについて、姿形(行動のそれも)、あるいはそれへの感覚、他者達と、自分自身の、それらについて、その認識の観点から、やれるだけのことをやっていく、という?

前述した、受託した仕事の処理の時間確保の困難さの課題、でも。

いつも、できる限りその課題の認識を持ち続けていくこと、も、合わせて、の認識として。

無いより、在った方が、よりプラスベクトル要素が高いと考えられる。経験の再構成把握残像から・・。



20180811-最上位の目的は、の追加メモとして、「その取組み時間をどのように確保していくべきか。」などについて、
 生きていること、生きていくことの「最上位の目的」、は、言い換えると、「一番肝心なこと」、は、ということ。

でも、なぜそれに向けて、あるいはそれに向かって、行動を進めていくことが、こんなに困難なのか?

"具体的な"行動の選択と実行が分からない、これについて、行動の選択と実行として、「(諸)感覚で探すあるいは選択する、言葉によるものを含めて残像の再構成把握を通して把握する、表情と、姿勢とで、把握する、のいずれかあるいはすべてで、密度を高めていくように」。

([諸]感覚で探す、あるいは選択する、ことは、少なくともその対象に関して、具体的な行動でありうる。単純に。

但し、現実にそのような具体的な対象が無いと、あるいはその生き生きした[生々しい]残像が無いと、困難だが、それでも。

再構成して把握する残像は、自然に把握されるような場合を含めて、現実のそれとの[現実のその対象との]違いは、何なんだろう。感覚の中、と言うよりは、感覚経[中枢も末梢も含む神経の意味の造語]の中に微かにでも刻み込まれた何か、である、のか。

多分、そうなのだろうが、それが、本当に微かなものになり、消失してしまうようなことも、起こりうる、というより、それが基本的。経験的に。

ディジタルあるいはアナログ音声情報でも、与えられた言葉のディジタルテキスト情報でも、写真や画像のアナログあるいはディジタル情報でも、その、刻み込まれた何かを、より確かなものにする手掛りになる現実の対象の一部、だが、これも経験的、体験的に確認できる。

つまり、諸感覚の対象の一つ一つで、それらがありうるということ。そして、何らかのそれら、あるいはそれらの一つを、手掛りにできると考えられること。

逆に、本当に幸福な時間の密度を高めることに関してマイナスベクトル要素になっていると把握できるさまざまな困難な課題の、その一つとして、受託分の遅れ分。これについては、なし崩しで、そしてできる限り自分の都合でなく本人の立場を考えて。

なお、その取組み時間をどのように確保していくべきか。

この"なお"、については、『いつも、できる限り、これらを忘れてしまわないように(思い出しているように、明確に認識しているようにして[認識は、その時点で思い出していられる再構成把握残像の一つだと思われるが。])いくようにして』?など。そうでなければ、その時間は、ほとんど無くなってしまう。

肝心で時間のかかる取組み(課題解決の行動のありよう)について、すべてそのように。

(私的資本蓄積[金儲け]が、最上位の目的なら、それについて、やはり、そのように。)

何よりも、一番肝心なこと、でもある「本当に幸福な時間の密度」についても。
[『』を、同様に。] などが考えられる。)



20180805-一瞬でも本当に幸福な時間、に関して、
 生きる・生きていく最上位の目的は、生きている時間の中での、一瞬のような時間であっても本当に幸福な時間の密度を、認識と、それを含む行動とによってわずかでも、できる限り高めること、

→どのようにして、については、可能でありそうなあらゆる行動を選択していくように、さらによりプラスベクトル要素の高そうな行動を選択していくようにして(抽象的には)、

→その具体的な行動の手掛り、あるいはその一つとして、何よりそのような人たち、そしてそのような人たちの居るその環境(動物たち、植物たちも含む)それ自体と、その再構成把握残像について、は、つまり実現させていくべき、それに適う"人間"とその環境という、現実の存在の、その再構成把握残像、については、(それは、さらに言い換えると、その目的の実現のために可能でありそうなあらゆる行動の、そしてさらによりプラスベクトル要素の高そうな行動、の、その手掛りになりそうな現実の存在とその再構成把握残像であるが)、

→その再構成把握残像自体を含めて、それらのできる限り具体的なものの、体験の中の存在化への行動、そしてさらに、それらの密度高い存在化への行動、

→これが、具体的な行動、か、その一つとなりうると考えられるが、テスト(実践的検証)を。

→その"人間"には、自分自身を含むが、自分自身と他者(動物や植物さえ含めて、人間がその中での何よりも、であるとしても)の、(自分自身の)体験の中の存在のうち(本当に幸福な時間に何より関わっていると考えられるそれらのうち)、本当に幸福な時間に関わっていることが、その再構成把握残像の再構成把握によってでも分かるそれら、を、再構成把握残像の再構成把握によってでも・再構成把握を通してでも、存在化させ続けていく、

言い換えると、体験の中で・体験において、分かるようにさせていく、これが、さらにより具体的な行動か。これも、テスト・実践的検証、を。

→本当にこんなもんでいいんだろうか。今は、こんなものとして、でしか、得られない。体験の中で"分かる"という・認識できるという、(自分自身の)体験の中のことがらとして。



20180728-2-確率は、数量(「現実的に具体的に測定できる度合い・・」)に関わっているのだろうが、結果としての
 数量あるいは度合いにすぎず、その"結果としての"とは、"方向を選択しながら進んでいくその結果としての"、ということだ。

その結果としての度合いあるいは数量としての、一瞬のような幸福な時間の、密度が高まりうるその確率も、その時点での"認識の総体"に基づいて予測されることになる。

仕事でも、経営(個々人を最小単位とする経済的営み)に関わるそれについても、住居やその周囲の環境を、よりそれに適するものに変える(変えていく)それについても、

政治(立法とその実行)への働きかけに関わるそれについても、

より適切に、「僕たち友達だよね」("クオレ"の日本語訳の中の言葉から。)という表情や姿勢や言葉で表現されるような感情を選択していける、ようにしていく仕事、についても。



20180728-1- 「自分の生あるいは生活とその環境(人間も、それ以外のものも含めて)の(変革とまで行かなくても)変更を していく」という、その、行動は、
 より近づいていくその機会が増えるために、その(現実の一瞬のような幸福な時間の)密度が高まる確率が高まるために」だけれども、

より具体的には、何から、どのようなことからか(迷うときの判断基準・選択基準として)。

一見、逆に、「拒絶の諸結果」から。(ポール・ニザンの著作名を思い出して。)

つまり、分からないものは拒絶していく、その結果として残るもの(なお、最初からあるいはその時点で分かるなら、その時点でそれを選択していけばいいものとして)から。

選択肢がありうるなら検討して選択していって。これも、分かる限りで。

現実には、直観(直感と言っても、感覚に基づくものとして、同じ。視覚の要素がどんなに強くても。)に基づいて行動しているのだろうが、経験的に、またおそらく体験的に、でぎる限り分かった(多分、言葉になる前であっても、認識できた)、その範囲で、だろう。

その分かったその範囲が、あらたな"認識の総体"の要素(あらたな認識そのもの)なのだろう。

そのような認識で。



20180725-その一瞬のような時間に、(関係する)以上のことを前提にすると、
 自分の生あるいは生活とその環境(人間も、それ以外のものも含めて)の変革とまで行かなくても、変更をしていくことによって、より近づいていく機会が増える、その密度が高まる確率が高まる、ということは在る。これは体験的に。

"真っ直ぐな心"で入れたコーヒーだから(おいしい)、との檀のマスターの冗談めかして言われた言葉、のような。(これは偶然聞いた言葉をここに入れたもの。)(事例。)



20180724-現実の幸福な時間の流れは一瞬にして流れ去ってしまうことが基本的、
 だとしても、あるいはそうだから、体験の中に現実にそのような時間でも、またどれほど困難であっても、その(そのような性質の時間の)密度を高めていくように。現実の幸福な時間の流れと、その時間の流れの中の一瞬のような時間について、あるいは、その一瞬のような時間の密度について、

その一瞬のような時間の、周りの時間やもの(対象)たちをも含めてもいいものとして、そのような時間の中のプラスベクトル"要素"の"放射"的なもの(要素)の結果でもあると考えられるような-その原因と結果の相互的なものでもありうるとも考えられる-それらの時間のその密度について、

その密度を高めるための、迷いながらでもの実践の中で、よりプラスベクトル要素のある認識の総体をさらに得て、さらに実践をしていく、というようにして、高めていく。

そのような要素の"放射"的なものに呼応する要素は、身体の中に在る。人間でなくてさえ。経験的・体験的に確認できる。



20180722-幸福な時間の流れ、体験、残像、印象、情報、認識のそれぞれの関係について、
 最前者は、まず、その現実のものは、2番目の「体験」の中のものだ。それは(その現実のものは)、一瞬のうちに当然消えて、記憶あるいは残像としてのみ、体験の中に残りうるが、その現実の幸福な時間の流れが体験の中に(引き続いて)在る限り、3番目から7番目のものは、問題にならなくても、いい。

問題になるのは、その現実の幸福な時間の流れが体験の中から消えて、その現実の幸福な時間の流れがその残像あるいは記憶あるいは印象になっていく、そしてなっている、その時間でのこと。

密度の高さのためには(密度を高めるためには)、それらに関して、どのような選択をしていくべきなのか、この問いの一環としての問題である。

この回答は、(現実を変えること、つまり)"体験の中の現実の幸福な時間の流れ、が、密度高くあるように現実を変えること、に向かう、そしてそれを選択していく、そのような選択をしていく、べきである"、というものになる。

第3者以降のものは、すべてそのためのものだ。必要に応じて、そして有効性に応じて(つまり、プラスベクトル要素の増加するそれに応じて)それらの関係は、認識していって。だと思われる・・。

夢見ることは、それ自体によって現実の幸福な時間の流れが体験の中に在ることになる、のでない限り、そのようになされるべきだ、ということでもある、のだろう。



20180721.疲れ切っている、そしてしかも明確に自覚してなくてもつらさや悲しみが、
 特に多く(激しく)含まれていると感じられるような時間、「幸福な時間に向かうこと、近づくこと」という言葉で把握されるその体験の(残像の)内容は、その時点の時間の流れの中で様々でありうるが、

「向かっている、近づいていく」と感じられ、思われるようなその時間の流れの中に居るように、それを選択していくように、を行動していくこと、できうる限り、

が、これまでの認識の総体として、今、一番プラスベクトル要素の大きい行動である。

「幸福な時間」は、どれほど一瞬のようなものに感じられても、流れているその時間の中のものだ。・・



20180719-3-一切の行動は、その時点の関係事象への認識の総体に基づいてなされるべきだ。
 幸福な時間の密度の充実に向かうべきもの、あるいは向かうためのもの、さらにはその密度を持続していくべきもの、としてのそれに基づいて。

時間が足りない、という、その感覚、あるいは思いも、その一部として。



20180719-2-自分のつらさ、さまざまな人たち身近な人たちのつらさ、について、
 その克服のためにその人(たち)を支えていくことができるということ、は、何より、自分を含めてもいいその人自身が幸福に向かって行動していくことができるその力を引き出す行動を支える、ということ、であると考えられ、そしてそれがやはり、肝心なのだと考えても、いい。

カール・マルクスや、ポール・ニザンが、その著作の残された断片とされるテキストを重要なものとして繰り返し引用していた、エピクロスの認識と行動の主なもの、のことを考えても。

そのための、現実の幸福な時間に向かう、そしてそれを獲得する機会を増やす、獲得する時間の密度を高めるなどの、行動をする、していくうえで必要な"力"を引き出すことは、そのために有効な、基本的には事象の変動についての観察に基づくものと考えられるプラスベクトル要素のある認識の総体(で不足していると感じられ考えられる場合の、新たな認識の獲得によるそれ)に基づくものであると考えられるが、その認識の総体の獲得も、観察・考察・テストなどの、やはり行動によって、である。

現実の対象の観察も当然含めて、その現実の他にもその残像の再構成把握をするのは、新たな認識(の総体となるもの)を得るための観察のためでもあり、何よりその結果が(その観察の結果が)、幸福な時間の密度の獲得に向かう行動の力を与えうる。これは、体験的にそう把握できる。

心の落ち着き(向かう行動の力を適切に、あるいは少なくとも有効に引き出せるその程度のそれ)を与えうるためにも、それが(そのように観察のためのものとして行うことが)、やはり何より位、の選択肢になりうる。

以上は、哲学的・認識学的・さらにはもっと広く生き方の選択行動そのものとしての選択行動と把握されるが、医療的・医学的な選択行動なども、生命の維持をその最も根本的な選択肢として、生きる過程の中で当たり前のようにありうるものである。



20180719-1-行動が、現実を変えることができるための最も有効な手段だということは
 行動が、現実を変えること(現実の幸福な時間の密度を高めること、それに向かい、獲得し、密度高くあるいは高めて持続していくこと)ができるための最も有効な手段だということは経験的に明らかだが、

その行動は、そのための力がないと、実行できず、その時点の認識(の総体)も、あるいはむしろその時点の認識(の総体)こそが、その行動のための力であり、それが不足していると感じられ思われる時間には、何よりそれを獲得すべく闘うべきである。

そのための力を引き出す行動としては、他に、これまで考えていた、現実の一瞬のような時間であっても幸福な時間の獲得の機会に向かうこと(そのもの)、と、その残像の再構成把握をすることしていくこと、

ただし、現実の残像は、どんなに強烈に見えても、また感じられても、現実には到底及ばない、そのようなものでもある、それを現実と勘違いしてはならないし、現実にその残像が強烈なものになるという確率は、それが認識の総体に基づいてなされるのでなければ、その一瞬の時間として得られる程度のもの以上には、基本的になり得ない、偶然的なものになってしまう。経験的・体験的に。

ただし、この、現実の残像の再構成把握という行動も、その対象の観察から新たな認識の総体を獲得する手段であるものと把握しても良く、基本的には常にその手段としての選択肢と把握していってよい。



20180716-幸福な時間に向かう、そして近づいていく、そして獲得していく、ための、"そのような"
 (深い呼吸の持続のできるような)姿勢と、(他者達との関係をできる限り適切なものにできるような)表情と、そしてそれらに支えられていく(思考を含む、つまり、思考としての再構成把握残像の再構成把握を含む)その他の行動すべて。

その、幸福な時間とは、体験の中の、その時間のつらさを、もはや勘定に入れさせないことになるような、そのような要素である、美しい(感覚に快く訴え掛けてくる)、という要素が、その時間のつらさをもはや勘定に入れさせない、という体験をしている(そういう体験を生きている)時間。

そのような幸福な時間の、生きている時間の中での密度。(今の時点の目的の把握。)

そのような時間とその密度は、一瞬のような時と、その名残の(残像の)密度の時間の充実でもよく、むしろそうでしかない、のかもしれない、体験と経験を見てみて。(中学生の頃のように一日その名残が続くようであれば、そのような密度はたぶん、そしてありうるかもしれない可能性とすれば、"人間"への恋。)

逆に、本当につらい時間も、一瞬のような時と、その名残であり、さらには、その間断的な持続。永続するようであれば、その前に、死。限度を越えるつらさは、死、あるいは狂気に、直結するのだろう。その前に、それらに至らなくても意識(体験)を失う、ということもある。これは、経験している。(事故。)



20180713-行動(取組み・実践と言ってもいい)と、姿勢と表情とについて、
 姿勢は、(食後でも・・)できる限り深い呼吸を持続していけるようなそれを取っていくべきであって、それによって幸福な時間の方に向かい、できる限り逸れないようにしていけるためのそれを、取っていくべきだ。

表情は、これも、他者との関わりの中で、同じく、それによって幸福な時間の方に向かい、できる限り逸れないようにしていけるためのそれを、できる限り取っていくべきだ。

それぞれ、前者は自分自身の目的の実現への行動(取組み・実践)そのものがなされる基礎的な要素になるものであり、逆にそのような(プラスベクトル要素と考えられる)要素が欠けていると、幸福な時間の方に向かい、できる限り逸れないようにしていくという、行動(取組み・実践)そのものがなしえないことになりがちな(マイナスベクトル要素と考えられる)要素になってしまうからであり、

後者は、他者たちとの関わりの中で、やはり、同様な、プラスベクトル要素を持つと考えられる情動や感情を他者たちとの相互的なものとして生じさせうることにより、自分自身の目的の実現への行動(取組み・実践)そのものがなされていくための恒常的に基礎的なものであるからだ。(他者たちの中に、動物たちも、含めて。・・)



20180712-生きている中での様々な時間の中でのつらさを消失させるくらいに
 "美しい"(「感覚に快く訴えかけてくる」[『類語国語辞典、角川学芸出版、浜西正人・大野晋著』の意味の定義]、そのような対象と、そのような把握について、

それは、(本、写真、彫像・・などよりも)人間そのものと、人間そのものの周りのものであって、有り合わせのそれら、のその中で、そしてその中から、選択して、また、創っていくそれら、なのだろう。

(たとえば、本当に楽しそうな、本当に幸福そうな、子供たちの笑顔、その周りのものたち、その他。その時間だけでも。)



20180711-2-さらに把握し直して、追記として、どちらかと言うと、自分自身の幸福な時間は、そしてその時間の密度(割合)も、持っていいし獲得して行っていい、他者たち自身のつらさと
 感じられ思われるものを含めてつらさを忘れないけれども、その立場・状況に立った時間(居る時間)において、その他者たちとの共通的な行動として受け入れられる、という範囲で。今は、このような言葉で。



20180711-追記、幸福な時間は、そのようなつらさを、忘れない、しかも(一瞬でも、束の間でも)もはや勘定 に入れないことになるような、
 そのような要件を含む時間、"誰もが共通にそうであるようなそのような"幸福な時間。?つまり、自分がそのような立場・状況に置かれた時にも受け入れられるような、そのような時間。?

これも、実践的な確認を。



20180709-この体験している世界の中での、他者自身のつらさと、また自分のつらさと、自分の幸福な時間の密度、について、
 前2者を忘れないでの最後者?でしか在り得ない?最前者も、自分のつらさでもある、あるいは自分のつらさでしかない、としても?そうなのだろう。?



20180707-3-それによって少しでも喜びや幸福な時間の得られる対象そのものの把握については、
 そのそれぞれの時点での"認識の総体"とそれに基づくそれを基準とする実践としての発信、たとえばhp、たとえば一応blogやtwi、他者の作品を引用してのそれを含むそれ、も含めて、の中で(の)、

そして職の仕事そのものを通しての中で(の)、

現実の把握と、その残像の把握と、が、あるが、いずれであっても、さらに、その把握のプラスベクトル要素性について(は)、それ自体が喜びや幸福な時間の要素であるとともに、さらに喜びや幸福な時間の密度のための闘いの力になればいい、そして闘いの力になるようにそれを把握していくべき?
(その結果として、現実の把握に向かうことになるにしても、その余裕が無いような時間にしても)?

だろう。



20180707-2-言わば運の悪い人たちにとっての"経営"(経済的な営み)についての、共通的に、一番プラスベクトル要素の大きい(ような)認識は、
 どのようなものであるか。 (技術や、意思の在りようの選択さえも、それに基づくと考えられるようなそれは。)

これも、経営目標の設定をし、その目標達成をしていくための、その人にとっての、その時点で、プラスベクトル要素の最大になるような"認識の総体"、但し、まず既存の、その人にとっての亀鑑的な著作作品から学んでのそれ、と言っていいのではないか。



20180707-1-"人間"(への思い)の成就・実現、への行動の具体的な在りようは、 (現実には一人一人に対するもの、という、その行動の
 その具体的な在りようは、)

「人間が人間で在り得ないような一切の関係を覆す」ために可能な限りプラスベクトル要素のある行動、と、それと一致するものでも在りうるその行動の中での可能な限りの喜びあるいは幸福な時間への勇気に基づく行動、との、選択を、

その成就・実現の思いを持ち続けていく中でして実行していく、その在りよう。 (その時のその状況でのその選択での迷いは、いつも、当然、在りうる、そのようなものとして。)

なぜなら、(自分自身を含む)現実の世界(の状況、あるいは関係)がそのような、相互的に関連性のあるものとして要請する要素を含んでいるものだから。だろう。

幸福な時間の密度を獲得するという観点からも。少なくない時間、その観点からの行動に伴う後ろめたさのような思いに応えるためにも。

(なお、生きている時間の中の幸福な時間の割合という意味での幸福な時間の密度も、幸福な時間そのもののその密度も、同じもの、かもしれない、その幸福な時間の密度。)

これが今、一番最上位の具体的な選択とそれに基づく行動の方法の基準ということ。?このような方法でなら逃げ出さないで行けるというより(これはこれまで同様ないと考えられる)、より集中して行動して行ける、それぞれそのための手段としてプラスベクトル要素がある、ということもある。?

今は。




20180704-"人間"(全面的に人間らしい人間)への思いの実現への行動について
 各自、自分自身にとってのでよいと思われる、最上位の目的としての、可能な限りの、「人間が人間でありえないような一切の関係は覆す」ように変えることを通しての"人間"(全面的に人間らしい人間)の成就・実現への行動、

同じ意味の、幸福な時間の可能な限りの本筋に適う密度の獲得、

現実には、その行動の結果は、何より、より、一人一人のそのような人間の身近な存在の成就・実現であり、そのような一人一人の人間たちへの友情や憧れの成就・実現。


より具体的には、

他者一人一人との関係は、幸福な時間の密度との関係で、その、「他者一人一人との関係と自分自身の総体」との関係の中にさえ、相互的な効果を持ち、発生させるものである、こと、

他者を身近に見ての、あるいは他者の言葉を身近に聞いての、あるいは他者の存在を身近に感じての、楽しさやその逆の感情や感覚は、自分自身の感情や感覚である、のと同時に、

(鏡に映った、あるいは写真に映った自分の姿や表情、あるいは録音された自分の声や言葉は、これに含めていい、ように思われる)

自分自身の、おそらくその総体に対して感じている(=その総体として感じている)楽しさやその逆の感情や感覚に対して、相互的に、プラスベクトル要素あるいはマイナスベクトル要素を持っている、こと、

を認識しておいて、


それを成就・実現させていくように行動していくこと。今は(今日は)、その行動への認識に関して、ここまで。



20180702-2-身体的障害及び精神的障害の意味を、その人自身の幸福に生きていくうえで妨げになる
 多少であっても持続する疾病ではない身体的要素及び精神的要素と定義して考えると、誰も皆そのような障害をその厳しさの度合いは異なっても多かれ少なかれ持っており、持たない人はいないという点からも、それらの障害は、それぞれその人の個性の一つである。
(ここでの「的」は、それに関わるという意味。)



20180702-そのためにつらさや悲しみがきつくなるように思えても、
 また、実際にそう感じられても、それでも少しでも幸福な時間をできる限りで求めるべきであり、そのために闘うべきである。選択として。おそらく、そのつらさや悲しみの中にさえ本当はそれを凌駕する幸福な時間に関わる何かが含まれているからでもある。



20180701-現実の体験の密度への"印象"を常に持ち続けて、選択して、実践していく、ということについて、
 明示的なあるいは黙示的な言葉を介してのあるいは直接的な対象への思いで可能になる結果を得る実践と、それ以外の実践との関係について、明示的なあるいは黙示的な言葉を介してのあるいは直接的な対象への思いで可能になる結果に当然限界はある(おそらく現実の対象が近い場合だけ、強いプラスベクトル要素を持つ)、その(限界のある)結果を踏まえてのそれ以外の課題として実践的に提起されている実践、との関係について、その選択の時の(機会の)見極めのようなものを、どう、していけばよいのか。

どちらを選択するか、いつも、検討していって。密度との関係で見て。(子供の頃から、ずっと、迷っている時間が多かったが、その基準が無かった。"人間は努力する限り迷うに決まっているものだ"としても。)

やはり、体験の記憶を、忘れ去ってしまう、再構成把握が困難な時間が少なくない、からそのような結果になる。その(体験の記憶の)印象が残っている、とは把握できるにしても。

印象から、であるべきなのか(いつも)。そうだとしても、現実の体験へのそれ、として把握していく?

印象は、体験の記憶の再構成把握をする上でのその把握への、また、現実に体験する時への、まだそれらに至らない体験の世界の中での対象。印象は、持ち続けられるものか否か。 (印象と意味との違いは、言葉を介してのものあるいは直接的な思うことの行動の結果としての対象であるか、否か。前者が意味。後者が印象。)

そして、印象は、持ち続けて、そのうえで、「明示的なあるいは黙示的な言葉を介してのあるいは直接的な対象への思いで可能になる結果を得る実践と、それ以外の課題として実践的に提起されている実践、との関係」について、「どちらを選択するか、いつも、密度との関係で見て検討していって」選択していく。

以上を纏めて、『明示的なあるいは黙示的な言葉を介してのあるいは直接的な対象への思いで可能になる結果を得る実践と、それ以外の実践との関係については、それ(現実の体験の密度)への"印象" [イメージではなく、つまり残像ではなく、それ以前の、おそらくその直前のものであるような体験の中の対象] を常に持ち続けて、選択して、実践していく。』べきではないか、ということ。




20180630-どうにもならないような、つらい、暗い、淋しい時間でも、自分自身の体験の中で
 身近な"素敵な"人たちへの、その思い(その残像や印象)と、その成果も、現実の体験の世界での要素で在りうる。何よりも、位に。今。

自分自身の中に、それに対応するそれによっで少しでも幸福な瞬間の得られるような感情あるいは情動に関わる要素が、在るからなのだろう。

体験の記憶力(その残像の再構成把握力)と、そのような人たちが現実にたくさん身近に居れば、その確率(あるいは密度)は、高まる。

素敵な=全面的に人間らしい、それぞれの自分自身にとっての、でかまわないと考えられる、「人間が人間であり得ないような一切の関係を覆していく」ような行動を通して実現されていく相対的なものであるそのような"人間"。


20180628-人間の生きているこの、人間が人間で在り得ないような人間自身を含む一切の環境(世界) を覆すように変える」行動選択について、
 すべての行動選択は、可能な限りそのように、さらに、「"幸福な瞬間あるいは束の間、さらにはもう少し続く幸福な時間、さらにその時間の生きている時間の中での密度を高めることへの思い"の継続からのその実現の本筋の認識(のその総体のプラスベクトル要素をより高めるそれ)の獲得の行動の結果」を、「人間の生きているこの、人間が人間で在り得ないような人間自身を含む一切の環境(世界)を覆すように変える」その

行動選択の中での、行動の指針にしていく在りようで、その行動選択はしていくべき。

さらに、そういう一人を最小単位として、一人でも増やしていくようにして。

記憶(残像)から、そして体験的に、そう、だろう。



20180627-"(ささやかに)「幸福な瞬間から、幸福な束の間、束の間からもう少し残る時間、
 さらに、もうしばらく残る時間」、への密度を高めていく取組、行動"、への、それらへのできる限りでの継続的な思いと、

可能な限りでの認識((総体としての、よりプラスベクトル要素の大きいものになるそれ、今、英語、日本古典語などのそれを含むそれ)の獲得と、可能な限りでの実現の機会の獲得と、可能な限りでのその機会を増やす行動、さらにそのそれぞれの時点での"そう"すべきであるそのための行動、の継続、を。

その"認識の獲得"は、何よりも、" '思い'の継続からの、'認識'の獲得、"? (検証は、何よりも'現実'から-現実と照らし合わせて-、だとしても。その"思い"も、現実の記憶-残像-から、それを再構成把握しているもの、だから。)

"人間とその -人間の- 生きている'環境(つまり世界)' "が、やはり実践的に肝心な要素であり、お金(資本)は、これはつまり実践的には経営は、これも何よりもそのためのもの、経営でもありうる職(業として)の仕事も、これも何よりそのためのもの、政治も、これはつまり投票や政治的意見公表なども、これも何よりもそのためのものであり、他のすべての行動も、そうだ、と把握していってもよい。

"人間が人間でありえないような、言い換えると、人間にとって幸福な時間の密度(割合)が極度に低い、一切の関係(人間自身を当然にその中に含む関係、つまり状況)が、覆されて克服されていく"環境(つまり世界)、の。

カール・マルクスの、フォイエルバッハに関するテーゼ(命題、判断)、もなお参照して、か。とも思われる。

個人的に、事務所の職の仕事と、事務所の経営と、twitterなどでの政治的意思表示と、その他一切の行動を、も、'その'ようにして、いくべきだ。



20180626-行動可能な時間、生きている時間の中での幸福な時間の密度の獲得のために使える時間、
 そして使う時間、は、繰り返すように見える1日24時間(休息時間としての睡眠時間を含めて)、という認識は、そうであるか。

そして、その認識が、生きているそのすべての時間のそのための使い方に、反映される、か、?

一日一日の時間の使い方の中に波のような、プラスベクトル要素になっている時間とそうでない、マイナスベクトル要素になっている時間とのそれのような要素があり、そのすべてを、できる限り、プラスベクトル要素の強いものにしていくことが、それ自体が、プラスベクトル要素の強い要素になると考えられるが、

この意味で、そうだと考えられる。判断できる。

幸福な時間について、瞬間から束の間、束の間からもう少し残る時間、さらに、もうしばらく残る時間、は、体験の中に、というより、体験の記憶の中にあり、その記憶の中の時間が体験として再現されうることも、つまりそれがありうることも、予測される、

再現されうるその時間の長さは、やはり、できるだけ多くの人間の、全面的な人間らしさ、というような言葉でその言葉を介して把握されるような要素に依存している、それに何よりも懸かっているように考えられる。幸福な時間の、その記憶から。

ささやかに、「瞬間から束の間、束の間からもう少し残る時間、さらに、もうしばらく残る時間」、の密度を高めていくような取組、行動、でもよいのか、あるいはそれが、適切なのか、「できるだけ多くの人間の、全面的な人間らしさ、というような言葉でその言葉を介して把握されるような要素」との関係も考えて、

前段の、後者は前者の結果?としてでよい? さらに、それらの前段として、上記の当初4段は把握できるのか。この、「前段の、後者は前者の結果?」については、前者は後者の具体的な内容。「さらに、それらの前段として、上記の当初4段は把握できるのか」は、そうだと把握できる。・・・



20180624-幸福な瞬間あるいは時間の記憶(残像)を、体験しているすべての中での
 心の中で(思いの中で)、再構成して把握する力、について、その記憶(残像)を呼び起こすための言葉を再構成把握する力も含めて、可能な限り、それに ("それ"を再構成して把握するその力を行使する)行動が向かう、あるいはそれに行動を向けていくべきことは、既に書いた。

併せて、それを妨げる一切の要素を、可能な限り、意識の中から排除していきつつ、上記のように行動していくべきであることも、既に書いた。この理由も既に書いた。

その行動の方向としては、おそらくその本筋として、できる限り、多くの人たちが(自分自身を含めて)、自分が考えてのものであっても、全面的に人間らしい人間になっていく、その(ための)働きかけをしていく、その方向に?

幸福な瞬間あるいは時間の、生きている時間の中でのその"密度"を高めるためにであってもよいものとして。?

だろう。

自分自身についても、できる限り、"人間が人間で在り得ないような一切の状況"の原因の一つにならないように、やはりその"本筋"から見て、困難な様々な問題に対する行動を選択していく、ようにして。

これも。



20180623-身体のその時間の調子(体調)と、同じくその時間の心の中の、(つらい)体験の残像と、で(おそらくそれらで)、
 とても困難になってしまう時間でも、"その"ように。("喜びあるいは幸福な時間の方に、意識が、向かおうとする、それに、向け続ける、あるいは向かおうとし続ける"ように。)

追記として、"向かう"あるいは"向けていく"方向として、「本当に幸福そうな人(たち)」という言葉を介しての方向も、含めて。

下記に、ホームページの、20180225付け、"note1"の中からの引用。
(なお、今の時点では、「向かおうとし続けることを妨げる要素、つらいことを感じてる方に、意識が向いてしまう原因となるような要素、を、意識の中から?排除して行くようにして」も含めて。さらにこの理由は、"無難"であることが最上位の目的ではない、ことから、このように把握される、こと。)

"20180225
 「『'喜びは、自分を忘れることにあるのだ'と。』
(これについては当初、自分自身に関しては違う、と考えていたが、幸福--ある質の快さ--それは、『自らの苦痛の相対的な消失を含むそれ』であるが、『それ』---に在る・・20090718---という点で、そのような意味で、以下引用部分へのコメントを含めたすべてに適用されるものとして、正しいと把握すべき、である。)

上記は、『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(同タイトルのホームページ)より引用したものに、コメントを付けたもの。 」

(以上「」内は、私及び事務所のホームページの'note3'-20090719付けノート。20090718は、そのことを考えていたということなのだろう。)

今の時点で、'幸福に向かう選択は、あるいは喜びは、自分自身の苦痛を忘れる結果を生みうる'。"

"常識的な、当たり前の"ような認識なのかもしれない、にしても。



20180622-2-新しい情報に新しい認識を加えてのそれらの成果の
 獲得そのものについて、を、本筋と考えて、か、について。

そうだとしても、なぜ?

「新しいということそのものと、本筋としてそれが体験の中の感覚に快く訴えかけてくる要素だということと、その(新しい認識を加えようとする)結果としてその要素の把握のなぜを検討すること、していくことになるから。」? おそらく。



20180622-1-記憶あるいは残像の(再構成)把握、何よりも、
 喜びあるいは幸福な時間のそれ。子供の頃、も、青年の頃も、同じ。歳を経てきて、喜びあるいは幸福な時間が、そうであること(喜びあるいは幸福な時間であること)が、よりはっきりしてきた、その記憶や残像についても。

それで?

それの獲得、把握できている時間の、生きている、活動している時間の中の密度、が、前から考えてきたように、肝心なのに、それがなぜ、とても困難?

つらいことの方に、あるいは、つらいことを感じてる方に、意識が向いてしまう、そして、喜びあるいは幸福な時間の方に、意識が、向かおうとするのだけれど、向け続ける、あるいは向かおうとし続ける、こと、が、それ自体が、"困難"と感じ(眠気も、少しだけれどそれも、含めて、特に大体いつも食後、血液流動量の関係とも考えられるそれ)、今、1時間くらい経過しているはずなのに、さらに、食事前からもそうだったがそれも含めて、

「向かおうとし続けることを妨げる要素、つらいことを感じてる方に、意識が向いてしまう原因となるような要素、を、意識の中から?排除して行けない、から」?

と、把握することはできる。それゆえ、それを、排除していくようにしつつ、向け続け、あるいは向かおうとし続けて、いくことで克服していく? テスト。(少しでもプラスベクトル要素になる-かもしれない-こととして。)



20180619-幸福とは把握しきれない、喜びが遠いかすかなあるいは瞬間的な
 ものでしかないと感じられるというつらさ、眼差しと声と姿勢と表情との総体、や、それらへの思い、との関わりの中で、それを、課題として捉えて、どのように克服していくか。

(実践として)確認できる限りで確認をしていくようにして、それが、その"眼差し他の総体"が、確認しても本当に、喜びや、幸福な時間の要素(何より、のプラスベクトル要素)であるか、について。

なぜなら、それが確認されていないから、なのだから。そう考えられるから。さらに、"本当に幸福そうな"、その人たちのその様子は、何よりそれら、だから。それらを否定する一切の要素は、変えなければならない、ものとして。

(思い出して)『人間が人間でありえないような一切の関係(状況)は覆せ(くつがえせ)、という認識が、至上命令(最上位の目的)だ。』(カール・マルクスの言葉。)

対比して、『我々1%の資本蓄積(金儲け)が、至上命令だ。』との言葉(認識)。



20180617-体験している、また体験の中で出会う様々なつらさは、喜びや幸福な時間の
 密度を高めるために、克服すべき・打ち勝つべき課題として取り組むべきもの、と把握できる。

"喜びは、過去の試練をもはや勘定に入れないものだ" ( ロマン・ロラン『ピエールとリュース』)。
喜びは、体験の中で感覚に快く訴えかけてくるもの(美しいと感じ・思うもの)・対象が、体験されるということ。

幸福は喜びが体験の中で充分に高いと感じられ・思われること。



20180614-仕事での課題に押しつぶされそうな心の存在というつらさの克服、という
 課題と、幸福な時間の密度(生の中で占める割合)については、

"前者は後者のためのもの"だから、"そのようなものとして取り組んでいく"と把握するその、後者の、"幸福な時間"は、

-その可能な限りの再構成残像把握は、いつも、恒常的になされていて、前者は、それの"密度"との対比での前者としてのみ、把握されていくのでなければならない。

 他の、さまざまなつらさの克服、という課題への取組みについても。



20180613-2-生の時間と、その中での幸福な時間の割合と、さまざまな課題と感じられること、
 後2者間の関係は、幸福な時間という言葉で把握されるもの(体験)も、その言葉で把握される現実か、その残像であること、さまざまな課題と感じられることは、さまざまなつらさへの"課題"(という言葉で把握していること)なのだと思われる。そう言ってもよい。

だとすれば、(たぶんそしてそうだから、)それは(最後者は)、「幸福な時間の割合(生の時間の中でのその密度)の実現のための」課題なのであり、そのようなものとして、いくこと。

具体的には、具体的にも、ただ、"そのようなものとして、(して)いくこと"。



20180613-1-少なくない時、時間において、何かの原因はあるとしてもどうにもならないようなつらさのある、そんな時、時間でも、
 本当に体験の中の感覚に快く訴えかけてくる対象の身近な存在、それは、目覚ましいものになりうる、その理由は、"情動と呼んで把握できるような自分自身の身体の働き"、 その働きが、その残像の再構成把握の場合にも、なされる(ことになる)ように、その残像の再構成把握をしていくこと。単純なテストをして、これは実行可能でわずかなものであるとしてもそれなりのプラスベクトル要素を持つ。上記""の要件を除いて、今までと同じ。



20180608-たとえば与謝野晶子さんの作品、その他、
 自分にとっての亀鑑的な作品を、読んだり、見たり、聞いたりしていて、その、ほとんど瞬間、あるいはその束の間の時間だけでも、少し幸福な時間が体験の中に在る、そんな時間が持てるようになること。

自分にとっての、本当に幸福そうな、同じようにして、なのだろうか、体験の中の自分や世界の総体がこのようであることのつらさに打ち勝っているその人間の、その眼差しや表情や振る舞いなどをめぐる身体の、身近な存在や、その思いに関わるそれら、から。

その密度を獲得していく試みを。



20180602-単純な発想でも、一番、いわゆる素敵な現実の"残像"を含む
 対象(ほとんどの時間はそれ)と、その近辺を探して、密度(幸福な時間の割合)を高めていくという方法、を試みていってみること。

『その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな』(みだれ髪 5番目 臙脂紫)
『清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき』(みだれ髪 18番目 臙脂紫)
『やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君』(みだれ髪 26番目 臙脂紫)

有名な(あちこちで見かける)歌。上記2番目は、自分の思いと重なってそうだという印象だけなのかもしれない。上記3番目は、「たけくらべ」末尾の、「袖の色かへぬべき当日」以後の物語。・・

「ただ耐えていくというより、もう少し積極的に」試みていく取組の方法。



20180601-たとえば与謝野晶子さんの作品の一つ一つに深く心を動かされるのは、
 やはり、何より、たとえ自分にとってのものであったとしても、人間の命の本筋に関わる亀鑑的作品、それも地球規模でのそれ、に対するいわゆる造詣(理解・認識・習熟の度合い)が深いことから来ている、よう。 子供でも、年寄りでも、プラスベクトル要素を持つそれ。



20180530-2-恥ずかしさ、と共に感じる自分自身に関わる受け入れにくさの部分について、
 つまらない、くだらないことだと思われることでも感じてしまうそれらについて、美しいと感じる現実の対象の残像の(再)構成把握くらいでは打ち勝てないようなそれらについて、それでも、その近辺に探し続けて、ずっと探し続けて、なのだろうか。

 たとえば、与謝野晶子さんの歌、の近辺? 他の人の、たとえば長篇の小説などでも、短歌の集合のように、その近辺を探していって?

 『血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな』

 『椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る』

 「みだれ髪」 4番目と5番目の歌。



20180530-認識の総体(但しこれも行動でありうるもの)に基づいて把握されている感情について、
  さまざまな、本当に様々な感覚ないしその対象や、欲求や欲望や、情動などに当然影響を受けて(変動し続けて)いるそれについて、

 その行動の一つとしての、プラスベクトル要素のある(現実の体験のその)"残像"の(再)構成把握、の位置づけは、在りうる。

 その行動の結果・効果に関わる、怒りや憎しみや、喜びや楽しさなどの感情や、それらの情動と把握すべきもの、についても、特に後者は、アンリ・ワロンが繰り返し述べていたように、(中枢を当然に含む)"感覚経"(神経-造語)の働きを通して、直接的に他者の身体や心にも影響効果を及ぼす、ということの認識を含めて。

 さらに、さまざまな喜びや楽しさは、それに対応する"人間としての"感覚経の働きが在るのでなければならない、と考えられる。逆に、怒りや憎しみは、人間には、当然に存在している、ということも言えるように考えられる。



20180528-最上位の目的へと取組みの見失いと把握と具体的な行動について、
  見えなくなってしまうような状態も、時間も、あり、少なくなく、

 「幸福な時間」という言葉を心の中で思う、それに関わる感情や、眼差しの映像や、表情の映像や、声や光の在りようや、など、

 さらに、「本当に幸福そうな人(たち)のその様子」という言葉でのそれ、も、

 その時間、の中に、それらが、含まれ、「幸福な時間」という言葉で把握できるような、その程度に密度高く在る、その時間と、その時間の、密度(=生きている時間の中の割合)、単純なような、ものすごく複雑なような、大したことではないような、でもものすごく困難なことでもある時間があるような、それ、

 それが、最上位の目的、なのだけれど、その「幸福な時間」との把握を、どのように行うのか、表情の残像、声の残像、現実の部屋や街や樹木やなんかの中のそれら、悲惨な現実に対して、打ち勝てていると把握できるようなそれら、

 どのようにして、高めるのか、についても、昨日、2、3日、1週間、1か月、3か月、半年、1年、3年、10年、30年、50年など、照らして、

 生きているその時間の中で、この時間の中で、それらすべての時間と照らしても、の、?把握ができるように?

 愛という言葉、恋という言葉、強い友情という言葉、のような感情、の要素、が、等価であるような要素、は、いつも本筋の要素として、要るのだろう?「誠実さ」という言葉、「優しさ」という言葉、「真剣さ」という言葉などで把握されるやはり感情のような要素として?後者たちは、現実に立ち向かい闘うためにも要る要素として?

 それらのように考えられる。

 それで、具体的な行動としては、以上のようなことを思いながら、「最適」な具体的な行動を、選択して実行していく?そのための目標や計画はこれまでのものを活かして?だろう。



20180527-疲れからくる、痛みや熱などでのだるさから(一応)回復して後の、件、
 疲れからくる、痛みや熱などでのだるさから(一応)回復して後の、件、やはり、一番上位の目的、生きている時間の中の幸福な時間の密度(割合)の充実、それを、見失ってしまうこと、について、

 まず、なぜ?(そうなってしまうの?)それを思っていない時、そうなのだが、それを思ってない時は、ほとんどの時。"その"状態から、それを思っている時を、呼び戻すには、そして見失わないためには、実践あるいは実行と呼ばれる行動を取っていく以外に無い?

 他にうまい方法など考えられない。たとえ"命の本筋に関わること"なのだとしても。たぶん"人間の命の本筋に関わること"として、そう、なのだろう。

 目的も、その実現のための「目標と(行動)計画」も、流動的なものだが、それぞれその実現や達成のための行動の中で、たぶんその行動の一部として、より具体的に把握していくべきもの、なのだろう。言葉や図表などに既に示された目的や目標や計画についても、そのように把握していくべきもの、として。



20180525-休む以外に回復できない身体的不調など、について、
 休む以外に回復できない身体的不調など、について、少しのそれ、かなりのそれ、とてものそれ、精神的に集中が困難な、あるいは少しの、さらにかなりの眠気、など、仕事が進むかどうか、休んで居られるかどうかも、
但し起きて居られる程度の(限度の)それ、

 すべて、いずれも、生きている時間の中での幸福な時間の密度(割合)が高まるかどうか、に関わるものとして。一番上位の目的はこれ。従って、

 つらい、痛みや眠気や疲労感やせつなさ感などがある中でも、"その"ために闘っているかを、それを、あるいはそれだけを、確認しつつ、そのために最良と思える具体的な闘いを進めていく。ただそうして、そのようにして、いく。命の本筋に関わることなのだろうが、そのようなこととして。



20180522-20151121にこのhomepage-素材ノート1(note1)に書いたことの再検討。「幸福な家庭は似たり寄ったりだが、不幸な家庭はその不幸の内容がそれぞれ大きく異なる(ものだ)。」との(記憶からの文言での)レフ・トルストイ 『アンナ・カレーニナ』の冒頭の句について、
 その逆でもありうるのではないか?について、

 「不幸な家庭はその家族の悲惨な死をも含めて似たり寄ったりであるが、幸福な家庭はその幸福の在りようが、その幸福な時間のその質が、それぞれ大きく異なる(ものだ)。」?

 家庭って、何だろう?を含めて。

 「家庭とは、夫婦、親子などが生活を共にしている集団」。(『類語国語辞典、大野晋・浜西正人著、角川学芸出版のその意味の定義。) どの程度?(どの位の時間と距離を持ってが、それぞれ限度で?)また、夫婦・親子ではない共同生活の集団の場合は?

 その定義の、『何らかの時間と距離の中で』及び『など』の中の意味に『夫婦・親子ではない、但しそのような役割を互いに果たす者を含む共同生活者』も含めれば、その意味で可能。天涯孤独者の場合であっても。

 そのように(逆も在りうるものと)把握しないと、幸福な時間の密度が充実することは、在り得ない、のではないか?『アンナカレーニナ』の物語も、『ボヴァリー(ボバリー)夫人』の物語もそのように物語っているのではないか。?"美しい"と感じ、思われるその在りようの物語として。?



20180519-世界の中の人間間の殺人を含む争い、土地を含む、人間の労働者を含む財産への欲望にも関わるそれ、
 体験している世界の中の人間間の殺人を含む争い、土地を含む、人間の労働者を含む財産への欲望にも関わるそれ、怒り、憎しみ、傷つけてもあるいは傷つけたいという欲望、それが、その欲望を達しても幸福な時間の密度の充実の点からマイナスベクトル要素になる、あるいはそういう要素にしかならないのではないかとの認識の、覚え書き走り書き。認識としては一見単純なことのようでもあるそれ。



20180519-おおまかな、かつ肝心な把握として、国は一つの地方として、
 おおまかな、かつ肝心な把握として、国は一つの地方として、地球規模と個人規模でのそれを、言葉もなるべく学んで。

 20180521追記 - 「1868年(150年前)に石見国(いわみのくに)津和野藩の典医(藩主のかかりつけ医師?)の家に生まれた森鴎外は、10歳で離れた故郷に生涯戻ることはなかった。・・」-「『森鴎外と国家』- あのときから始まった - 150年の軌跡。」-本日付参考新聞記事。(『森鴎外と国家』1) (『森鴎外と国家』2)


20180518-現在の体験での確認と過去の経験での確認と言葉による認識を活用して、が、
 現在の体験(midperience-私の造語)に照らしての確認と、(相対的に時間を経た)過去の経験(experience)に照らしての確認と、小説など物語によるものを含めての言葉の意味による認識を活用して、が、それぞれの人自身の、少しでも幸福な時間の密度の充実のための課題解決の、本筋の方法(手段)だろう。

 課題解決の取組み、あるいは行動の出発点は、(つらさであれ、喜びであれ、幸福感であれ)現在の体験や過去の経験の方からだが、現在の体験や過去の経験に照らしての確認は、言葉の意味による(言葉の意味の指し示すものを通しての)認識と、当然に(言葉を使用できるようになってからは)並行的にあるいは交錯的になされていく。
(この認識あるいは判断自体、言葉によるものである。)

 その時現在確認できる体験の中の"美しさ"の度合いの強い現実の対象を、把握している-感じている-その体験や、過去の経験の中のそのような対象の再構成把握をしての残像を把握しているときのその体験、に関しても、それらの逆であるようなつらい体験に関しても。

真剣さと優しさのその両方が、とりあえず、その確認の大きなプラスベクトル要素になる。

 自分自身がどのような状態であっても、身近に居る人がどうか、によって、少しでも幸福な時間のその密度が全然違う。(誰でもそうなのだろうか。)

 上記と逆に、自分自身の経営状態(経済的状態)によって、どんな人がどのように身近に居るかが、異なりうる。同じように、逆に、自分自身の体調(あるいは心の状態)がどのような状態であるかによって、どんな人がどのように身近に居るかが、異なりうる。それぞれ、三者間に、当然、関連性がある。

 本題と少しずれるが、立位でも座位でも、動かないで体を休めること、目をつぶって、眠り込んでもいいものとして、思考も休める-自由に、あるいは勝手に夢見ることは差し支えないものとするような-ことをしばらく続ける"だけの余裕のある時間が取れれば"、かなりの強い疲労であっても、少し回復する?よう。あるいはそういう時間もある。
(書き流してしまったが、立位では無理、だろう。)



20180515-取組みの出発点と取組みの継続、目的、言葉とその意味と、現実の対象のその密度と、その残像の再構成把握などの関係について、
 取組みの出発点と取組みの継続、目的、言葉とその意味と、現実の対象のその密度と、その残像の再構成把握などの関係について、

 取組みの出発点と取組みの継続は、(現在時点で)目的の実現のためだが、それぞれ基本的に言葉を通して把握される。

 言葉は、直接的には、音声や録音や紙やディスクの中の現実の対象であるが、その言葉の意味は、その言葉の意味を把握する(自分自身を含む)人が、その言葉の意味として示される対象を、現実の対象についての再構成をしたその残像(再構成の意味では"のようなもの")として、一旦は把握して(現物を言葉で示す場合でもそうだろう)、把握される。

 体験の(世界の)中の、"美しい"(・・・)と感じられる現実の対象のその美しさの度合いの強い(あるい高い)ものは、現状、(自分自身の場合では)一瞬のようなあるいは束の間のような時間として把握される(つまり密度が極めて低い)のが基本であるが、

 そのような現実の対象の再構成をして把握するその残像(のようなもの)は、その現実の対象のその美しさの強さの度合いに及ばないにしても、そのような残像として把握される-されている-という要素は、やはり、体験の現実の中に、現実の対象とともに、併存していると考えられる。(相対的なものなのだろうが。)

 しかし、その、現実の対象の再構成をして把握するその残像の把握も、その"美しさ"の強さは、どんなに一瞬のようなものであったとしても、現実の対象のその美しさの強さを把握したそのことに起因してなされ、それが(そのようにして把握されるのであることが)ほとんどすべて、なのではないか。現実の体験的に、また過去の経験的に。現実のそのような対象の密度を高くすることの困難さをむしろ前提にして。

 (言葉として記録されている物語のその言葉-自体-は現実的な対象だが、その物語の"美しさ"の"強さ"は、それを聞く人、読む人のその言葉の示す対象を再構成して把握するその残像によるものだろう。・・)

 上記の、言わば仮定的認識を持って(保持して)、取組みの出発点は上記のとおり言葉によって示されるものとして、取組みを継続していくべきなのだろう。真剣なことに取組むという場合にこそ。たぶん。

 そのような現実の対象が、体験している世界の中に密度高く在るようにする(なる)までの間、耐えていく、というよりもう少し積極的に、その"運命"と闘っていくこと。



20180513-「在る」ことと「在った」こととは、体験の中で瞬時に入れ替わりうると共に、
 「在る」ことと「在った」こととは、体験の中で瞬時に入れ替わりうると共に、その時点で重複しているような部分も在る。体験しているその対象が、現在の現実の対象であるのか、現在の現実ではあっても現実の対象のその残像としての対象であるのか、など。

 ・・・それで? 「現実に在る、あるいは現実に在った対象であって、その行動として"美しい"と感じられ、思われる対象から出発させて(真剣なことに取り組んで)いく」と言う場合の、その「現実に・・対象から出発させて・・」というその"対象"は、そのようなものであり、それゆえ、そのようなものでよいものとして、でかまわない、ということ、その範囲であいまいなものであってさえかまわないということ、このことの確認(の意味が、上段の判断-認識-にはある。)。ただそれだけのこと、だが。

 残像には、自分自身で再構成して把握して(体験して)いる要素が、大抵含まれていること、もあるので。

 職の仕事においても、行動として可能な表情や姿勢などにおいても、その他の雑事においても、思考においても、政治に関わる取組みにおいても。



20180512-2 「真剣なことに取り組もうじゃないか。」という言葉(ポール・ニザンの『陰謀』の中の、登場人物の一人、ブロワイエの言葉)について、
 「真剣なことに取り組もうじゃないか。」という言葉(ポール・ニザンの『陰謀』の中の、登場人物の一人、ブロワイエの言葉)について、真剣なことに取組むことは、私には(面白いこと以上に?)"美しい"(・・・)と思われ、感じられるし、楽しいのだけれど、

 傷つけ合うこと、殺し合うことなどは(怒りや憎しみに突き動かされてしまうような場合も含めて)恐い、あるいはつらいので、さらには"プラスベクトル要素"になることはないので、避けたいものとしてその中に含めない、ものとして、その条件の元でその言葉を受け入れていく。・・?

 取り組むことに関して、「楽して効果上げたい。」という要求の要素は昔からだがある、そしてそれに関連しているのかどうか、"美しい"(・・・)対象そのもの、美しさ(・・・その要素)そのもの、に、近づいていく、あるいは触れていく、などのことについて、検討して、

 本当に(錯覚ではない、なかった、ような、であっても)美しい、その度合いも含めてのそれらについて、自分自身の行動と、その対象の行動と、に、やはり関わっていて、かつ、現実に在る、あるいは在ったそれら、おそらく、生きている、そして生きていた、に関わっているそれ、ら、

 を出発点にすることに戻って、そのように。(真剣なことに取り組んでいくように。)?迷うときに。試み、でもよい。そのように。



201805120-beautiful is beautiful does.? lovely is lovely does.?
 beautiful is beautiful does.? lovely is lovely does.? 美しいとはその行動が美しいこと、素敵だとはその行動が素敵だということ、喜びや幸福な時間の密度の充実の点から、その選択可能な度合いも含めて。自分自身とその対象でもある他者たちのどちらから出発点になる、あるいはするのか、は、状況によってなのだろう。



20180508-2-本当に優しい(いくつか定義がありうるけれど、だいたいは同様な意味。)というのは、母親でも、父親でも、子供でも、
 本当に優しい(いくつか定義がありうるけれど、だいたいは同様な意味。)というのは、母親でも、父親でも、子供でも、美しい。(繰り返し、「感覚に快く訴えかけてくる。」)できればいつも。人間でも。あるいは人間でなくても。



20180508-美しい(「感覚に快く訴えかけてくる」[『類語国語辞典』大野晋・浜西正人著、角川学芸出版での定義から。])ということの、
 美しい(「感覚に快く訴えかけてくる」[『類語国語辞典』大野晋・浜西正人著、角川学芸出版での定義から。])ということの、美しいと感じられることの、その人にとってのその意味や、その強さは、その人にとっての喜びや幸福の不可欠的な要素であると考えられるけれども、

 人間の、さらには人間に近しい生命たちの、生きていくことの中のつらさを少しでも受け入れられるようにするための、あるいはそれ以上に、そのつらさを消失させて喜びや幸福を獲得していくための、一番深いところから発している要求なのだと把握することが、可能である。・・

 そのように闘う力さえも出てこない状況が、生きていられる限りは、長く続くということはない。・・(『古代ギリシャ哲学者列伝』岩波文庫、第10章、エピクロス、の末尾近くの考察も参照。)

 (繰り返し)同じ定義の意味で、美しいと感じられることの意味について、生きていくことの中のつらさを少しでも消失させて喜びや幸福を獲得していくための、一番深いところから発している欲求だと考えることは、

 ありふれた、新緑や紅葉や落葉や新芽の芽吹や、身近な動物達のただ生きて生活してるだけのようにも見えるその美しさにも重なり、人間に近しい生命の燃えるというような、次の世代のそれらを含めてのその一つ一つが、運命に対する勝利の一つ一つと把握していくことができることに繋がるかもしれない。



20180507-他者の喜ぶ表情と、自分自身の、それ ? (自分[自身]の実践の結果を含むそれ)、
 他者の喜ぶ表情と、自分自身の、それ ? (自分[自身]の実践の結果を含むそれ)、目的と目標との関係で、だが、 (そして自分自身のそれは鏡に映ったそれか写真などに映ったそれで把握するしか現実には把握できないのだが)

 他者の一人としての自分自身なんて、? 一番身近なそれ? この、これらの言葉の最後の言葉の部分は、つまり、自分自身は一番身近な他者でもある、という体験的な把握の仕方は、どうなんだろう。

 同時に、では、? 自分自身であると同時に、? 目的と目標との関係で、だが、

 少なくとも、目的の実現とそのための具体的な目標達成の実践の有効性の観点から、そう、?

 アンリ・ワロンがこれらに関する、子供の心の発達についての著述の中で、「自我(自分あるいは自分自身についての体験的な把握あるいは意識)は、他我たち(つまり他者たち)と同時的に構成される」という趣旨のことを述べていたことに関わると考えられるが、

 実践的に、そう、・・何より他者の喜ぶ表情と、自分自身のそれとの関わりで、自分自身は一番身近な他者でもある、という体験的な把握の仕方はしていくべきだ、ということについて、

 一番身近な他者として、喜ぶ表情へ、その時その時の状況の中で、たとえばそこに誰も居ない(猫や犬や雀やカラスやねずみやゴキブリ・・は、取り敢えず考察外としての)状況の中でなどでさえ・・

 しかし、一番身近な他者としての自分自身の他にもう一人でも、"素敵"な人が身近に現実に居ると(友人ならそれは誰でもいいかもしれないにしても)、目的実現も、そのための具体的な目標達成(値)も得やすい状況にはなる、

 その現実が無い時間、その現実への"思い(思うこと)"だけでも、より、得やすい状況になる、具体的な目標(値)との関係でも、と把握できる。

 この末尾の認識による力も、現実の体験の時間との(前者が前の)、時間的な前後の位置?関係に反比例するような関係にあるにしても。



20180506-3-『A Little Princess, by Frances Hodgson Burnett』( The Project Gutenberg EBook of A Little Princess, by Frances Hodgson Burnett より。 )の 「 8. In the Attic」は、少し難しい(時間がかかる)ので、やめて、『小公女』(「青空文庫」の中の、菊池寛訳、
 『A Little Princess, by Frances Hodgson Burnett』( The Project Gutenberg EBook of A Little Princess, by Frances Hodgson Burnett より。 )の 「 8. In the Attic」は、少し難しい(時間がかかる)ので、やめて、『小公女』(「青空文庫」の中の、菊池寛訳、

 フランセス・ホッヂソン・バァネット A LITTLE PRINCESS の日本語版。)の、「八 屋根裏にて」、を急ぎ足で、一応読了。

 「・・・そうはいうものの、彼女を慰めてくれる三人の友がなかったら、セエラの心は寂しさのあまり破れたかもしれなかったでしょう。・・その友の一人は、あのベッキイでした。・・・その慰めの気持は、夜ごとに強くなって来るのでした。」



20180506-2-『クオレ』(The Project Gutenberg EBook of Cuore (Heart), by Edmondo De Amicis-イタリア語からの英語訳版) THE DAY OF THE DEAD.(All-Souls-Day.) November 2d.(p22) [献身-万聖祭?]を、一応読了。自分で、
 『クオレ』(The Project Gutenberg EBook of Cuore (Heart), by Edmondo De Amicis-イタリア語からの英語訳版) THE DAY OF THE DEAD.(All-Souls-Day.) November 2d.(p22) [献身-万聖祭?]を、一応読了。自分で美しい(「感覚に快く訴えかけてくる」)と感じられる要素だけ、でも、取り入れていくことで。

 当初タイトルを引用した時には、本文を読んでいた影響で、"dead"を、日本語訳は思い出せず少し違うかなとも感じながら"deed"と読み間違えていました。しかしやはり同じ意味だと把握できます。つまり、本当に意味のある死のことを述べていると。

 それが本当に意味のある死であるか、は、「その人」のその死が、まず、自分自身にとってそうであるか、そしてその人に関わりのあった(自分自身にとっては)他者である人たちにとって、そうであるか、という点から。さらに、「その人」の中には、自分自身も含まれる、あるいは含めていい。

 その、「意味がある」とは、生きている人たちの生きている時間の中での喜びや幸福の密度の充実に、プラスベクトル要素があるということだ、と把握することができる。そう考えることができる。

 愛していた人の死が、自分自身にとって本当に意味があるのか、は、その人の生きていたその時にその人が幸福だったと言えるのかどうか、だけに掛かっている、のではないか。



20180506-なぜ、密度の充実への、具体的な目標達成という在りようでの取組みへの集中が、こんな に困難なのか。
 なぜ、密度の充実への、具体的な目標達成という在りようでの取組みへの集中が、こんなに困難なのか。その直接の対象が、その時点で(但しほとんどいつも?)興味を持てるというものではないこと、むしろうんざりしてしまうような嫌な(感じを持つ)対象であること、?

他に、その時点で(但しほとんどいつも)興味を持てる対象が、胸躍る(胸躍らせる)ような対象が、「ほんの少しの喜び」であっても、かすかにでも感じられており、そちらに向かう力が、働いており、それが感じられており、

それに対して闘っていかなければならないが、その力に負けてしまうことが、少なくない、こと? 大体、こんな理由だが、それでは?

そちらに向かってしまうとなかなか戻れない、また、そちらを取り込もうとしても、なかなか適切にそれができない、

取組みへの、そしてそれに向かうこと、向けることへの集中と、興味、胸躍らせるような要素・・?? その先に在りうべき(在ることになる)、基本的には心の中での、対象(そのもの)を、そしてそれに向かうこと、向けることへの、集中のための、何より手掛りにしていく?

以外に無いのかもしれない。『クオレ』の中に、これに関わる物語が、幾つも描かれていて、読んでいた、それにも関わって、上記のように。?『小公女』の中にも、『私の一番良く知っていた子-バーネット自伝』の中にも、出てきていたはずなのに、この認識が得られていなかった、として。?

さらに、自分だけのためだけじゃない部分を、必須に含めて、?本筋として出発点から、あるいは本来的には、含まれているのだろうが?その対象(そのもの)を考えてみて。? 今の時点で、おそらくとして。

職の仕事の部分でも(今ほとんどそうなのだけれど?)、依頼者の喜ぶ表情、など。・・



20180505-読むことは、書くことと同じくこれも"歌う"ことだということ、自分自身に対して(発見だった)この観点からなら、
 読むことは、書くことと同じくこれも"歌う"ことだということ、自分自身に対して(発見だった)この観点からなら、手元の、若松賤子(しずこ)訳、フランシス・ホジソン・バーネット原作の『小公子』も、デ・アミーチスの『クオレ』も、与謝野晶子の『みだれ髪』も、ギュスターブ・フローベールの『ボヴァリー夫人』も、マルグリット・デュラスの『愛人』でも、時間をかけても、そのように読んでいけるかもしれない。

やはり認識の手段でもある、と同時に。



20180504-2-体験の時間の中での、目標達成への取組みと、"密度"の充実との関係について、
 体験の時間の中での、目標達成への取組みと、"密度"の充実との関係について、は、後者自体を含めての前者への取組みを、後者のその目標への取組みをその一部として、?そのように。? おそらく。



20180504-歌っていること、歌うこと、の意味、与謝野晶子氏が『みだれ髪』を歌うこと、など、 は、
 歌っていること、歌うこと、の意味、与謝野晶子さんが『みだれ髪』を歌うこと、など、
は、下記()内数段のことを要約して言えば、つまり、

 (歌う=楽曲やメロディやメロディのある言葉を声を出して、あるいは心の中で表現する、鳥などがさえずる[これも左右の各段の意味と同じようなものと把握できる]、心情を和歌や詩で表現する、こと。
[日本語入力ソフトjapanist2003の定義を一部借用して。])

 そして、物語(小説など)の言葉を心の中で、あるいは文字にして、なぞったり、再構成して表現したりすること、これは、これも、やはり、メロディは、平板のように感じられても、付いて行われているのだろう、そのメロディを、なぞったり、再構成して、メロディのある言葉として、声を出して、あるいは心の中で表現する、こと、

 再構成して表現することは、これも、なぞったり、の一つに近いものである場合もあり、根本的には、本筋の出発点としては、そうだろう、が。)

 "歌う"ことは、心の中を含む体験の在りようを、(生命が、特に人間が)自分自身から変える試みで(も)ある。・・・?

 どうにもならないようなつらさの中に居るとき、やりきれないような状況の中に居るとき、そして逆の、と言っても、本当にわずかな時間でも本当にわずかな喜びや幸福感でも、それらを感じられたとき、呼び起こすことができたとき、など。?

 "詠嘆"(と言っても、嘆きの意味を含むそれ)は、やむを得ないとしても、無いよりはいいのかもしれないが、詠嘆の歌ではなく。?さらに、詠嘆以外に歌える気分ではないとしても。?さらには、詠嘆でも歌える以上。?おそらく。どうにもならないような状況の中での一つの可能性としても。

 読むことも、"歌"をなぞることでもあり、"歌う"ことの一つでもありうる。読むことのできる時間において。

 「叫びは、人間に課せられた条件を破壊することができる。」との趣旨の、ポール・ニザンの言葉があったことを思い出した。関連はあるのだろう。



20180503-(経験的に私には明らかな、基本的には困難さを伴う、と言ってよい)目標達成への取組みと、喜びや幸福の、
 (経験的に私には明らかな、基本的には困難さを伴う、と言ってよい)目標達成への取組みと、喜びや幸福の、一瞬のようなものを含むほんの少しのもの、との関係について、

前者は、後者の少しでも、の、密度の充実のためのものだが、後者を思い出すこと思っていること感じていることだけでは当然前者は進まない、それゆえ、もあり、また、前者を進めるためには、そして進める上では、後者を思い出すこと思うこと感じていくことがプラスベクトル要素を持ちうるので、このこともあり、前者を進めるために、後者を思い出すこと思うこと、時により強く思うこと感じていくことを位置づけて把握していきつつその取組みを進めていくこと。

 さらに、前者を進めるために、それを進めていく方向に、自分自身を向けて行き続けること、は継続的に。(これも、経験的に、その方がプラスベクトル要素が高いことを確認していけるため。)

 昨日書いて直接twitterで投稿していた確認(認識)、についての下記のテキスト、に付加してのものである。

「20180501-b-1.どうにもならないようなつらさは、すべて、ただそれを耐えているだけではなくて、それを少しでも消失させることのできるような一瞬のようなものでも喜びや幸福を獲得するようにすることで、克服していくこと。

20180501-b-2.ただし、そのような一瞬のような喜びであっても、そのような時間の密度の充実を求めるのであれば、そのために(こそ)耐えていかなくてはならない取組み、闘いといってよい取組み、が、少なからず必要になる。」

 上記の付加は、より正確な認識として把握して、のものとして。



20180429-4-我々はただ一度だけ生まれたのであって、・・そしてもはや永遠に存在しなくなるだろう。ところが君は、
 「われわれはただ一度だけうまれたのであって、二度と再び生まれることはない。そしてもはや永遠に存在しなくなるだろう。ところが君は、明日の主人ではないのに、幸福を後まわしにしている。人生は明日に延ばすことに空費され、われわれは皆、幸福のための時間を持つことなく死んでいく。」
(20180429-3と同じく、ポール・ニザン、『古代の唯物論者たち』から。原典名引用省略。下記3段との引用順序を変更して先頭に配置。"死についての警句"と題された段落部分からの引用。)

 「死はわれわれにとってなにものでもない。なぜなら、分解してしまったものはなにも感じないし、感覚を持たぬ者はわれわれにとってなにものでもないからである。」(原典引用につき同前。)

 「人はだれでもたったいま生まれたかのように、生から去って行く。」(同前。)

「その他のすべてに対しては、安全を確保することが可能である。しかし死に対しては、われわれ人間は城塞のない都市に住んでいる。」(同前)。)

 「無限の時間の過去への拡がりを考え、物質の運動の無限なることを考えるとき、今われわれの存在を構成している原子が過去においてすでに一度ならず今と同じ配置に並べられたことがあることは容易に創造がつく。

 ただし現在の我々は自分の記憶の内にこの過去の状態を思い起こすことはできない。その後、生命の中断が起こり、すべての原子は感覚の外側に迷い出で、いずことも知れず飛散してしまったのである。いずれにせよ不幸と苦しみが人間に影響を及ぼし得るためには、その人間自身が不幸(や苦しみ)によって影響されるまさにその瞬間に、生きていることが必要である。

 死が現在の生命を破壞し、未来の不幸(と苦しみ)によって脅かされる者の存在そのものを絶ってしまう以上、死はなんら恐るるに当たらない、現に存在していない人間が不幸になるはずがない、また、すでに昔、生まれたことがあるかないかなどということは---そのような死すべき生は永遠の死によって破壊されてしまったのだから---どうでもよいことである、という結論をわれわれは引き出すことができる。」
(原典引用につき、これが、エピクロス派のルクレチウスの著作からの引用であること以外、詳細省略。)



20180429-3-『古代ギリシャ哲学者列伝』(岩波文庫版)、第10巻("章"は誤記)、エピクロス、再末尾の記述
  『古代ギリシャ哲学者列伝』(岩波文庫版)、第10巻("章"の記載は誤記)、エピクロスの、再末尾の記述相当の幾つかを下記に引用。但し、テキストは、ポール・ニザン、『古代の唯物論者たち』(晶文社、加藤晴久氏訳)から。

 「『エピクロスは愛には厳しいが、友情はこれを讃美している。愛他主義はまったくない。友情はある必要を充足させるのである。ひとはそれぞれ己れ自身の快楽のために友情を培うべきである。友情はさらに他の人間たちとの関係で安全を確保する手段である。友人はわれわれを保護してくれるからである。」(これは、ニザンの"原注"。)

 『生涯にわたる至福を獲得するために知恵が手にいれようとするすべてのもののうち、なににもまして重要なのは友情の所有である。(原典名引用省略。)』

 『友情は援助を受ける欲求から発するものではあるが、どんな友情でもそれ自体で善きものである。』(同前。)

 『われわれの助けになるものは、友人の援助そのものよりはむしろ、その援助に対するわれわれの信頼である。』(同前。)

 『友情は、幸福に目覚めよとわれわれすべてに呼びかけつつ、世界を踊りまわっている。』(同前。)

 『隣人たちからの完全な安全を獲得するにいたった者たちはすべて、極めて快適に生活を共にすることができる。互いに心から信頼し合っているからである。そしてもっとも充実した親密な関係を楽しんだ後では、友人が先立ってこの世をさるようなことがあっても、憐れんでいたずらに嘆き悲しんだりしないものである。』(同前。)

 「この断片が『主要教説』(原典名、説明は省略。)をしめくくる。エピクロス派の社会的行動をよく要約している一文である。・・・」(これも、ニザンの"原注"。)

 上記と照らして、このたびの韓国と北朝鮮の首長の会談の報道を見て、その成果として少しでも戦争がやりにくくなるということは言えるように思います。



20180429-2-その、「そのための具体的な目標設定把握」の何よりも第一のものが、
 その、「そのための具体的な目標設定把握」の何よりも第一のものが、友情を育てることに関わるものであって(『古代ギリシャ哲学者列伝』(岩波文庫版)、第10章、エピクロス、についての記述も参照)、

体験の中で、その取組み結果の密度を確認していくことは、可能でありうるか、について、 その取組みへの試みだけでも、確認でき、可能でありうる。

 次に、体験の中の状況にも関わるものとして、経営(自分自身の経済的な営み)と、他者の個人を基本的な最小単位とする経営への支援の取組みの具体的な目標設定把握について、

前者は一応把握されているものとして、後者については、職の仕事を通しての中で、と、ホームページ他での何よりそのための共通的なプラスベクトル要素を持つ認識の普及のための取組みの結果の密度を確認していくことは、

現状、アクセス情報把握位しかできないとしても、可能でありうると把握することができる。



20180429-「『記憶・・から引き出してくる、 但し再構成して把握されるものであるはずの、 少しでも幸福だった時間のその時間への、"それ"への思い、について、』
 「『記憶あるいは印象あるいはそれらの余韻さらには名残の中から引き出してくる、但し再構成して把握されるものであるはずの、少しでも幸福だった時間の、その時間への、"それ"への思い、について、』

物語を書く人、話す人、などの、それについても、考えてみて、書くこと、話すこと、生きること、『その、"ほとんど希薄な、その密度、を、濃くしていくことができるような"、』

具体的には、その思いを心の中で述べること、話すこと、テキストに書くこと、など、 但し肝心なのは、本筋なのは、それを生きることなのだろうが、

言い換えると、それを、生きることで実現していくことなのだろうが、 そのための具体的な目標設定把握と達成への取組み」

について、は、

「いつ変更してもよいものとして、の」、 それが(上記「」が)、具体的な実践の、取組みの、在りよう、だと把握できる。(把握することが可能である。)



20180428-2-困難でも、体験の中の自分自身とそれに関わる部分から、を本筋のいつも出発点の部分として、
 困難でも、(体験の中の)自分自身とそれに関わる部分から、を本筋のいつも出発点の部分として、そのようにして、できる限り亀鑑的作品を作るように生きること、について、も。

 疲れている時間、休息が取れない時間、特に(当たり前のこととしても)困難でも、それが無いと、本筋から、逸れる(それる)結果に、(体験的に)なる。

 この認識は、(体験の中の自分自身とそれに関わる部分以外の部分との出会いは、それが"素敵な"ものであれ、そうでない、逆のようなものであれ、これも恒常的だが、それでも)、体験の中のそれぞれの時点で、亀鑑的作品を作るという観点から確実性が高く可能になるのは、

どんなに困難でも、何よりも、体験の中の自分自身とそれに関わる部分から、をいつも本筋の出発点の部分として行う行動であること、

の認識に基づき、プラスベクトル要素を持つ。考えてみればこれも当たり前のような認識だとしても。

 この認識の意味が大きい(高い)のは、一見して困難であるように思え、感じられるとしても、それは、恒常的な出会いが素敵なものではない、むしろつらい時間が圧倒的に多いからであるとさえ思える場合のあること、そしてそうであっても、

繰り返しの記述だが、「体験の中のそれぞれの時点で、亀鑑的作品を作るという観点から確実性が高く可能になるのは、どんなに困難でも、何よりも、体験の中の自分自身とそれに関わる部分から、をいつも本筋の出発点の部分として行う行動であること」の部分。

 その行動の部分に関して、これについても、これに即しての具体的な目標の(変更しての)設定とその達成への取組みは、それがないよりもプラスベクトル要素が高いと思われる。

 時間割とは異なる結果になっても、あるいは時間割を変えてでも、思い切って休息を取って(何より、体を横たえての体を休めての就寝時間の確保としての休息を取って)も含めて。いつか処分して、その結果を忘れてしまったけれど、『シスター・キャリー』(セオドア・ドライサー)の中に出てくる、揺り椅子でも、可?

 それも含めて、具体的な目標としても、いつも、"本当に"、いいね、と思え、感じられるような、「友情を育てるという方向への取組みを選択していくこと、友達だよね、と言っているような表情をいつもできる限り選択していくことなどを中軸的なものとして含めて、いつもできる限り、より"目的"により近づけている、より目的が実現できていると感じられるような行動を選択していくこと。

 「自分自身とそれに関わる部分から出発させて、としても、その選択可能性の中に、何か在りうるか、現実の感覚や、心の中のその残像にはなっていなくても、印象や、かすかな記憶というようなものを手掛りにして、?

かすかな記憶、かすかな感覚と感情の動かされるような記憶や印象、喜びや楽しさの、かすかなものでも、それ、ら、は、有る、そして、記憶から引き出せてみれば、体験の現実の中に在ったものである、

その、かすかな記憶や印象は、心の中のもの?なのだろうが、本当に微かなそれ、残像というより本当にかすかな余韻、あるいは名残、というような、それ、

それを、現実の体験にできるように、そのように、いつも、ずっと、思っていき、その現実の体験の密度を充実させていかれるように、

そのための恒常的な姿勢も、選択していって」。

 この「」のことと、目標(変更)設定の件、については、これを、体験的によりよく把握できる、感じ取ることができていくように、として、これを、最上位の具体的な目標としてでも、いいものとして、これまでのものと比しても、体験的に。



20180428-友情を育てるという方向で、なら、すべての人たちへの対応は、
 友情を育てるという方向で、なら、すべての人たちへの対応は、プラスベクトル要素を持つ取組み方として、可能になりうるというより、可能になる。

 人間は、自分自身の体験から見て、自分自身を含めて、一番複雑な生物だからでもある。犬や猫より、花(バラとか)などより、細菌やウイルス?などより。自分自身の体験の、その幸福な時間の密度の高さ、低さから見て。

 これは、基本的な、というよりも人間の初歩的な認識なのだろう。(保育園、幼稚園、小学校などで学んでおくべきそれとして。)



20180426-信仰を持つ人のその信仰を持っていることに基づいての行動が、
 (宗教への)信仰を持つ人のその信仰を持っていることに基づいての行動が、人間の亀鑑的作品の一つ(一つ)でありうる、という認識について、

(ここでの宗教の意味については、「神または何らかの優れて尊く神聖なものに関する信仰。また、その教えやそれに基づく行い」[『日本語wikipedia』]をそのまま引用して定義して、また、「信仰」の意味については、「神仏を信じてその教えを尊ぶこと」[『類語国語辞典』角川学芸出版]の定義を引用して)、

 そう述べている人たちの行動を見てきて、これも、プラスベクトル要素を持つことが、把握できる。これも記録しておきたい。



20180425-一瞬の出会いのような幸福な時間のその密度の充実の、
 一瞬の"出会い"のような幸福な時間のその密度の充実の、(心の中でのそれを含むという観点から)相対的なそして交錯的なものでもあるその現実の、把握であり体験である"具体的な目標の達成"と(それを通しての)"目的の実現"でもいい。

 経営、経営支援、政治参加、基本的な法律認識をも含む"認識の総体の活用への"支援、友情(友達だという思いやその心の中や現実の感覚での楽しさと言ってしまっていいものの要素)を育てることへの取組み、などの、それぞれの目標の達成、幸福な時間の密度の充実という目的の実現などについて。



20180422-実現させるべき目的とは、在りうべき体験についての、あるいはその対象の、現実の体験の中に在った
 実現させるべき"目的"とは、在りうべき体験についての、あるいはその対象の、現実の体験の中に在ったその体験の再構成把握残像である、と把握できる。そしてそのように把握すべきだろう。そしてその実現とは、その在りうべき再構成把握残像が、現実に体験できていると確認できていること、確認してもそう感じられていること。・・

 その目的の実現のためには、そのための具体的な"目標"を、これも現実の体験の再構成把握残像であるにしても、具体的なものとして把握したその結果として設定し、その実現のために(目的の"実現"の取組みと区別するとすれば、その"達成"のために)、具体的な実践として取り組んでいくべきである。

 具体的な実践とは、紙やディクスへのテキストの作成であれ、視線や手や道具や機器の操作であれ、身体的実践、あるいは、身体的取組みを、必須のものとして含むものだ。



20180421-それぞれのその一瞬のような時間の目標値について、
 それぞれのその一瞬のような時間の目標値について、密度の充実の観点からの度合いについて、過去のそれぞれの、あるいはすべての、記憶や印象の残っている時間のそれとの、その時々の、その日々の、過去との比較、など、できるのかどうか、試み。



20180420-映った自分自身のそれを含めてかもしれない、嫌な、つらい表情や
 映った自分自身のそれを含めてだろう、嫌な、つらい表情や振る舞いに対して、逆の、現実に在りうる本当に幸福そうな表情や振る舞いを"思う"ことでの対応をしていくことの、効果について、は、ただ避けること、での対応をしていくことの効果と比して、多分、格段に高い。
("THE ONE I KNEW THE BEST OF ALL"の中での、その子の、「つもり」-'pretend' の、ごく一部である一つ、と言えるのかもしれない。)

 "心の中"では、そちらの方が緊急課題でもある、ということもある。



20180419-思いの中でだけでも、"その"人を抱きしめて(あるいは、
 思いの中でだけでも、"その"人を抱きしめて(あるいは、に、抱きしめられて)、の時あるいは時間の意味について、

『ピエールとリュース』の中の、空爆の下でのリュースの言葉("あの人の腕にだかれて、嵐のすぎるのがきけたらいいのに!")、

『クオレ』の最初の日(始業式の日)の日記の言葉("... I said to myself: “This is my first day. There are nine months more. What toil, what monthly examinations, what fatigue!” I really needed to see my mother when I came out, and I ran to kiss her hand. She said to me:? “Courage, Enrico! we will study together.” And I returned home content....")

『ジャン・クリストフ』の中の、オリヴィエとお姉さんのアントワネットの物語のかすかに心の中に残っている同様なイメージ、というより、その印象、

など、相対的なものであり得ることを認めて、そのまま受け入れていく。・・



20180418-どんなに身近な人でも自分とは異なる感覚と
 どんなに身近な人でも自分とは異なる感覚と、あるいはその対象と、自分とは異なる欲求と、自分とは異なる思いとを持っている。親子でもきょうだいでも夫婦でも。この認識の結果として、"他者のそれらが分からなくても、そしてさらに、表情やふるまいや言葉からの範囲内でしか分からなく"ても、この(""の)ことが当然に間違っている訳ではないこと、むしろそれが基本的であること、そこから出発して対応する以外にないこと、が言える。・・

 人間も、人間自身が作り上げてきた作品の一つだとも言えるけれども、文学や絵画や写真や映画や音楽なとの作品は、これらは(後者は)基本的には自分で自由に読んだり見たり聞いたりあるいは触れたり出来るものである、と言うことはできるにしても、それも、どんな時でも、いつも、人間である他者の現実の(相対的にでも、ある程度の−期間の−時間の中での思いの中ででも)身近な存在はそれらの作品を意味のあるものとして見たり聞いたり触れたりする上でも、不可欠的であるということも言える。これは(この、人間である他者の現実の身近な存在を確保すること、していくことは)、基本的には自由に、ではない。

 そして、"極論すれば身近に居てくれるのが誰でもいい、とともに、相対的にその人でなければだめだというその人たちでなければならず、そうでしかない"、というような、現実的にはそのように相対的なものでしかない、のだろう。

 他の−人間自身以外の−作品は、その−言わば本筋、あるいは必須の要素の中で意味を持つ、そうでないと意味を持たない。自分の感覚や心が受け付けない、受け入れない、と言った方が適切かもしれない。

 それらの作品が意味を持つのは、それらの作品それ自体の持つ要素、というより、受け取る側の課題としてである、あるいは、でもある、ということ。・・



2018014-3-ワザリング・ハイツ(『嵐が丘』)は、娘のキャシーの
 ワザリング・ハイツ(『嵐が丘』)は、娘のキャシーの幸福な時間の密度の充実へのひたむきさの物語の力のプラスベクトル要素、としか読まない。 樋口一葉の物語作品についても同じく。『クオレ』の物語についても同じく。

 物語のすべてについて同じく。(『ボバリー夫人』であれ『アンナ・カレーニナ』であれ。)
 但し、自分が生きて体験している世界から、心の中での"それら"も含めての認識の総体を踏まえて選択していく、目的の実現と目標の達成に向けての、その素材として。そうできるということ(の認識)。



20180414-2-『取るに足りない(ものは犠牲にして)』という言葉、関連して、同様な意味だが、『くだ らない』という言葉、
 『取るに足りない(ものは犠牲にして)』という言葉、関連して、同様な意味だが、『くだらない』という言葉、選択の基準としてのそれらで、後者について、は、実践的な基準としては、それ以上下がり(くだり)ようがない、と把握していってもいい、のだろう。前者も、意味を同じく把握して。

 それ自体が取るに足りないもの、それ自体が下らないもの、が在るわけではなく、印象としてを含めて、選択の基準として、目的や目標と見比べて、そのように判断して選択していくことになる、のだろう、すべて。



20180414-"焦り"について、これも同じく。
 "焦り"について、これも同じく。つまり、ただ、闘っていないことの印象のようなものだと把握していくこと。生きている時間の中の幸福な時間の密度の充実へのそれへの。



20180412-「『僕たち友達だよね。』と言っているような・・」という"クオレ"の中の言葉
 「『僕たち友達だよね。』と言っているような・・」という"クオレ"の中の言葉。

 羞恥心(恥ずかしさ)という言葉と、幻滅という言葉、これらの言葉で指示される体験の中の事象については、前者は、目的の実現に向けて、さらに具体的な目標達成に向けて、何より闘っていないことに対して"それ"を持つこと、持つようにしていくこと。課題は、目的の実現なのだから。

 後者については、その結果が現実なのであれ、"思い"なのであれ、これも、同様。つまり、それと闘わないこと、闘っていないことに対して、何より闘うこと。

 中学生の頃のその子、当時の年齢でのその子(たち)の、"ただ一人"の相手に対するその"思い"は、正しい、つまりプラスベクトル要素を一番高く持つ、のかもしれない。一人以上の場合でも、だ、と思うが、"一人"でも、として思えれば、いいのだろう。



20180408-相対的にでもそのような喜びや幸福の獲得については、性の要素は恒常的に一見して
 相対的にでも"そのような"(ものである)喜びや幸福の獲得については、性の要素は恒常的に一見して不可欠なように見えても、本当はそれ以上に、或る人(たち)が、自分自身で選択できる友達で在る(あるいは在りうる)という要素が不可欠に含まれているものであって、前者は必ずしも不可欠な要素とは言えない、と把握することが可能である。

 "そのような喜びや幸福"の獲得にとって不可欠な、自分自身とは異なる、少なくとももう一人の他者の現実の存在については、恒常的・体験的にも、性の如何だけがその現実の存在の不可欠な要素ではないから、でもあるのだろう。 (これは、前段のことと同じことを言っているだけなのかもしれない。それぞれ当たり前のような判断なのかもしれないが、確認して認識しておく意味はあると思われる。もっと簡単に言ってしまってもいいのかもしれないが、今のところ、実践的に、と把握して。)

 なぜなら、性(の要素)とは、人間の場合であってもその役割分担の有りようの、たとえその役割分担の基本的なものであったとしても、やはり、不可欠とは言えない一つに過ぎないものでしかないから、なのだろう。ここでの問題は、その人間にとって、そして、そのような喜びあるいは幸福な時間の獲得の実践的な問題、なのだから。

 追記して、性の如何に関わらず、その(思うことを含めてのその)選択可能な行動を含めての、美しい(『感覚に快く訴え掛けてくる』)対象としての人間は、恒常的・体験的に、居ることが在りうるからでもある。同じく、課題は、その人間にとって、なのだから。

 これらの思い(認識の総体)の選択的把握と、取り巻いている環境の有りようの選択的把握と、で、次の闘いは可能になりうる。・・



20180406-本当に? ("それ"が、過去の試練をもはや勘定に入れない結果になる、喜びや幸福の体験という言葉で
 「本当に?」 ("それ"が、過去の試練をもはや勘定に入れない結果になる、喜びや幸福の体験という言葉で把握されるその対象である、その残像が、確認しても本当に"そう"であるのか)の、その(確認の)対象は、実践的に選択可能であって、一番、"そう"であるものでいい。そのような時間やその残像でいい。



20180404-命、生、喜び、つらさ、幸福、の中の、つらさは、つらさ、喜びや幸福は、喜びや幸福、命、生は、
 命、生、喜び、つらさ、幸福、の中の、つらさは、つらさ、喜びや幸福は、喜びや幸福、命、生は、それらを含むもののこと・・
 しかし、『喜びは、過去の試練を、もはや勘定に入れないものだ。』喜びはそういうもののことである。

 逆に、つらさは、喜びが体験の中で把握されることで、もはや勘定に入れないことになるもの、だ。

 今のつらさについては、「これを、過去の試練としてもはや勘定に入れないものになる喜びの体験されている時間の、その密度を高めることによってもはや勘定に入れないものに、より、していく、そのことによって」何よりも対応していくこと。

 喜びと幸福との関係について、は、幸福は、その時、その時間において、喜びの密度が充分に高いと体験されること。ほとんど等価だけれども。使い分けるとすれば。



20180403-但し、現実の人、ほんの少しの、でも自分自身にとっての幸福な時間に縁(relation)のある人と、
 どんなにおぼろげな、ぼんやりした、あいまいなものでも、ほんの少しの、でも、一瞬のような、ものでも、そしてそれらだけでも困難であっても、それらでの幸福な時間を測ること、測っていくこと、

現実の出会いのその時間と合わせて。

 好きな映画を見ている時間のような、好きな音楽を聴いている時間のような、好きな小説を読んでいる時間のようなものでも。

 但し、現実の人、ほんの少しの、でも自分自身にとっての幸福な時間に縁(relation)のある人、と、その残像の心の中での再構成把握が、私自身の場合、何より、あるいは不可欠的に、プラスベクトル要素が大きい、ような気がする。(確認として、そのような時間の生きている時間の中でのその密度を測るという場合に。)

 ずっと一人の子を思い続けていたように見えたあの子(子供の頃の友達あるいは同級生)は、今、どうなのだろう。



20180402-達成すべき具体的な目標値としての現実の体験・・の、その時間の中の幸福な時間の密度(割合)と、
 達成すべき具体的な目標値としての現実の体験(数量値は、これも体験の質の一つであって、検証するときに、より具体的に・確実性の高いものとして把握される、そのような数量値として)の、その時間の中の幸福な時間の密度(割合)と、

「ほんの少しの、でも、束の間のような、はもちろん、一瞬のような、でも、幸福な時間」

との関係は、前者は後者で測っていく、ことができて、そうしていくべき。? 当たり前のようでもあるそれを。?



20180331-3-一瞬のような束の間のような時間でも・・日々の、総体のその密度を、具体的な目標値として把握していくことは、
 つまり、一瞬のような束の間のような時間でも幸福な時間との出会いと、それらを思うこと(その残像の再構成把握をすること、していくこと)の、日々の、総体のその密度を、具体的な目標値として把握していくことは、体験的にできるのではないか。

そして、この目標値達成に"思い"を集中させること、していくことで、実践的に、それにその時、一番プラスベクトル要素のあることに-仕事など-に取り組んでいく結果を生じさせ得るのではないか。



20180331-2-筋疲労での、表情、姿勢、動作、行動、視力調整、声や話し言葉の調整などが、只、つらいという時間が、
 筋疲労での、表情、姿勢、動作、行動、視力調整、声や話し言葉の調整などが、只、つらいという時間が、体質的に、少なくない、さらにそういう時間に、風邪など引いての、頭痛、行動時の心悸高進などのためにきつい時間が少なくないこと、について、

この後者のことについては、最近の新聞記事での、医学博士の方が自身の体験的にも検証済と述べておられた、唾液を(よく噛むなどなど)実践的にむしろ発生させて、口腔や咽喉内やさらには鼻腔内での"対象菌"への"対抗"を、それによって行わせることで減少させることができうる、との"認識"が、プラスベクトル要素になるかもしれない、

そしてさらに、そんな時間、少なくない時間、どのように実践的な対応が可能か、について、"実践"できうることとして、"身体的姿勢の調整保持(体を横たえての休息を含む)"、"身体的運動の調整(見ること、聞くことなどを含む)"、一瞬のような束の間のような時間でも幸福な時間への"思い(それを思うこと-現実に体験したその残像の再構成把握をすること、していくこと-と、それと対となっているその対象)の調整保持"など。

 呼吸は、これは、実践的には、身体的姿勢の保持調整又は身体的運動の保持調整としてなされるべきものだろう(他、自律"感覚経"に基づく運動[系]に従っているものとして)。

 その上で、身体的(筋)疲労などとの関係での限度はあるが、それによる息苦しさに対しても、幸福な時間への(何より、本当に幸福そうな人たちのその様子を見て居られることへの)"思い"を持つこと、での対応は、基本的に不可欠である。

 被雇用労働での、その人の、疲労回復のために必要な休息時間を取れない時間と期間が継続することの、重み。・・・



20180331-『人間は未だ形成過程にある。』このことも、いつも、
 『人間は未だ形成過程にある。』このことも、いつも、認識して、言い聞かせていかなくてはいけない。

 相変わらず世界中で実行されている戦争、同じく極度の経済的格差の増加、そして何よりそれらに伴うと思われる止むことのない『憎しみの連鎖』、など、など。
(上記『』内は、ポール・イブ・ニザンの言葉、確か。『憎しみの連鎖』は、後藤健二さんの言葉。)



20180330-そのような時間の密度のための一瞬のような束の間のような幸福な時間の手掛り
 そのような時間の密度のための一瞬のような束の間のような幸福な時間の手掛り
 (4月1日付けの新聞記事と写真から)。

 「母の日」「ママほど偉い人はいないよ!」(子供の言葉。) パパ、おばあちゃん、おじいちゃん、その他も。・・
 (これらの写真、映画を見てるような気分になる。)

 子は親を選べない。親も、子は選べない。友達たちは選べる。 きょうだいでも、いとこでも、おじさんおばさんたちでも、甥姪でも、おじいちゃんおばあちゃんたちでも、多分、孫たちなどの身内(親族)でも、友達として選べる。配偶者の、外国人の身内(親族)でも、同じ。・・

 さらに、具体的な目標値としての密度について、つまり、一瞬のような束の間のような時間でも幸福な時間との出会いと、それらを思うこと(その残像の再構成把握をすること、していくこと)の、日々の、総体のその密度を、具体的な目標値として把握していくことは、体験的にできるのではないか。

そして、この目標値達成に"思い"を集中させること、していくことで、実践的に、それにその時、一番プラスベクトル要素のあることに-仕事など-に取り組んでいく結果を生じさせ得るのではないか。
ポルトガル-ナザレの子供たち  ポルトガル-コインブラの子供たち



20180328-身近にいて、一緒に居て、一番楽しい、そして楽しそうな、選べる友達(たち)、性的な接触の要素への欲求や、逆に
 身近にいて、一緒に居て、一番楽しい、そして楽しそうな、選べる友達(たち)、

性的な接触の要素への欲求や、逆にそれらへの拒否感(嫌悪感)などについて、実践的には、幸福な時間の(人生の中で占める)密度との関係上では、その関係性は本当は-他の幸福な時間の確認の対象が現実に体験されていなければならないにしても(特に子供の頃には)、それを(他の現実の幸福な時間のその対象の確認を)前提にして確認してみれば-低い、との認識、

身体状況、心(思いに関係する対象)の状況、経済(個々人の経営)状況、戦争(集団的組織的殺人実行)、逆に非戦争(今日の世界で、平和と言っていいのかどうかの)状況、政治(憲法を含む法律の制定に基づく制度運営としての)権力行使の公正性状況、の有りようについての認識、

その末尾の、政治的権力行使の公正性に関しては、各自が、「自分の」代議員を出すように、選挙行動などはしていくべきだという認識、

などが、幸福な時間の密度に重要な要素である、という認識。



20180327-選べる友達、仕事でも好きな仕事、趣味(小説、スポーツ、旅行、ドライブ、観 [劇ではなく] フィールドバレー、
 選べる友達、仕事でも好きな仕事、趣味(小説、スポーツ、旅行、ドライブ、観 [劇ではなく] フィールドバレー、クラシック演奏会、映画、庭)、必要なお金を稼ぐこと、などが、幸福な時間の可能性として考えられる、という認識。

 それらに取り組める身体と心の、質のようなものも、それを、可能な限り(具体的には、実践的に可能でありうる限り)保持していくべきでもあるという認識。

 とりあえず、そのような認識に含まれる、そのような"具体的な"時間のことを思うこと、は、そしておそらく一番初めの、「選べる友達」という要素が不可欠なのだろう、が、そして、身近な、瞬間的な時間でもいいものとして、そしてそうであれば、基本的には人間である友達、という要素が不可欠なものとして、たぶん、"どんな時"でも、意味がある、という認識。



20180326-幸福な時間の密度という最上位の目的と、身近な人たちの"本当に(確認してもそうだと思える)幸福そうな様子"のことと、自分自身と身近な人たちの
 幸福な時間の密度という最上位の目的と、身近な人たちの"本当に(確認してもそうだと思える)幸福そうな様子"のことと、自分自身と身近な人たちの経営(個人を経営組織の最小単位と考えるその経済的な営み)のことなど、そして、それぞれの人たちの、それぞれの「認識の総体」に関して、

子は(一番身近な人である)親を選べない、友達は選べる。親も、子は選べない、と言ってもいい。友達は選べる。

特に被雇用での職の仕事の場合、身近に共に仕事をする人たちを選べない。被雇用ではない職の仕事をする人の場合、共に仕事をする身近な人たちを、基本的には選べる。

配偶者は、基本的に、それぞれ選べる。

 大人の、一人一人の経営目標の達成のための取組み(活動)と、身近な(大人の)人たちの、より具体的には身近な関係者たちの、"本当に幸福そうな様子"とについて、それぞれ、経営目標は、可能な限りで認識しておいた方が、互いに、プラスベクトル要素が大きくなる。

 以上、それぞれ意味が無いとは思えない認識。但し、以上で、「選べる」と言っても、そのそれぞれの時点での、具体的な(諸)条件の元で、である。

 上記、配偶者は、基本的に、それぞれ選べる、のは、とりあえず、日本でのこととして。



20180325-『人間は、努力する限り、迷うに決まっているものだ。』という趣旨の、とても有名な方の言葉がある(日本語への翻訳者の方の名前は記憶していない)が、
 『人間は、努力する限り、迷うに決まっているものだ。』という趣旨の、とても有名な方の言葉がある(日本語への翻訳者の方の名前は記憶していない)が、この認識(判断)のその意味(プラスベクトル要素)は、
只、「その迷いは、受け入れて、それを(つまり、その努力-思考を含む実践-を)進めるべきだ」、ということ(だけ)なのだろうか。

 方向選択は、経験的に、一直線のものではないと考えられるから、そうなるし、それを受け入れて進める方が、プラスベクトル要素が大きいと判断(認識)できる、ということに基づいて。?

それでも、「最上位の目的の実現と、そのための設定した、また、設定し直す具体的な目標の達成に向けて」という方法のプラスベクトル要素は、いつも、確認して。?

 体験の質そのものが、一つの具体的な対象でも在り得、このことを含めて考えれば、そうだ。



20180325- 認識の(言葉の)確認、「いつも、そして特に厳しい、あるいはつらい時間に、一瞬のような幸福な時でも、ちゃちなような喜びや幸福でも、そのような対象であっても
 認識の(言葉の)確認、「いつも、そして特に厳しい、あるいはつらい時間に、一瞬のような幸福な時でも、ちゃちなような喜びや幸福でも、そのような対象であってもそれらに向かっているか、近づいていくように取り組んでいるか。」

基本的に、子供たちが近くに居る時間の方が楽しい。只、認識として。これも(認識として持ち続けていって。)

 これが「なぜ?」そうなのか、については、眼差し、表情、しぐさ、などから、必ずしも一方的なものだけではないような要素を含めて、楽しさや喜びや幸福の要素に、より大きく共鳴するような要素、部分が、自分自身の中に在るから。多くの大人がそうだと思うが。多くの時間、大人になる過程で、忘れて、あるいは(今の私自身の言葉で言えば、最上位の目的に)気付かないまま失ってしまったようなそれらが。

 思い出して、「精緻」になる、精緻化する、とは、体験の質が向上することでもある、という言葉。これは、実践的には、おそらく何より認識の精緻化である。(最上位の目的の実現のためのそれ。)「考える」ことの意味でもある。

 それは(その言葉は)、「認識の総体」の、幸福な時間の密度の高さの獲得のための精緻化である、と把握できる。

 たぶん、数学などでも(何より技術的なものでありうるその他の認識、個々人の経営-経済的な営み、という意味でのそれ-もそのようなものでありうるが、それらについても)、そうだ。



20180321-どんなにちゃちなように見える喜びでも、幸福でも、少しでも、一瞬のような時間のものでも、
 どんなにちゃちなように見える喜びでも、幸福でも、少しでも、一瞬のような時間のものでも、繰り返し心の中で、でも、再構成把握していく、という実践での、結果・成果について、は、

 その対象の、本当に幸福そうな様子をずっと、心の中ででも、見ていたい、という、その方向性、のその実現、がなされるように、以外のものではない。(でも、これ自体がとても困難。)



20180317- 「幸福な時間のその密度を高めるその物語を生きる」というその具体的な実践は、基本的には、(私の場合、)幸福な一瞬のような時(間)の
  「幸福な時間のその密度を高めるその物語を生きる」というその具体的な実践は、基本的には、(私の場合、)幸福な一瞬のような時(間)の現実やその再構成をして把握するその残像の把握を、(目はつぶらないで、眠り込まないようにして、)いくつもいくつも(把握)していくことによって、であるか。

その把握の一つ一つが、密度の一つ一つの構成要素である物語(のようなそれ)であるものとして。?

これは特に、実践的な検証で。



20180316-いつも、だけれども、特に一番つらい時に、「幸福な時間の密度を高めるその物語を生きる」こと。「最善をつくして、本筋として
 いつも、だけれども、特に一番つらい時に、「幸福な時間の密度を高めるその物語を生きる」こと。「最善をつくて、本筋として一流であろうとしていくことのそのプラスベクトル要素も込めて。」



20180314-「最善を尽くせ、一流であれ。」の意味について。
 本日の新聞記事。『ポール・ラッシュ伝』と言えるような記事だと思います。「最善を尽くせ、一流であれ。」の意味について。「一流のものを築け。一流でなければ人々がモデルとして模倣し、受け入れない。」
(3枚目の写真は、新聞記事をコピー保存したときに画像でうまく表示できなかったため、別に作成。)
 自分なりの解釈として+「本筋として。」
記事と写真1 記事と写真2 顔写真


20180313--自分ではない、少なくとももう一人の人が、現実にも、心の中でも、
 自分ではない、少なくとももう一人の人が、現実にも、心の中でも、いつも、できる限りのものとしてでも身近な対象として、要る。幸福な時間のその密度のために、は。"気に入っている人"であれば、よりいい、としても、極論すれば、どんな人でもいい。

それが、何より、かなりの、あるいはとても、力(であるプラスベクトル要素)になる。普段から、また厳しい条件のある時、時間、闘う力が出てこないような時、時間、その他。

「自分ではない、少なくとももう一人の人」についての、フランスの詩人、ポール・エリュアールの詩の記憶があり、「・・そこに何もないのでなければ、一人の人間がいるはずだ。」というような言葉で終わっていた詩、ネットで探して、該当の詩をみつけられなかったのですが、「大島博光記念館」のページの中に、直接的には関係はない、但し、本筋として関連があると思われる一つの詩を見つけたので、下記に引用させていただきます。

『身を守るために生にむかって開いた
  二本の腕しか持たなかった男が死んだ
  鉄砲を憎むという道以外の
  ほかの道をもたなかった男が死んだ
  男は死んだが死に抗し忘却に抗して
  彼はいまもたたかいつづけている
  ……

  ひとを生きさせるような言葉がある
  それは無拓な言葉たちだ
  温かさという言葉 信頼という言葉
  愛 正義 そして自由という言葉
  子供という言葉や思いやりという言葉
  そしてある花々の名前や果物の名前
  勇気という言葉や見つけるという言葉
  兄弟という言葉や同志という言葉
  そしてある国や村むらの名前
  そしてある女たちや友だちたちの名前
  そこにペリの名を加えよう
  ベリはおれたちを生きさせるために死んだ
  彼とおれおまえたちで話そう 彼の胸は射(ぶ)ち抜かれた

  だが彼のおかげでおれたちは互いをよく知る
  おれたちはおれおまえで話そう 彼の希望は生きている
        (『苦しみの武器』──「ガブリエル・ペリ」)』

 同じページの中の記事-『一九四一年十二月十五日、ガブリエル・ペリがモン・ヴァレリアンにおいて人質として銃殺された。』

 これからの世界について。



20180312-"思い"の実践と現実について(との表題を付けていいと思われるそれについて)、
 "思い"の実践と現実について(との表題を付けていいと思われるそれについて)、

20180216-a-1(これは"livedoor-blog"からの自動同時投稿分、兼、当初Tweetに付けていた投稿のテーマ毎のそのTweetのコード[特定番号]。但し、現在はテーマそのものの基準が曖昧になってきていて、日付しか付けていないものがほとんどです。)に関連して。

その"思い"とは、現実の、日々見たり、隣に居たりする人たちのうちで、印象に残り、あるいは記憶に残る、そして、何より、自分自身の、言葉で指示しにくい感覚、ないし感情、ないし体験の質というような要素に影響を与える、様子、表情、眼差し、しぐさ、声、話し、話の内容、雰囲気と表現してもよいような要素、などに関して、

相対的に(でしかないものだが)最良の、一番プラスベクトル要素になるような"それら"(前段のその対象そのもの)、に対するものである。

その実践とは、その思いを、心の中で、基本的に再構成して、だと考えられるが、把握すること。それも、できるだけ具体的な対象として、そうすること、そうしていくこと。基本的に目は閉じないで開けたままで、そのようにしての現実の感覚と感情は保持したままで、眠り込まないで。
(幸福な時間では多分、目は閉じたままでもいいのだろうが。)

その効果としての現実に関して、

側(そば)に、相対的に、だろうが、"本当に幸福そうな様子"で居るという言葉の意味に関わるはずの、基本的にはその時間だけではないだろうと考えられる、"気に入った人・気に入っている人"という言葉で把握できる人が居ることのその思いでの、疲れその他の"厳しい"条件の、減少ないし消失と、同時的なものである幸福な時間の密度の充実へのプラスベクトル要素は、

その対象が一人でも、一人だけでなくても可能であること、そしてそのような思いを持つこと、働かせること、の実行でも、ある程度まで可能であること、

そして、それによる"日々"、少しでもより密度を高めることの"目標"化も可能になるかもしれないこと、などの確認を。

そして、現実は、むしろ、その結果的にそれにより近いものになるかもしれないこと、についても。

さらに、その実践は、自分自身あるいは周囲のつらさや厳しさに、逆比例するようなものとして実践されるべきものであること、についても。

今は、今日は、このような言葉で。子どもの頃からずっとそうだった(うまく把握できていなかった、今でもそうなのかもしれないにしても)それが、そのような取り組み方、あるいは考え方が、少しは「紆余曲折しつつ」密度に向けて前進してきてる、その。

一人の人間は、その人自身の作品でもあるのだから。自然に、であっても。これは自分自身にとっては何より他者のこととして。あるいは、自分のことでもいいものとして。



20180309-受胎期+授乳期+αの期間に居る女性の場合、その"個人の経営"(個人の経済[的取組み])の課題だけではなく、政治の課題としても
 受胎期+授乳期+αの期間に居る女性の場合、その"個人の経営"(個人の経済[的取組み])の課題だけではなく、政治の課題としても取り組まざるを得ないと考えられるが、具体的には、その子の生活保障の社会制度としての、個人単位での税・公租公課負担の相対的軽減制度だけでなく、個人単位での本来的な扶養手当のような手当制度が要ると考えられる。これからそれに近づけていく対象としてのそれが。
(外国のことは全く知らない、その条件で。)



20180308-取りあえず(一言、というより走り書き)メモ。体験は現実あるいはその感覚の対象と
 取りあえず(一言、というより走り書き)メモ。体験は現実あるいはその感覚の対象と、その現実の(そして現実だったものの)残像の再構成把握としての思いの両方の入り混じった把握である。従って思いは(思考は)それ自体が幸福の密度を高めるプラスベクトル要素になりうるもの(行動)である。さらに、思いを尽くしていく、というか、実行していく中でも、現実のプラスベクトル要素になりうるものを確保していくために、その対象への感覚はできる限り、マイナスベクトル要素にならない限り、確保していくべきである。たとえば目を瞑らずに思いは取り扱っていくこと、など。そのような取組みの余裕の中で、できる限り一番プラスベクトル要素になりうる取組みも、行っていく。・・・


20180305-2-今日時点で特に把握していくべき認識について-個人の経済
(少し長文になってしまいますが、A4で3枚位)
 経済的な豊かさは、その目標とする必要な、あるいは豊かと感じられるそれは、今日、日本だけでなく、世界中でそうだと考えられるが、大まかに言えば、大人の、被扶養者ではない個人単位での所有資本(今日、世界的に行われている会計システム上で定義されている意味でのそれ)の量で決まる。その国での社会資本(個々人が国の構成員として所有しているその公的資本)は測りにくいが、それを含めることができるものとして。

 それを、特にそれが不足している個人が増やすような取組みをしていくことが、(個人的には[私的には])大多数の多くの人たちも経済的に豊かになることだと、実践的に、この日付の項目での以下の認識を踏まえて、判断できる。言い換えると、"個人"をその最小単位とする組織の"経営"を、それに適うように取り組んでいくことが、経済的に豊かになることだと、判断できる。

 そして、それを増やす、本筋に沿った方法は、"政治"に関して、何より、その資本量の不足している個人への(実質的に税負担であるものを含む)税負担が、充分に(過ぎるほど)保有している個人に比して、累積的に軽くなるような方向への選択をしていくこと、より具体的にはそのような方向へのプラスベクトル要素の強い政策を取る政党その他の政治勢力に賛同を示し、投票もしていく中で、そしてこのような認識がプラスベクトル要素を持つものだという、その認識は持っていき、

 自分自身に、相対的にでも一番適していると考えられる職の仕事をすることに向けて、基本的には、学習、研修期間としての被雇用労働を経る中で自分自身のその職の仕事の他と比べての専門的技術力をを(そのための認識[の総体]を当然その中に含めたものとしてのそれを)高め、

 合わせて、学習、研修期間の中で必要と考えられる会計技術力を( そのための認識[の総体]を当然その中に含めたものとしてのそれを)高め、  さらに、その専門的技術力を行使すべき職の仕事の不景気な状況が継続するような時期、その他、疾病、重い障害、犯罪その他に関わる信用喪失など、危機的な状況の発生時期にその豊かさの保持する水準を落してしまう決定的な要因になりうる、基本的な(経営に関わる)法律認識(の総体)水準を高めて、

 基本的には、起業して、その目標値になる資本量を獲得する、と言う方法になる、と考えられる。

 その、起業時の出発点としての経営計画("経営"の目標値となる資本量と、その達成のための方法の概要)では、自社(経営組織としての自分自身をこう呼ぶことにして)の主な供給商品(商品は、経営組織としての自分自身の仕事の成果を、

 一番流動性(数量計算上、分割させやすく集合させやすいと言ってもよいその性質の)の高い(今日では政府が関与して商品でもある商品でもある)お金(代金)と"交換"してもらえるように、つまり売れるように、その供給対象地域に供給していく、

 その、供給と代金取得による目標値の達成の確率が、できる限り高くなるような計画を立てて実行していくこと、がまず、必要になると考えられる。

 次に、出発点での必要な、大きなプラスベクトル要素になる、と言ってよい、−あるいは大きなマイナスベクトル要素にならないためにと言ってもよい、−「固定費」(生産仕入販売代金量に応じて上下するその生産仕入販売に必要な代金[「変動費」と呼ばれる]ではない、被雇用者の雇用そのもの、その給与の最低基準、店舗や工場や事務所や機械やそれらを取得しまた賃貸したり、稼働させたりしていくための恒常的に固定的に支出されることになる金額)をできる限り低くしておくこと、と、

 但し、この場合でも、自分自身の最低生活費は、どうしても必要な固定費として考えておく(あるいは計算しておく)必要はあること、と、

 その自社の主要商品の生産販売供給の、その対象地域の景気変動などに関わっての選択方向性に関して、

 今日、世界中のどこでも、経済的格差拡大化の状況にある時代として、但し、総資本の数量はすべての個人の(数年前、数十年前、数百年前、数千年前より)豊かな経済的生活が可能になると判断される時代として("オックスファム報告書"など)、

 有効需要の、各国政府の公表している産業連関表の数値でも、そこまで確認できる数値は使用されていないと考えられるが-"そう"だと考えられるこの時代においては、

 政治の観点からの問題は、ここではは別個の問題として、

 個人を最小経営組織として考える"経営"の観点からは、「その商品(公的サービスもこの言葉の意味の定義に含めて考えることは可能であり、そのように考えて)の生産供給単位時間(すなわちその商品の態様1単位の生産供給のための取組時間)当たりの当該商品(同前)の販売"頻度"の大きさと、

単位時間(前同)当たりの商品(前同)の態様1単位当たりの当該商品の"価格"の大きさとの

その相対的関係(より具体的には、経営目標数値を達成するために必要と考えられるその経営組織の[1年〜3年などの単位期間に]販売すべき[すなわちその供給する、基本的にその経営組織の主要商品との"交換"をしてもらえる金額[金銭の数量]を、"その"商品種とその生産販売供給どのような構成にして、選択して生産販売供給していくかの、相対的関係)について、それ自体が、言わば1%と99%に分かれたものになって(傾斜してきて)いること、

今日では、特に、このことを認識しておいて、その経営は、方向づけられ選択されて、進められるべきだ、とは判断できる。



20180307-個人の "経済的な豊かさ" - どの程度の、それに対する取組みを実行する "力と時間" とを振り向けていくか、は、技術的な課題ではなく、
 これらの (ホームページの『就職勤務・起業・経営技術読本』に記載した)、 被扶養者以外の "個人"の "経済"についての、"本筋"にできる限り沿ったと(私的には)考えられる基本的な認識及び技術的な条件を前提にして、

 個人の "経済的な豊かさ" - 今日では個人の所有資本量(お金で数えられる所有財産の量)で数えられるそれ - に対して

 (今日でも、多くの人にとって、反対面から見て "経済的な貧しさ" と言ってもいいものにより傾斜しつつあるそれに対して)、

 どの程度の、それに対する取組みを実行する "力と時間" とを振り向けていくか、は、技術的な課題ではなく、生き方の(つまり生きることそのものについての実践的な選択的な)課題である。・・


20180305-一番つらい時間こそ、幸福な時間の密度を高めるその物語を生きる、そのように闘う
 繰り返し、より正確に、一番つらい時間こそ、幸福な時間の密度を高めるその物語を生きる、そのように闘う。生きることは、思うことを含めて体験することでもある。どれほど効率が悪くても。あるいは悪いように思われても。

 目的的ではなくても、本当に幸福そうな人たちのその様子からもらえるもの、表情、ふるまい、しぐさ、声、話し、話の内容、などなど。愛と言ってもいいのかもしれないが、友情の対象としてのそれら。この後者の意味では自然に目的的なのだと思われる。

 合わせてここに(たぶん何よりこの観点から)、愚図な要素は、プラスベクトル要素になることはまずないと思われるが、プラスベクトル要素になることが無い場合には、排除していく、この認識も持って。これは、直接"密度"に関わることである。・・


20180303-2-自分自身と他者のそれ
 そのような−幸福な時間の密度を高めるような−物語を生きること、は、大人なら、当然に、経済的な営み、すなわち、個人を基本的な単位にして考えるその"経営"についての考え方や取組み方を含み、

さらに、人間の社会の中での、法律(憲法を含む)の最上位の規則とする規則(基準)を決定し、物理的実行力を含めてその法律を適用させていく取組みとその働きを本筋とする、"政治"への考え方や取組み方をも含み、

それらを含めて、"幸福"は、"快さ、楽しさ、美しさ、などに関わるそれらが充分に体験の中に在る"という言葉で指し示していいものであって、そのような幸福を得ている時間の、人生の中で占める密度を高めることだ、とは考えられますが、

その言葉が指し示している対象(意味)が、まずは自分自身のもの(対象・意味)であり、他者自身のそれについては、自分自身が、他者の様子を見たり聞いたり触れたりして、他者にとっても"そう"だろう、と感じているものだ(あるいは、そうでしかない)、ということは、認識しておくべきだと考えます。

 これらも、踏まえて。


20180303-「ほとんど不可能な"それを生きる"こと」を前提にして"幸福の密度を高める物語を生きる"こと
 『一瞬の幸福のような時間、は在りうるにしても、そのような時間の密度(占める割合)というものは考えられるにしても、「ほとんど不可能な"それを生きる"こと(その物語を生きること)」という認識は、持っていた方がいい、そして自分自身にとって「亀鑑的作品」の意味は、ほとんど不可能な、"それを、あるいはそのような物語を生きる"ことに関わるものだ、ということ』

を前提にして、"幸福の密度を高める物語を生きる"、そのテーマについての、素朴なものでもできる限り本筋の考え方と取組み方に沿うテキストを、可能なら読本形式にして記録していく。

「本筋」は、「その考察あるいはその対象それ自体ができる限り当然のものとして導き出される、中心になるような道理・筋道」の意味(の定義)で。


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