もう一つのメインテーマ topへ戻る。 / Homeへ戻る。



当事務所のホームページの、もう一つのメインテーマ への付記
− A4で2〜3枚位・・ −

 当初の 「サイト運営上のノートメッセージ」 が、徐々に、それにより近づくために生きていると言ってもよい、かすかなほんの少のものであっても幸福な時間の、その密度(その時間の割合)を獲得していくことに対するプラスベクトル要素を持つ「認識の総体」の獲得と、予測をして現実の結果で検証してなお予測をしていくこと(運命に対して偶然をできる限り排除していく、という意味があると考えられるそれ)を含む、それを指針にしての実践の結果検証、についてのノート、がメインになってきています。
 後藤健二さんなど固有名詞は、何より自分の中で敬意と友情を込めてその人につながっている言葉−認識−だ、という意味で積極的に記載しています。


 基本的な認識として、

 幸福は喜びの密度が体験の中で十分高いと感じられること。
 「喜びは過去の試煉をもはや勘定に入れないものだ。」 そして、体験の中の楽しさなどの、何らかの"その"ような良いものだ。
  (「」内は、ロマン・ロランの小説作品 『ピエールとリュース』 の中の言葉。日本語訳は、このページ末尾記載の渡辺淳さんのもの。)
 ほんの少しの喜びでも、体験の中に、幸福に向けて、身近なものになるように取り込んでいき・・ということが、必要で有効な取組みになる。"意味"は、"幸福に向けて"の、その有効性。他者の幸福−と感じられるもの−が自分自身の幸福でもある時と時間も、少なくない。あるいは自分自身の幸福でもある他者の幸福−と感じられるもの−無しに束の間のだけではないような幸福の獲得をすることは不可能に近い。
 そして、多くの他者たちの幸福−と感じられるもの−が自分自身の幸福でもあると感じられ、思われるようになれば、束の間のだけではないような幸福の獲得の確率は高まる。
 おそらくこれに関連して、戦争によってであれ、刑罰によってであれ、単純に憎しみや怒りに駆られてであれ、他人を殺すことは、特に束の間のだけではないような幸福の獲得には役に立たず、その逆の効果しか持たない。他人への憎しみを持つことと同様に。

 「・・・ハナンは元気だった。体の調子は昨年11月に訪問した時と変わらない模様。『ようこそ〜』と朝小(ママ−小谷付記)と、お土産を渡した。ちょっと面食らっていた、というかニコニコ喜ぶわけでもない、ムスッとしているわけでもない微妙な表情を見せた。この時ふと、『この子は自分の感情をどう表していいのかわからないのではないだろうか』と思った。相変わらず、学校には行っていない。ハナンの姉妹も全員学校に行っていない。本を読むことも、絵を描くことも、将来の夢を見ることもない視線・・・インドのアウトカーストの女性と子どもたちと同じ視線だ。アウトカーストの子どもたちに『将来の夢は?何になりたい?』と聞いた時、彼は質問の意味を理解できなかった。『夢』という意味がわからなかった。自分の親がすること以外は何も知らないし、想像することさえない。それを否定するわけではない。これもひとつの”生”だ。でも、願わくは、願わくは『この色が綺麗』とか、『この歌が好き』とか、『こんなことをしたい』とか、『こんなふうになりたい』とか、夢とか希望を描ける能力とチャンスを与えてあげたい。それができるのは国際規模の支援だけだ。アフガンでできたことがイラクでできない−無念、憤り、失望・・・入り混じって胸につかえている。自分たちの大きな罪だ。
 この日記ももう「30」か。サダム時代、開戦直後のクルド、バグダッド陥落直後も数えたら倍以上もこの国とこの国の人たちを映像におさめてきた。いろいろと対外的な理由を付けてはいるが、自分を取材にむかわせる本当の理由は、この『胸のつかえ』だ。この胸のつかえが取れるまで、自分の中にある渇きは癒えないと思う。」
 (INDEPENDENT PRESS Report 夢 2004年1月'23'日 ipgoto.com
 (この、「罪」を積極的に捉えて・・。)
 「あきらめないで戦っている人たちがここにはいるんだ。」
 「あなたはけして一人ではない。− 私はとても優しい言葉だと思いました。」
  (後藤健二著 『エイズの村に生まれて−命をつなぐ16歳の母』[汐文社-2007年初版]の中の言葉。世界は、そして人間も、自分自身も、少しは−受け入れられない運命との関係で−より良い方向に変わってきている、その一つの出版されて記録されている証しとしても把握できるものとして。命も賭けられるような友情の言葉と行動として。)
 自分自身の、また他者の、人間としての全面的な美しさへの希望・夢・未来−体験の現実の一部分であるものの、再構成把握残像であると把握できるそれ−の実現の取組みに賭けて。・・・
 (「人間としての全面的な美しさ」の、美しさは、「体験の中に(あるいは感覚に)快く訴えかけてくる」(『類語国語辞典』角川学芸出版、大野晋・浜西正人著)人間としてのその体験。

 試煉は堪えがたいどうにもならないように感じられるものを含むつらさとさびしさ。死は、自分自身のそれは現実には体験できないものだが(できるとすればそれは自分自身の現実の死ではないと考えられるので)、他者の死やその残像の再構成把握による自分自身の死あるいはそれに限りなく近いものの、そのつらさやさびしさも含めて。


 時と時間の中の、自分自身の喜びあるいは幸福そのものという対象は、そして人間の美しさそのものという対象も、体験の中の現実にもその再構成把握残像としても無いとしても、具体的なそれに近いものに感じられる対象は体験の現実やその残像の中に−何よりも心惹かれる対象として−在りうる。そして、その対象の喜びあるいは幸福あるいは人間の美しさは、自分自身の喜びあるいは幸福であり、それそのもの、あるいはそれに近いもの。

 より、ほんの少しのではないような、ほんの束の間のだけではないような喜びや幸福を獲得していくためには、人間としての勇気や人間としての友情の証しのような要素を含む(なぜならそれらが取組みの出発点だから、いつでも)、より人間として全面的に美しいというような要素が要る。

 自分がそうなりたいと思うできる限り全面的に人間として勇気あるそして(使いにくい言葉だけれど心の中のその深さその他の質を含めた意味での)美しい人間になるように取り組むことと、その取組みの力になりうる全面的に人間として勇気ある美しい人間により近いと思われ感じられる生きている人間が体験の現実の中に在ること(のその現実とその思い)と、それらの人たちの作品が同じく在ること(のその現実とその思い)と、既に亡くなったそれらの人たちのその記憶の、それらのすべてが力になりうる。それらはその全てが友情の在りようの一つなのだ、とも言える。

 なぜ?なら、ほんの少しのそれらでも良い意味で心打たれるものであるのにも関わらず、この体験している世界の中に自分自身を含めて余りにそうでない要素が現在、沢山そして強く在ると感じられるから。
 (一応の回答としてでも。)

 そしてそのためには、経営(すなわち本来取組み可能な個々人が基本単位であるべき経済的な面での取組み)も、法律の適用の適切な解釈と運用への参加も、おそらく立法がその中軸となる政治への直接間接の参加も含めて、すべての取組みで、偶然的なものを待っていてではなく選択可能なものの選択を通してほんの少しずつでも、よりそのような要素が含まれるように、自分自身を含めて、個々人の心と頭と手でなされていくように。

 なぜなら、あらゆる面で、偶然的なものを待っていてでは基本的により良いものにはできなかったと考えられるから。少なくとも自分の場合では。待つという選択はありうるにしても。

 そして、その選択可能なものの有効な選択において重要なのは、なぜそのような−ほんの少しの少しの幸福でさえ獲得できない、さらにはほんの少しのだけではないような幸福がなかなか獲得できないようなその境遇あるいは環境あるいは原因が生じてしまっているのかの、一人一人の認識(recognition)。− すなわち、「なぜか」について少しでも納得できて分かった、そして分かる、その限りで知ることができること。さらに一人一人においてその認識がより高いあるいは深いあるいは有効なものになっていくこと。

 おそらくそこにしか、その有効性を見出す対象あるいは手段はないと考えられるから。


 具体的な取組みとして、

 現状で自分自身の他、世界(基本的に人間の社会ないしすべての人)の全体がもう少しでもそれに適するものになる−ないしそのようにできる−のでなければその目的(夢)の実現は成功しないのかもしれませんが、認識の重要な一部としての受け入れられないあるいは受け入れたい運命との忌避と選択の闘いの−と言ってよいと思いますが−できれば最前線での挑戦と思える取組み−それが必要で有効であるという認識に基づくその取組み−をできる限り継続していくことでそれに近づけていきたいと考えています。

 それがなければ新たに創れるあるいは変えられるということは基本的にないと考えられるので。そしてさらに言えばこちらで選ばなくても向うではいつも選んでくる−選んでくるという言い方が不正確なら、やってくるないし発生してくる−と言えるし、現実には結果的にでもいつも最前線にいるとも考えられるので。これまでの全体験から。ほんの少しの喜びや幸福あるいはほんの束の間の喜びや幸福でさえ、基本的に−本当に偶然に、を別にして自然にはやってこない。但し、その偶然の確率を高めるための取組みは実践的に意味のある取組みになると考えられますが、それは結局、その時点での認識の総体に基づいてなされなければならない、そうでなければできる限り有効なものにはならないと考えています。

 ほんの少しの喜びや幸福あるいはほんの束の間の喜びや幸福でさえ、そしてその再構成して把握する残像でさえ、その獲得を狙い続けていかなければならない時間も人生の中で少なくない、と思います。

 このような認識の「系」(連続的に関係してくるもの)として、すべての人の、生きて体験しているその世界の中での、友情に満ちた、戦争(特に相互的な、人間同士の大量殺人−現実には一人一人の殺人−、と言ってしまってもいいのではないかと思われるそれ)のない、経済的にも豊かであるような人生への働きかけを、事務所の仕事を通しても、このサイトの運営を通しても、少しでもしていければいいと考えています。その「すべての人」には、すべての人がそれぞれ「自分自身」をどんな時にもできる限りそうであるように、という意味も含めて。

 ここでの最後に、自分自身のためにも、他者のためにも、その闘いの効果のためにも、「可能なほんの少しのほんの束の間のでもの喜びや幸福」は、恒常的に獲得し把握していくことが必要であり有効だと考えることができます。
 特に命も賭けられるような友情−同時に愛情そのものであるようなそれでも良いと思いますが−の言葉と行動への何より自分自身の信頼も、その一番恒常的に獲得可能な喜びあるいは幸福の一つになるとも思います。

 なぜなら、それらがなければ、ほんの少しのほんの束の間のだけではないような喜びや幸福はありえないと(体験とその再構成して把握する残像に照らして)考えられるので。

 PS: 「ほんの少しの幸福」は、ロマン・ロラン作・角川文庫版 『ピエールとリュース』 の渡辺淳さんの訳文の中に使われていた言葉、「束の間の幸福(の輝き)」は、ポール・イブ・ニザン作・晶文社版 『陰謀』 の鈴木道彦さんの訳文の中に使われていた言葉です。

 メインテーマ本文の中に記載した、「何より受け入れられない運命との・・・闘い」は、同じくポール・イブ・ニザンの著作作品の(日本語訳からの)、次のような言葉から把握した受け止め方です。

 「絶望を唱えてはならない。目前の許しがたい世界に目を奪われてはならない。運命を変えたいと願う人々の怒りの行為の中に含まれる価値を取り出さなければならない。」

 この中の、「(そ)の中に含まれる価値を取り出」すべき「怒りの行為」については、当然のこととして、「その怒りを意味のある方向に向けて選択した行為」と把握すべきものだと考えます。この、「意味のある」とは、単純に、「有効で必要な」という意味で把握して。

 PS2: 多くの人にとっても、自分自身の問題は自分自身が勉強して学んで自分で自分に教え(てあげ)るような取組みをしていくのでないと、何より束の間のだけではないような幸福を獲得して生きるという観点から、なかなかうまくいかないのではないか、と考えています。

 自分と他者(他の人間や人間に近い生物)は、たとえ人間であっても−母親が自分で生んだ子に対してはもちろん、その子がものごころ(自意識)を持つようになったその子自身でもその他者が−、生きているという点では同様であっても自分とは別の生を生きている−別の「生きる」という活動をしている−ことも、学んで、確認しておくべきだと考えます。
 そうでないことによって、喜びや幸福を与えてくれるものでもある他者の生への尊重や友情の要素が無くなってしまいがちになる、と思われるためです。


もう一つのメインテーマ-素材note1- topへ戻る。 / Homeへ戻る。