サイトTopページへ戻る。
幸福な時間の密度 - 読本形式テキスト(追記中)本文を表示する。
Home の - 当ホームページのもう一つのメインテーマの項目 - へ戻る。
当ホームページのもう一つのメインテーマ(の素材ノート1) - 過去分(見出し)へ。


当ホームページの、もう一つのメインテーマ - 幸福な時間の密度について - の素材ノート1
(note1)


『どんなに厳しい状態の中でも、どうにもならないような時間の中でさえも、闘う力にもなる、一瞬のような時間でも幸福な時間の、その時間の占める割合を高められるような、
そのためのプラスベクトル要素のある認識、についてのノート』


  前書き(このページの、今時点での要約)
  このページへの付記(このページが出来てきた経過)

 [以下、ノート本文。libvedoor-blogからのコピー保存分を含む。]
 
20180327
 選べる友達、仕事でも好きな仕事、趣味(小説、スポーツ、旅行、ドライブ、観 [劇ではなく] フィールドバレー、クラシック演奏会、映画、庭)、必要なお金を稼ぐこと、などが、幸福な時間の可能性として考えられる、という認識。

 それらに取り組める身体と心の、質のようなものも、それを、可能な限り(具体的には、実践的に可能でありうる限り)保持していくべきでもあるという認識。

 とりあえず、そのような認識に含まれる、そのような"具体的な"時間のことを思うこと、は、そしておそらく一番初めの、「選べる友達」という要素が不可欠なのだろう、が、そして、身近な、瞬間的な時間でもいいものとして、そしてそうであれば、基本的には人間である友達、という要素が不可欠なものとして、たぶん、"どんな時"でも、意味がある、という認識。

 
20180326
 幸福な時間の密度という最上位の目的と、身近な人たちの"本当に(確認してもそうだと思える)幸福そうな様子"のことと、自分自身と身近な人たちの経営(個人を経営組織の最小単位と考えるその経済的な営み)のことなど、そして、それぞれの人たちの、それぞれの「認識の総体」に関して、

子は(一番身近な人である)親を選べない、友達は選べる。親も、子は選べない、と言ってもいい。友達は選べる。

特に被雇用での職の仕事の場合、身近に共に仕事をする人たちを選べない。被雇用ではない職の仕事をする人の場合、共に仕事をする身近な人たちを、基本的には選べる。

配偶者は、基本的に、それぞれ選べる。

 大人の、一人一人の経営目標の達成のための取組み(活動)と、身近な(大人の)人たちの、より具体的には身近な関係者たちの、"本当に幸福そうな様子"とについて、それぞれ、経営目標は、可能な限りで認識しておいた方が、互いに、プラスベクトル要素が大きくなる。

 以上、それぞれ意味が無いとは思えない認識。但し、以上で、「選べる」と言っても、そのそれぞれの時点での、具体的な(諸)条件の元で、である。

 上記、配偶者は、基本的に、それぞれ選べる、のは、とりあえず、日本でのこととして。

 
20180325-3
 本当に(確認しても間違ってないと確認できる)意味のある(プラスベクトル要素のある)議論・討論は、『具体的な条件の具体的な分析(それについての意見交換)』によってでしか、得られない。なぜなら、その意見が、間違ってない(正しい)と確認できるのは、具体的なその条件(その意見の対象)によって、でしかない、から。

 そうでなければ、その討論・議論は、それぞれの意見の出し合いだけのものである、にすぎない。

 「」は、他者の(有名な人の)言葉をそのまま引用した言葉、である、それでも。

 
20180325-2
 『人間は、努力する限り、迷うに決まっているものだ。』という趣旨の、とても有名な方の言葉がある(日本語への翻訳者の方の名前は記憶していない)が、この認識(判断)のその意味(プラスベクトル要素)は、
只、「その迷いは、受け入れて、それを(つまり、その努力-思考を含む実践-を)進めるべきだ」、ということ(だけ)なのだろうか。

 方向選択は、経験的に、一直線のものではないと考えられるから、そうなるし、それを受け入れて進める方が、プラスベクトル要素が大きいと判断(認識)できる、ということに基づいて。?

それでも、「最上位の目的の実現と、そのための設定した、また、設定し直す具体的な目標の達成に向けて」という方法のプラスベクトル要素は、いつも、確認して。?

 体験の質そのものが、一つの具体的な対象でも在り得、このことを含めて考えれば、そうだ。

 
20180325
 認識の(言葉の)確認、「いつも、そして特に厳しい、あるいはつらい時間に、一瞬のような幸福な時でも、ちゃちなような喜びや幸福でも、そのような対象であってもそれらに向かっているか、近づいていくように取り組んでいるか。」

基本的に、子供たちが近くに居る時間の方が楽しい。只、認識として。これも(認識として持ち続けていって。)

 これが「なぜ?」そうなのか、については、眼差し、表情、しぐさ、などから、必ずしも一方的なものだけではないような要素を含めて、楽しさや喜びや幸福の要素に、より大きく共鳴するような要素、部分が、自分自身の中に在るから。多くの大人がそうだと思うが。多くの時間、大人になる過程で、忘れて、あるいは(今の私自身の言葉で言えば、最上位の目的に)気付かないまま失ってしまったようなそれらが。

 思い出して、「精緻」になる、精緻化する、とは、体験の質が向上することでもある、という言葉。これは、実践的には、おそらく何より認識の精緻化である。(最上位の目的の実現のためのそれ。)「考える」ことの意味でもある。

 それは(その言葉は)、「認識の総体」の、幸福な時間の密度の高さの獲得のための精緻化である、と把握できる。

 たぶん、数学などでも(何より技術的なものでありうるその他の認識、個々人の経営-経済的な営み、という意味でのそれ-もそのようなものでありうるが、それらについても)、そうだ。

 
20180324-2
 「記憶力」(感情のそれを含む、言葉のそれを含む、「記憶の再現力あるいは記憶の再構成把握力」と言ってもよいもの)の強さ、逆に弱さも、論理的思考力の強さ、逆に弱さ、なども、

いずれも、その人自身にとっての幸福な時間の密度(割合)にとってのプラスベクトル要素、そして逆の要素になりうるものである、と把握することができる。

 これも当たり前のような認識だが、確認しておく意味はある。

 
20180324
 プラスベクトル要素を持っていると(把握する側で)把握されている、経営組織や政治活動組織の「有名さ」の、或る地域でのその度合いは、経営や政治に関しては、プラスベクトル要素を持つ。

 特に、プラスベクトル要素を持っていると把握されている情報が、早く、広く伝わる確率が、それに応じて基本的には大きくなるから、だろう。

「評判」と、ほぼ同じ意味。

 
20180323
 自身の身体の疲れや痛みが、心の痛みやつらさを加算させ、逆に、自身の身体の休息(基本、体を横たえて休ませること)が、相対的にであってもその逆の効果(喜びや幸福感)を生じさせ、

他者の身体やその行動の近接の確認が、これも、心の痛みやつらさを加算させ、逆に、心に喜びや幸福感を加算させうる、

ということは、それぞれ、基本的には当たり前のこと(事象)である、と考えられる。 (自分[私]だけのことでは、おそらくなく。)

従って、只(ただ)、この認識を持って、事(こと)に対処しているべきである。 (それだけのこと、と言ってもいいのかもしれないが、この認識を持って、後[あと]は実践に属する事である、と把握することも可能である。)

この認識の関連で、いつも、基本的には心の有りようから出発させてのものである、心でも身体でも、幸福の方向に向いていく、さらに心でも身体でも近づいていく、という取組みの方法との関係については、これも(この取組みの方法も)、只、その認識を持って、最上位の目的の実現への取組みを進めていくべきだ、ということに、尽きる、と言ってもよい。(同様な意味で。並行して、あるいは並行的にそれらの認識をもって、ということ。)

これらの認識と、最上位の目的の実現のための、具体的な目標達成への取組みについては、その目標は目標値であり、体験的にその値は達成されたか否かの把握が可能であり、そのようなものとして意味があると考えられ、実践的に達成させるべく取り組んでいくべきである。

以上の中での、自分自身の、また、近接することのある他者の身体の活動と休息に恒常的に関わる基本的な条件となっている、各自の、自分自身の「経営」(経済的な条件の確保のための活動[営み]という意味でのそれ)については、

安易なものになるのではなく、むしろ困難なものになる確率の方が高いと考えられる(その基礎的な認識は未開拓なままだからだ)が、それ(自分自身の経営)についてより偶然的な要素に頼らずにそれに取り組んでいくために、

「被雇用」の形態でのそれはできるだけ早く脱して(卒業してと言ってもいい)、被雇用ではない経営の方向に進べきだと考えられる。「本筋」として。

多くの人にとっての、つまり99%の人々のための、そのための(被雇用ではない経営の方向に向けての)専門的技術力獲得のための学習期間の、その時間と費用の負担の制度的な創設は、政治的課題でもある。

 
20180321
 どんなにちゃちなように見える喜びでも、幸福でも、少しでも、一瞬のような時間のものでも、繰り返し心の中で、でも、再構成把握していく、という実践での、結果・成果について、は、

 その対象の、本当に幸福そうな様子をずっと、心の中ででも、見ていたい、という、その方向性、のその実現、がなされるように、以外のものではない。(でも、これ自体がとても困難。)

 
20180320
 (倒れて、あるいは起きているのが困難になるようなことのないために)休むべき時には体を横たえて休むようにして。

(有名人のことの援用は、政治的・経営的なものに留める。・・)

 
20180317
  「幸福な時間のその密度を高めるその物語を生きる」というその具体的な実践は、基本的には、(私の場合、)幸福な一瞬のような時(間)の現実やその再構成をして把握するその残像の把握を、(目はつぶらないで、眠り込まないようにして、)いくつもいくつも(把握)していくことによって、であるか。

その把握の一つ一つが、密度の一つ一つの構成要素である物語(のようなそれ)であるものとして。?

これは特に、実践的な検証で。

 
20180302-2
 「ほとんど不可能な、"それを生きる"こと(その物語を生きること)」という認識は、持っていた方がいい、?

 一瞬の幸福のような時間、は在りうるにしても。? そのような時間の密度(占める割合)というものは考えられるにしても。?

 そして自分自身にとって「亀鑑的作品」の意味は、「ほとんど不可能な、"それを、あるいはそのような物語を生きる"こと」に関わるものだ、ということ。?

 おそらくいずれもそう。

 
20180302
 "そのような物語を生きるその時間"と、職の仕事に取り組むその時間との関係は、今日、その人の(一応正確に定義されている意味での)「資本」蓄積・確保のために、"前者"の時間を確保できる度合い(数量)を職の仕事として取り組む、その時間を、"前者"の一部(あるいは一つ)として使い、その残余の時間を前者そのものとしてそのために使う、という選択にならざるを得ない。

これも、当たり前の認識なのかもしれないが。そして、前者と後者が一致していれば、その人にとっては、最善なのだろうが。認識として把握しておく意味はあるように考えられる。

 
20180301
 本当に幸福そうな人たちの、その幸福そうな様子の物語を、それを生きる。とても、とても、とても困難なそれを。?

 
2018228
 小説を読む、新しい小説を読む、これまでに読んだ小説を読む、あるいは読み直す、そのように、物語を、"そのような物語"を、生きていく、ことと、作っていくこと、と、の関係、そのような、その人自身にとっての、亀鑑的作品となるべき作品の創作は、それを作るように-小説それ自体を作ることも含めて-生きられるべき物語になりうるもの、必ず、?

 要約すれば、物語を(言葉で)読むこと、聞くことと、物語を(言葉で)作ることと、物語を生きること、前2者は、最後者の有りようの一つ、・・なのだろう。(辞書を引くことも、学科を勉強することも-数学も-、物語を読むことだと把握することが-位置づけることが- 、できる。物語を生きることの有りようの一つとして。)

 だとすれば、幸福の、その密度の高いものの、物語を生きること、について、それを実践し、実行すること、物語とは、その活動の具体的な、幸福に関わる内容であり、それを(何より言葉で)指し示すものだから、

 さらに、物語として、の方が、幸福の(密度の)対象を、心の面で再構成把握しやすいということもある。・・

 
20180228
 緊急なこと・緊急事態への対応と、一番大事なことへの対応との関係について、どちらも、選択余地のある場合には、生きてる時間の中での幸福の時間の密度、つまり、相対的でいい、自分自身にとって本当に幸福な時間は、心の中にでも捜せば常に相対的にであれば基本的に見つかる、 そのような幸福の時間の密度を優先して。でないと、そのような時間は、結局持つことはできないという結果が生じうる。

この、"緊急なこと・緊急事態"の中には、他の一切が入る。・・

 
20180226
 「この世界の中での、好みや喜びや幸福の対象がとても、本当に少ない、せまい、その条件の元で、あるいはそこから出発して・・」幸福に向かう、密度のためにも、

この認識というか判断の意味、が、あるような気がするが、密度に関わって(拡がりではなく)、幸福の密度に向かう、(幸福な時間のその割合という意味での密度であるとしても)選択と忌避の基準に関わる認識あるいは判断として、その認識あるいは判断は、在った方が、持っていた方が、いい。そのように自分自身に(も)働きかけていく。わずかな体験の時間のテストでも。

言ってみれば、自分自身にとって、そのような希少なものの価値が高いものになっているということ、おそらく。

現実の中にあったし、ある、そのようなものでもある。相対的にでも、いい。(「本当に幸福そうな人(たち)」という言葉の対象として把握していようとしているものも含む。)

 
20180225-3
 大人の一人一人が、経営者であることを選択することと共に、あるいはそれ以上に、自分自身のそのような亀鑑的作品を作っていくべきなのだ、ろう。方向性としては。自分自身としても(そのように働きかけるべきなのだ、ろう)。

 
20180225-2
 言い換えれば、あるいは逆に言えば、幸福に向かうとは、あるいは喜びとはそのようなもののことだ。そして、体験的にそれは可能でありうる。

 
20180225
 「『“喜びは、自分を忘れることにあるのだ”と。』 [これについては当初、自分自身に関しては違う、と考えていたが、幸福--ある質の快さ--それは、『自らの苦痛の相対的な消失を含むそれ』であるが、『それ』---に在る・・090718---という点で、そのような意味で、以下引用部分へのコメントを含めたすべてに適用されるものとして、正しいと把握すべき。]・・

・・『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(同タイトルのホームページ)より引用したものに、コメントを付けたもの。 」(以上「」内は、私及び事務所のホームページのnote3-20090719付けノート。090718は、そのことを考えていたということなのだろう。)

今の時点で、"幸福に向かう選択は、あるいは喜びは、自分自身の苦痛を忘れる結果を生みうる"。

 
20180224
 さらに言い換えると、少しでも世界を変えることへの取組みの一つが、自分自身に対して幸福に向かうように、そして幸福の密度を-幸福な時間の割合を-高めるように働きかけること、もう一つが、身近な人たちからでよいので、また自分にとって本当に幸福そうなということでよいので、多くの他者たちに同様に働きかけること。その時の実践の選択として。

 
20180223
 言葉の対象の意味、『クオレ』『ピエールとリュース』『たけくらべ』『ボヴァリー夫人』『陰謀』『パルムの僧院』、など、それぞれの物語の末尾の続き、最近になって本当に少しでも得られるようになってきた現実の会話の中の言葉のそれ、など、など、・・・さらに、世界を少しでも変えることとの関連、前者がないと後者は闘えない?逆?

幸福に向かうこと、向かっていること、と、世界を少しでも変えること、との関係、関連性、は、実践、あるいは行動、として、の、その時あるいは時間の選択、としてなされるもの、実行されるもの、の、それ以外ではないもの?

具体的なそれぞれの課題の目標設定と確認と、の関係も、含めて、である。このことは(具体的なそれぞれの課題の目標設定と確認は)、その時、その時間の経過の中でのそうすべき時の都度、なされるべきものであることは、確認して、"それ"が要るのであれば設定しなおして、"そう"。

一言で言えば、その都度の、生き方の選択の方向づけと実践。・・・

 
20180222
 現実の人間(たち)、言葉の指し示す対象、画像、写真、音響、それらの残像、身の周りのそれらに関する目標、地球規模でのそれらに関する目標、経営目標、

その時間がつらければつらいほど、より幸福の時間の密度が要る、それに(その獲得に)向かう選択をする、していく、その選択としての、"幸福についての物語"の指し示す対象、の"意味"、

戦争で殺す側と殺される側の、入れ替わりうるそれぞれの人間たち、無防備な人間たちに(も)襲いかかる戦争、戦争そのものに-命を賭けてでも-抗する人間たち、などとの関係で(も)、

戦争そのものに-命を賭けてでも-抗しうるためにも、幸福の時間の密度が要る。時間との関係、皆がそう選択すればいい、・・・。大人たちの場合。

 
20180221-3
 ポール・イブ・ニザンの、自身がそう説明していた「幸福についての小説」としての、(第二次世界大戦で35歳で殺されたために)書きかけの『ソモジエラの夕べ』、そしてその序章とされる出版された『陰謀』。 そのニザンが、(出版された)『妻への手紙』の中で触れていた、同じく、幸福についての物語と把握できる、スタンダールの『パルムの僧院』の、ファブリスとクレリアの物語。あるいはファブリスの伯母?さんのサンセヴェリナ夫人の生の物語。小説の末尾の英語、"TO THE HAPPY FEW"。
(突然、とは言えないが、あらためて思い出して。)

 
20180221-2
 一瞬のようなものであっても、現実の幸福な体験があったのでなければ、その言葉(テキスト、物語)のその"意味"を把握することは、できないのだろう。しかしそのような体験を持たない人間など居ない、と考えられる。

 
20180221
 何回も繰り返しても、まだ、不足。「本当に幸福そうな人(たち)」という言葉の示す対象、は、方向性として、密度の課題であるとしても、要る。「再構成して把握する現実の残像」であるものとして(も)。

関連して、こちらは、言わばそのような現実の、作品化としての把握に関わるものとして、、画(像)、写真、言葉(その指し示す対象)、現実の人間たちの周りの環境、情景、景観、音響、さらに人間たち、などのうち、亀鑑的作品(各自、自分自身の手本あるいは模範になるような作品)としての"言葉"は、あるいは"テキスト"は、あるいは"物語"は、

それの指し示す対象が、"意味"を持つ。(たとえば物語であれば、その物語の指し示す対象に、意味がある。)それは(言葉、テキスト、あるいは物語は)、自分自身の -過去の"それ"をその中に、記憶あるいは印象などとしてでも、含んでいる- 体験の中の、

その言葉、テキスト、あるいは物語の指し示す対象を、自分自身でさらに上書きするような在りようで把握することだ、と考えられる。経験的に、自分自身にとっての亀鑑的作品であれば、その中のどのページのどのような言葉の対象であっても。

幸福(の密度)に向かっている、ということの、その選択の、一つの意味として。

 
20180220-3
 "これ"に近いサン・テグジュペリの有名な言葉があった。

 
20180220-2
 苦手な、"会話ができること"、について、(逆に、できないこと、について、)、苦手な、とも言えないかもしれない、が、言ってみれば、「心の籠もった(こもった)」会話、一番いい意味で、心-気持ち-が充分に詰まった、そんな会話、

それはやはり、それができる、そしてできれば続けられるためには、自分自身と、相手の、幸福にとって一番重要な要素(のような部分、対象)が、要る、と考えられる。"幸福に向かっている"という時の、その方向が、あるいはベクトルが、近しいものだということが、要るのかもしれない。

 
20180220
 "その"意味は、当然、言葉の意味を含む。但し、言葉の意味はその指し示す対象についてのものだから、という理由で。

 "その"意味のあるものとして(の)、具体的な(幾つかの)目標確認から、その達成への取組みを、していくこと。

 
20180218-2
 「意味がある」とは、幸福に向かっていること、あるいは幸福に向かって闘っていること。幸福な時間の密度(生の時間の中に占めるその割合を高めること)に向かって、と言ってもいい。"人間"の実現の本筋に向かって、と言ってもいい。

 
20180218
 仕事を進めていく上での具体的な目標を、確認し、が、それを実際に進めていく上での、出発点、であるべきだろう、いつも。それぞれの課題に-あるいはむしろ、それぞれの目標に-ついての"それ"、を。

より纏まった形では、ホームページの「(このサイトの)もう一つのメインテーマ」の最近のノートも確認して。場合により「サイト内全文検索」も使って。今日はここまで。

("livedoor-blog"の原稿用紙を使って考え、それを纏めている。textファイルより使いやすい-キーが離れるときに保存するか破棄するか、確認メッセージをもらえる、html書式の原稿形式としてほぼこのまま使える-。)

 
20180217-2
 逆に、その、自分の感じたり考えたりしていることの一番大事なもの、部分、要素、が、幸福の密度(生きている時間の中のその時間の割合)に大きく-ことによると何よりも位に-関わっている。?当然なのかもしれないが。

 
20180217
 20180216ノートのことと一見矛盾するようなことだが、仕事の滞留その他目標への取組みの関係でも、何よりも、ほどに衝撃となるものだと考えられるようになったこととして、自分の感じたり考えたりしていることの一番大事なもの、部分、要素、について、どんなに説明を尽くして述べても、ほとんどすべての他者にはとても分かることはないだろう、ということ。

遡って考えてもか、についても、おそらくそうである、そのようなものとして、互いに、であるのだろう、そのことについて、感じていることが、なのか、その残像を考えていることが、なのか、いずれにしても、その選択をしていくことは行動として可能であるはずなのだが、それが選択できていけてはいない、出発点から、全然、であろうということについて、

それらがそうだとすれば、"その"ために、すべてを掛けてではなく(本当はそれに時間を掛ければ、そうではないことが分かってくるのかもしれないとしても)、それを、もはや勘定に入れないものになるような"対象"の獲得のために、でもいいので、それに、つまり最上位の目的の実現のために、すべてを掛けてでも、取り組んでいくこと。言わば、今は、どうにもならないようなことの一つとして、

その具体的な目標の一つとして、本当に幸福そうな様子や表情の少しでも多い、そして少しでも、上記のことを踏まえると-それが何よりも位の衝撃である(から)ということを踏まえると-、少しでもより分かる、そんな対象の、少しでも身近な存在、を日々、より獲得していくこと、として。

関連して(これに関わる一つの、かなり中軸的な問題として)、"マナー"と言われているものについて、それは、定義として、「態度=特に-関係者を含む-相手への、行動する時の心と身の構え方」(『類語国語辞典』大野晋・浜西正人・角川学芸出版の定義を一つにしてのものとして)であるものとして、

(世界中の)誰にも共通して「このようなもの」として定まっているようなものではないと考えられる、-言い換えると、その相手の人や地域で「そういうもの」として多く行われている、一応それらの人たちの間でプラスベクトル要素があると思われ、さらには感じられていると考えられる-行動(するの時の心と身)の構え方であり、「様子、表情」などを含めてのそれであって、

重要な節目、節目のそのマナー-行動の構え方-たとえば誕生、結婚、葬儀など-においてのそのマナーについて、調べられる限りで調べての確認をしておいてそれを選択することは、相手・関係者・自分自身へのプラスベクトル要素になることだと考えられるが、

本当は、普段の、日々の、朝から晩までのすべての時間で、そうなのであって、重要な節目、節目のそのマナー-行動の構え方は、その一つなのだと考えること、把握することで、より重要なものとして把握できることになる。・・・

 
20180216
 身近に"居る"と、なぜ、"体験の時間が異なる"、のだろう。それは、その対象に、そしてその身近な居ることに、応える身体の要素が-プラスベクトル要素が-在る、から、そして、逆に身近に居ないと、なぜ、"体験の時間が異なる"、のだろう。それに応える身体の要素が-プラスベクトル要素が-無い、から、(疲れにも関わっているのだろうが、)

そういうように、身体が(それらの要素が)形成されて-きて-いる、から、だとすれば、身近に居ない時間、時、身近に居る"つもり"の時間、時を、「"体験の時間が異なる"ようになる」、ように、現実に身近に居る時間、時、に近づけるように、

取り組んでいく? 目標としても? そう。

文学の、小説の言葉は、そのプラスベクトル要素にもなる?最良の時、時間の現実のそれらの印象や記憶を呼び覚ます、

そのような画像も、そう。これらも、"つもり"の一つ一つなのだけれど。

音楽作品は、それらの体験の時間の在りようの、構成要素、現実に身近に居る時間、時、に近づけるように、取り組んでいく、 目標としても設定をし直したりして、取り組んでいく、そのプラスベクトル要素の高いものとなりうる、構成要素、それに歌詞など言葉が伴っている場合でもやはり、それに小説の言葉が伴っているのと同じように、そのプラスベクトル要素が高いものとなりうる。

現実に身近に居るような場合でも、「君が居ない」という、"ザード"の坂井泉さんの歌の歌詞の中にあるように、身近に居ない、現実に身近に居るとは言えない、ということは、在りうることだとしても。但し、これは、本筋としては、ごく少ない。体験的に。

身体・感覚経・感覚(そのもの)・感覚の対象・本筋・印象・力の不足・渇き切っている、しかし潤いが得られないような、体験の時間、感覚の総体、心の在りよう、疲れと風邪の症状(頭痛・咳・胃や腸のもたれ)、・・具体的な目標の、さらに具体的なものの設定から?眠気・・・などと考えてきていて、上記の結果。

 
20180215
 さまざまな具体的な目標設定も、それ自体、心の中での、実践(行動)である。それ以外の何ものでもない、とも言える。

(おそらく心の中での現実の対象の残像の再構成把握をして-し直して-行う実践として。それゆえに-上段で書いたことのゆえに-、それ自体にも、"意味"がある-プラスベクトル要素を持つ-)。

(心の中での、具体的な対象としての、本当に幸福そうな)様子や表情やそれらの印象を獲得できる時を、日々、可能な限りで、少しでもより獲得していくこと、も一つの目標として、今、は。本当に少しずつでも、そして発生してくる条件によっては後退しているように見える時にも。

 
20180214
 「喜びは過去の試練をもはや勘定に入れないものだ。」という、繰り返し取り上げることになるロマン・ロラン作・渡辺淳氏日本語訳の『ピエールとリュース』の中での言葉について、 同じく「ほんの少しの幸福」という、その作品の中の言葉との関係で、

さらに、「ほんの一瞬の喜びでも」という言葉も含めて、それらが、それらの言葉とその言葉の意味の具体的な在りようが、それ自体の時間の中での密度が目的だとしても、それ自体がその闘いの力になるということ、

それが、いつも、出発点になる。力が不足している時間のこととして。おそらく。

 
20180213
 それぞれの目標の達成のための取組み・行動・実践についても、それぞれ少しでも、日々その目標の達成がなされていくように、して。与えられた、そして、人生においてそのすべてを予測することはこれも体験的に当然不可能なその与えられる条件の元で、可能な限り。これまでの体験から不可能とは言えないそれを。

 
20180212
 受託分の(報酬獲得のためでもある)仕事、受託の獲得のための(報酬獲得のための、あるいはそのためのものでもある)仕事、その他の自分自身のためと"世界"のための仕事、それぞれの計画の達成への仕事、は、

それぞれすべて、最上位の目的の実現のためのものだということ、重複する部分や複層的あるいは交錯的な部分を含んでいるものとして、であってもそうだということ、は確認しておいて、具体的な計画(達成すべき目標と方法の概要)

の達成に向けて、それぞれすべて進めていくべきだ。それによって具体的・現実的なものになっていく-なるようにしていく-べきものだから。少なくとも今の時点でも。

 
20180211
 多くの人たちにとっても大きなプラスベクトル要素になりうるということ、と、自分自身にとって大きなプラスベクトル要素になりうるということ(基本的に認識についてのそれら)、との関係については、本筋として見て、自分自身にとって大きなそれと同時的に、多くの人にとってもそうだと感じられ、思われるものを選択して(選択的に)、だ。

その、多くの-他者である-人たちにとっても、というのは、具体的なその在りようは、その様子や表情などを見聞きして、またそれらの現実の残像を、自分自身の体験に上書きするような在りようでなされる、のだろう。

幸福の密度(生きている時間に占める幸福な時間の密度)のために、は。も。

これらの言葉は、「想像する」「イメージする」という言葉だけでは余りに抽象的なため、より具体的・実践的に言い表した(つもりの)言葉。

さらには、童話の物語の終わりにあるような「それからはずっと幸せに暮らしました。」という言葉だけではこの現実の世界の中で、余りに漠然としていて、抽象的でありすぎ、プラスベクトル要素が少ないため、とも言える。無いよりは良い、にしても。

幸福な時間は、自分自身では、実践的・具体的には、(たぶん何より現実のそれと心の中のそれとの接点あるいは境界線上に在ると思われる「印象」を手掛りにして)、それに行動を集中させていって、できる限り身近に、幸福そうな人(たち )の-あるいは生き物たちの-幸福そうな様子や表情や声や行動を、現実に、それが困難な時間では(それを呼び起こせる作品などを手がかりにしたりして)心の中で、見聞きして、感じて、得られる時間とも言える。

その「人(たち)」の中には自分自身も-"つもり"としてでも、しかし本当は、本当に、と感じられる在りようで-含めて。他者(たち)は不可欠なものとして。

生きてることの(中での、人間としての)"恥ずかしさ"は、何よりこれらのことに関わっている。・・

 
20180210-2
 いつも、「一番肝心"そうな"」課題から、選択して実行していくということについて、「一番肝心な」課題は、それぞれの時点でいつも明らかになっているわけではないため、言い換えると現実の状況はこれ(その時点で取り組んでいるその課題がその時点で一番肝心な課題であるか)に関してもいつも変動しているため、

「いつも、一番肝心"そうな"課題から、判断して・選択して、実行していく」という方法になる、のだろう。

 (昨日と本日のnoteは、主に、イマニュエル・カントの、「 自ずから無数に課題が提起されてくる中から、何を選択するか、この点に知恵の役割がある。」という、ポール・ニザンが『番犬たち』?の中で引用していた言葉-但し記憶からテキストにしたもの-に関わるもの。・・)

 
20180210
 "名前"を思い出すという、心の中での(現実の残像の再構成把握に関わる)行動について、

 それは、「一度なされた、現実の名前 (たとえば"辞典"などのテキストを読むことで心の中で把握された"それ") と、その現実の言葉に対応するその対象となっている・対象として示されたものと、を、一致させての把握」を、

再度、同様なものとして、心の中で行う(再把握する)という行動である。その、"名前"は、"言葉"または"単語"と言ってもよいが、"名前"がたぶん一番適切。

 (当たり前のことで、今更テキストにすべきようなことではない? 前段と、それを引用しているということ、が意味がある認識である。? 名前についての"記憶"の引き出し方に関わる問題だが。そして、思い出せなければ、代わりの名前でその時点の実践的課題への回答として特定できればよい、この点でも、意味がある。?)

 
20180209-2
 既存の具体的目標達成への実践への集中の時間メモとして、より多くの人にとって、プラスベクトル要素の在る、そしてできるだけ強く在る、そして読んでそれが分かる、テキストを作成して公開までしていくこと、模索的実践中なのに、それがプラスベクトル要素を持つありようで可能になるの?

実践の中で、目的を見失ったままにならないように、そのようにするために、そのために、具体的な目標や計画達成への行動に集中していくようにしていくことで、(逆なような印象もあるが、そうではなく)それが可能になっていく。このことは実践的に検証できる。

今は、既存の目標達成への、具体的な実践の時間である。・・

これは、このこと(実践の中で、目的を見失ったままにならないように、そのようにするために、そのために、具体的な目標や計画達成への行動に集中していくようにしていくこと)によって、どんなにつらい状況であっても、どんなに厳しい状態の中でも、それと闘う力になる実践の時間となる。

目的の実現のための実践なのだから、である。そしてあいまいな、漠然とした対象を相手にするだけでなく、具体的な対象を含む闘いであるからである。・・

さらに、自分自身にとってのプラスベクトル要素になるものと、多くの人たちにとってもそうであるものとの、関係について、具体的な目標達成との関係で、当然、前者の中から選択は要るのだろう、そして、このことを認識して時間を使っていくのが、よりプラスベクトル要素のある時間の使い方になるのだろう。

 
20180209
 大変でも、ホームページに肝心だと思われるものは、できる限りその時点でコピー、保存、全文検索インデックスをしてアップしていくこと。自分自身でも使うために。

 
20180208-3
 目標(変更)設定や、計画(変更)設定は、それ自体、心の中での(現実の残像の再構成把握による)実践・行動・取組み(の一つ)なのである。・・

 
20180208-2
 過去は、これも、目的として把握しているものの、ために、それ以上でも以下でもないものとして、考えたり、検討したりすべき時間には、する、こと。

 
20180208
 時間の使い方:追記として、目的として把握している(考えている、思っている)ものを現実化する(実現する)接点又は境界線上のものとしての具体的計画の達成への取組み・行動・実践は、目的を実現させるためのものであり、目的を実現させようとしてなされるべきもの、である。(当然・・。)

 具体的な計画を、より具体化して設定することも、そう(その目的の実現のために、その目的を実現させるようになされるべき、である)。現実に身の回りに、身近に、そんな幸福な時間の得られる対象が(居)無い時間、具体的目標と計画は、(変更して)設定すべきものか、については、

した方がプラスベクトル要素が大きくなりそう。.具体的に考えることになり、より現実化するという観点からだけ見ても、その設定するその時間だけでも、そう・・。心も、それにより向かうようになる、という点からも。今は、ここまで。

 
20180207
 時間の使い方について、幸福な時間のためのそれについて、具体的には一瞬でも幸福な時間のその獲得とその生の中での密度(割合)の高さの獲得について、それは、思考を含めた行動それ自体だということ、ただし、目的とその実現のための行動の本筋をできる限りはずれないように、

ただそれだけ。? その実践だけ。?この記事のこの思考とそのテキスト化も含めて。? 上記のことも含めて、溜まっているさまざまな仕事のこと、と、この思考とテキスト化、と、目的実現のための目標達成への具体的計画(目標とその達成方法と把握できるそれ)の設定と、の関係を考えてみて、

目的実現のその心の中でのその残像の)再構成把握を積み重ねていくことと、目的実現のための目標達成への具体的計画の具体的実行・実践・取組みとの関係は、後者を優先して(という方法)になる。再構成把握したものでも残像は残像なので。

 具体的計画(目標と達成方法)を立てることの意味は、それに意味があると感じられ、考えられる限りで、あるのだろうが。それは(その計画は、そしてそれを立てることは)、心の中のその残像と、現実との接点、あるいは境界線に位置し、現実の中に実現させていく実践・行動・取組みの一歩だとも把握できる。

 (思考のテキスト化それ自体も、これも、心の中のその残像と、現実との接点、あるいは境界線に位置し、現実の中に実現させていく実践・行動・取組みの一歩だとも把握できる、が。)
 
20180205
 「戦争」の意味の定義として、「集団的組織的に、『無防備な市民を激しく襲うことによって』その人々を-市民を-殺すこと」。戦争への抵抗あるいは抗争は、戦争には含めないものとして。(『』内は、Bana Alabed さんの出版した本の書評から。)

 
20180203
 人生の仕事の最上位の目的は、自分自身とこの世界をより人間らしいそれに変えること。言い換えると、一瞬のものでしかないような幸福な時間の生の中での密度・割合を、できる限りその本筋をはずさないように高めること。最上位とは言えないその仕事の目的が報酬である時間があっても。

 
20180201-1
 (人間としての)本筋という要素、率直さ、経済的要因での損得計算、プラスベクトル要素の有無、について、最前者の要素が最上位のものだとして、把握して実践していけばいい?現実の対象の、その本当に幸福そうな様子、などを見、聞いている、それから、

 それを元にして心で再構成把握されている方向性なのだから、そう。・・

 
020180201-2
 伝記(特に自伝)と物語について、"The one I knew the best of all : a memory of the mind of a child" (『私の一番よく知っていた子-その子の心の記憶からの物語・・』F.H.バーネット)の例を読んでみても、それは、切り離せないものなのだろう。?

 物語すべてが、他者のそれを含めて、伝記の要素を含めている、とも。?全く異なった物語になっているものを含めてさえも。?知りたいのは、把握したいのは、その物語が、どの部分も、その全ても、プラスベクトル要素を持てばいい、それだけ?伝記であっても。自伝であっても。?

 そうなのだろう。

 
20180130
 どんなにつらい状況と時間の中でも、それと闘う力になる一瞬の幸福であるような幸福の把握について、つもり(pretend)での把握、再構成把握残像での把握、も、現実の把握の一つではあるけれど、"つもり"ではない現実の把握との関係で把握されていくのでないと、

 生活の中での(生の中での)その時間の密度(その時間の占める割合)は高められない?

 その前に、一瞬の幸福であるような幸福のその時間は、私自身の場合では、他者の、それも本当に幸福そうなその様子や姿や表情や声などの少なくともその印象あるいは兆し(きざし)のある対象への基本的には心の中で再構成して把握していると感じられる

 その対象への感情・感覚のようなものを不可欠なものにしている、その感情あるいは感覚だけでも力になると感じられるのだけれど、この認識を含めて、"そう"だと考えられる。

 人間自身以外の作品も、一つの"現実"でありうるけれど。そして、花はもちろん、犬や猫も、作品でもあるけれど。
 風景も、景観も、作品でもあること、も、あるけれど、それらの"作品"に対して、

 幸福な時間の、生の中での密度が高まっていく物語という作品の要素の占める位置は。?物語だ、というのは、その物語は、生そのものについてのものだけれど、物語でないと、具体的には、他者には、伝わらない-把握されない。様子や姿や表情や眼差しや声などでその一部は伝わる-把握される-にしても。

 自分自身では、どうなのだろう。自分にとっての他者の、本当に幸福そうな様子や姿や表情や眼差しや声などで、その他者の、幸福な時間の、生の中での密度が高まっていく物語は、その、様子や姿や表情や眼差しや声などで把握できる限りでは把握できるにしても、

 その物語の具体的な内容は、言葉による物語がないと、言葉による物語で表現されないと、把握できない、だろう。?そう考えられる。そして、一人であっても、他者のそれがない限り、自分自身の幸福な時間の、生の中での密度は高まってくことはない、あるいは困難だと考えられる。

 そうだとすれば、既存の作品としての物語は、現実の作品ではあっても、自分自身の物語では、当然になく、"現実"の他者の物語でも、なく、一つの、再構成把握されたその物語で示される残像での把握であり、"つもり"での把握であり、この把握についても、

 "つもり"ではない現実の把握との関係で把握されていくのでないと、幸福な時間の、生の中での密度は高められないのではないか?そう考えられる。

 それらがそうだとすれば、自分自身の生の物語はともかく、そのような現実の他者の生の物語の把握を通して(紡ぎだすことを含めて)でしか、幸福な時間の、生の中での密度は高められるようなものには、できないのではないか?と考えられる。

 そして、自分自身の生の物語は、"その"中で、これも不可欠的なものになっていくのではないかとも。そして"認識"は、そのような行動あるいは実践のためのもの、とも。

 既存の作品は、"その"中で、上書きして把握していくような在りようで。

 それで? "つらい状況の方は?" それと(そのつらい状況と)闘っていくその中で以上のことは、位置づけていく。

 
20180128
 Twitterへの投稿分で済ませていた認識ノートを、できる限り継続的に、この、「サイトのもう一つのメインテーマ」の中に選択しながら保存していきます。但し「亀鑑的作品からの認識ノート」の分は、そのコーナーへ。

 それぞれ、それ自体、自分自身でも意味のある取組みだと思われ、「サイト内全文検索」の対象にもなって、役に立つと思います。

 さらに、なかなか間に合いませんが、1年位を基準に、過去の分は、過去分へ主題に当たる部分を見出しにして、移動をしていく予定です。新しいものの方が、当然、より意味のあるものになってきていて、その前提でしかないものになっていく、予定として。

 
20170603
 確か、2015年3月頃から、Twitterへの投稿が多くなり、その頃からはそちらを、ここでのノート代わりにしている状況になっています。

 記録しておきたいものを、こちらへコピー保存していく予定にしていますが、なかなか間に合いません。そちらのリンク([Top] − アウトラインメニュー − Twitte - myTweets - Archive (Twitterの私の投稿分本文書庫」)も、「サイト内全文検索」の対象にもなっているようです。

 但し、そのページの"Tweets"コラムの中の情報は、「サイト内全文検索」の対象にはならないようです。

 
20160612
 京セラ名誉会長、盛和塾塾長、稲盛和夫さんがよく言われている、「誰にも負けない努力」の意味について、このことについて、

 これまで、余りにも抽象的な言葉に思えて(具体的な基準の見出しがたさを感じて)、実践の基準として取り込んでこれなかったけれど、あらためて検討してみて、

 より具体的に(経営などの取組みだけに限らず)、「体験の現実の中で見たり聞いたりした人たちの中でのそのような-その言葉で示されるような-努力の様子から再構成把握した残像としての努力」を基準しての、「その言葉の対象であるような(人たちのその)努力」のこと、と把握できる。

 経営などの(言わば相対的にでも義務的な)取組みに関して、そして、それを含む、束の間のだけではないような幸福への取組みと、同時的に取り組まれていくべき他者たちのそのような幸福に対する生涯の取組みとに関して。

 盛和塾の塾生の方などのその様子は(再構成して把握するその残像として)見えるけれど、これについては、見えにくい、サンダース氏などのその様子、と考えることになるにしても。

 それは−その言葉の示している対象は−、その取組みの目的が実現されているのでなくても、より有効な復帰のための休息を含めて、意味のある言葉のその対象である、と把握できる。何より、取組みの目的が実現されているとは把握できない時にも、それ自体が幸福の一要素でもある、から。

 それは、自分がそういう人たちを見たり、聞いたりして、尊敬できるということ(その思い)にも関わっていることであり、このことについて、そのご本人自身たちが触れていることは、なさそうだが、バーニー・サンダース氏のような人たちについて。


 
20160529-2
 Home − 「事務所業務外の特別紹介リンク」 − の中に、 本日の新聞記事 で見かけた、AWWP (Afghan Women's Writing Project)[アフガニスタン女性の作文プロジェクト] へのリンクを張らせて頂きました。


 
20160529-1
 「体験の中の自然としての、何より人間の命 - 生きていると把握できるもの - たちのその作品たちを含めたものの中の、今の試練をもはや勘定に入れないものにできるような、身近な現実の、ないし(and/or)体験の心の中で再構成して把握しているものを含むその残像たちの、その美しさという喜び、ないし(and/or)楽しさ」という言葉の対象。

 何より、たぶんその総体としては単純なそれを。

 少なくとも人間の場合、自分自身の命の総体である生涯賭けて何かに取り組むことが、できる、その人間とその作品、という対象を含めて。


 
20160507
 Home − 事務所プロフィール/アウトラインメニュー − 亀鑑的作品からの意味の認識note − MADAME BOVARY 「ボバリー夫人」(フランス語からの、エリノア・マルクス英語訳版)の  note「本文頁」へ、 "T : 20160507追加ノート" を書き加えました。

 
20160502
 Home − 事務所プロフィール/アウトラインメニュー − 亀鑑的な作品からの意味の認識note −  PIERRE AND LUCE 「ピエールとリュース」(チャールズ・ディ・ケイ英語訳版)の  note「本文頁」へ、 "U : 20160502追加ノート" を書き加えました。

 
20160430
  「受け入れていく」ことの系として、あるいは、その延長線上のこととして、職の仕事も、必要的有効性に応じて継続的に不断に取り組んでいけるために、

 「巣のぬくもり。」「あの人の腕に抱かれて嵐のすぎるのが聞けたらいいのに。」(あるいは、その人の、そして自分自身もそのままを抱きしめて、嵐のすぎるのが聞けたらいいのに。)「幸福が成長している時には、いちばんいい日は、つねに今日なのだから。」(「」内は、ロマン・ロラン、『ピエールとリュース』、日本語訳、渡辺淳。)

 の一つだけではない、そのすべての対象への憧れ、又は再構成把握残像を把握していく、

 その系として、と言うより、その延長線上のこととして職の仕事も継続的に不断に取り組んでいく。

 このことへの動機付けは、この認識の有効性の確認であるものとして。

 その対象が"人間として"美しいと感じられる対象であることは含まれていると把握して。

 
20160428
  出会いよりも、たぶん、いつも把握できる対象、体験できる対象、繰り返し、そしていつまで触れていても心動かされているような、美しいと体験されるような対象、しかしいつ消えてしまうか・・の印象は感じている、そのような対象、それらを、憧れとしてでも、再構成把握残像としてでも、いつも、把握し、体験していくことの取組み、

 みんなが、つらそうな様子の部分はあっても、それでもいつも幸福そうな様子でその生涯を生きていると感じられるような世界に向けての。

 体験している、そして出会うつらさは、その取組みとその闘いでの、逆のベクトルを示すメルクマールだと、そして、取り組まないでいること、闘わないでいることの方が試練なのだと把握して。


 
20160423
 「幸福が成長している時には、いちばんいい日は、つねに今日なのだから。」(ロマン・ロラン、『ピエールとリュース』、日本語訳、渡辺淳。)

 こんな時代にも、自分の身体とその感覚経も含んでいる"そんな"世界への憧れに拠るものであっても、闘わないことの方が困難なつらいことなのだと把握して。

 
20160422
 精神的なものを含む苦悶や痛みや疲労感などのつらさを感じ、把握している身体とその感覚経(神経)は、

 (※「精神的なもの」は、おそらく、体験の中で、再構成して把握しているその体験の中の「現実」の残像[それは、体験の現実との関係で、「残像の残像」などを含む階層的に相対的なものでありうるもの。そして、もちろん言葉を介しての残像の再構成把握を含むもの。]に関係している要素であって、人間の場合、その要素を常に持っていることが基本的であるもの。)

 そちらの、つらさに関わるもの、の方が実践的には先になってしまうが、

 喜びや幸福を感じる身体とその中の(基本的には、代替的な働きを持つものはあるにしても、中枢も末梢も切り離せないものとしてある?)感覚経と、おそらく、少なくとも実践的には同じものだ。

 そして、そのつらさの「中に」、あるいは、こちらの方が基本的かもしれないが「脇に」、見え隠れすることのある喜びや幸福やそれらの片鱗を実践的に体験し、把握していくことは、それが微かなものでしかないとしても、多くの時間において、基本的に、可能である。
(おそらく、死期が間近であると思われるほどに激しいつらさの中にいるのでなければ。)

 この認識の帰結は、つらさの中に、それを感じている身体とその中の感覚経で感じ、把握していることになるそのつらさの「中に」、あるいはそのつらさの「脇に」見え隠れすることのある、喜びや幸福の片鱗などの方だけを、見たり聞いたり感じたりしていく、ことが意味のある取り組みになる、ということだ。

 疲れている、そして疲れ切っているときでも。

(※その喜びは、今のつらさが−「その」時には「過去のつらさが」)−もはや勘定に入らないような喜び。そうでしかない、と思われる。おそらく、「忘れる」ということ、とも異なって。)

 その喜びや幸福やそれらの片鱗は、何よりも人間に関わっている「対象」から、あるいは「その中」から、でしか無い、ということも言える。その人たちの表情、様子、そして、それと切り離せないその周りのもの(対象)たち、など。

 たとえば、「人間」の「作品」として創造された文学作品(その文章の、そして言葉の、さらに翻訳と、オリジナルも可能なら、それら一つ一つも・・)、絵画・イラスト・彫像作品、音楽作品、さらには料理という作品、そして友情(限りなく愛情に近いものであっても友情、おそらくお互いに一番つらい時にも信頼できる人間、ということに関わっている友情)を感じている人、その声、表情、様子、振る舞い、など。

 喜びや幸福やそれらの片鱗は、それらの「対象」の「中に」、あるいはその「脇に」、在る「何か」、あるいは「もの(対象)」、なのだろうが、それは、その時の自分自身の身体とその感覚経の在りようと、相関的なものとして在るだけでなく、そのつらさの在りようを含めて、これも切り離せないものとして、かつ、そのつらさがもはや勘定に入らないようなものになるものとして、在るものなのだろう。その対象自体はあいまいなままのもの(対象)でもかまわない、にしても。

 体験の中のそれらのさらに周りの世界−すべての世界−は、そのような喜びや幸福やそれらの片鱗の、その密度を高めていく取組みの一部としてのみ、把握していくことでよい。・・

 職の仕事も。それによって、応えていくことになるのだから。

 それぞれ、当たり前のこと(認識)として?

 
20160415
 その世界への取組みの一部として、やはり、自分自身についても、より全面的に人間らしい人間に、という言葉で把握されるものへの変革の取組みを試みていって。

 そして、これはこれさえもなぜかとても困難なことに見え、また感じられる時間が多いが、本当はそうなのではなく、その取組みをしていかないことそのままであることが、それがとても困難なことに見え、また感じられるその時間が多いのだ、と把握していって。

 熊本、イラク、シリア、アフガニスタン、トルコ、ナイジェリア、US他(street..)、・・ネット他の報道で知った、そして知っているいつくかの場所の状況に関してさえも。

 
20160412
 憧れの対象として、把握される、あるいは把握すべきそれは、何より、みんなが、(つらさを抱えているように感じられる時や時間はあっても)いつも本当に幸福そうに生きている、そのような世界。

 その憧れを、今現在の体験の中に作り出し、保持し、さらにそれを喜びにまでしていく、あるいは育てていく、のは、その憧れを保持し続けていく中での、やはり作り出し、あるいはそれと出会う一つ一つのものと、その総体であるものとしてのそれら−喜び−を、作り出し、あるいはそれと出会うための取組みをしていくことによって。

 さらに、それ以上に、その憧れの体験の中でのインパクトの要素の強さを、どんなにわずかなものであっても保持し、さらには強化していくことについても、その憧れを忘れてしまわないために、絶えず取り組んでいって。
 これは、むしろ、いつも(絶えず)その憧れを忘れてしまわないように、いつも(絶えず)その憧れに目覚めているように取り組んでいって、であるかもしれない。多分、「強いる」のではなく、「目覚めている、そして忘れてしまわないようにしていく。どんなにわずかな、またかすかなものであっても」。

 最後のパラグラフのことが、実践的に重要。できる限り、だろうが。

 あらためて、なぜ「憧れ」と言うのかというと、夢とか希望などの言葉より、そのような言葉で把握できる質の、再構成して把握する現実の残像のその再構成把握のその質を、その言葉でよりよく把握しているのであるとともに、その対象の実現への取組みの実践そのもののその質も、その言葉でよりよく把握できるから。

 
20160409
 憧れと、「今の試練をもはや勘定に入れないもの」にできるもの(ロマン・ロラン・・)、である喜びと、その充実である幸福に関して、子供の頃、あるいは青年の頃と同じように、憧れから、喜びや幸福は(実践的には)選択していくべきもの、あるいは作っていくべきもの、と把握できる?

 憧れも、やはり、体験の中の現実の対象であったものの、(心で)再構成をして把握しているその残像に関わるもの、なのだろうが。そのように・・。 (乳幼児でも、子猫たち、小犬たちでも・・それぞれの体験の中で・・。)

 (以上2段落は、4月7日にtwitterに投稿したツイートを、ここにコピー。)

 そして、当初は(その実践の出発点では)言葉を介してのものでしかないとしても、"憧れ"を、さらには"喜び"や幸福を、作り出して体験していくということは、過去の現実の残像の再構成把握をしていくことを通してそれが進められる場合であっても(それが基本的な場合[ないし方法]になるものだが、その場合であっても)、"今の現実の中のもの"として、今の現実の中に作り出されて体験されていく、そのようなものであるもの、だ。

 このことは確認されておいてよいと思われる。

 そのような、憧れや喜びなどを現実の中に作り、保持していくことが(その取組みが)、なぜか極めて困難であり、そしてその取組み自体もすぐに見失ってしまいがちでさえあるのは、"感覚経"とそれ以外の身体内の他の器官を含む身体全体のという意味での「体質的」なものを含むんでいるからだ、と把握せざるを得ないにしても。・・

 ("感覚経"は、諸感覚と、おそらく諸感覚の残像を−言葉を介してのものを含めて−再構成把握している"思い"を伴ってのその一つのありようである感情の要素を、おそらく欲求の要素の発生場所である"身体の他の器官"と切り離せないありようで持っている"ものである、という意味での"神経"。)

 この点で、子供の頃は、と振り返ってみても、余り変わっていない。後から振り返ってみれば、本当に憧れや喜びなのかと確認してみれば、そうとは言えないようなつまらないこと、に夢中になっていたということは、やはり今日でも、ある。

 実践的には、"それ"が、すなわち憧れや喜びなどをそのように"現実の中に"作り保持していくことを、見失わずに、言わば目覚めていて、継続していくことが、本当の闘いだとも言える。(のではないか・・。)

 
20160405
 単純に、本当に幸福そうな様子、という(それがその時間では、ほんのわずかなものであっても、その)現実と、その再構成把握残像と、"クオレ"などの作品の中のそれらは、それぞれ照らし合わせて選択されたり、検討されたりしていくべきもの。

 本当に幸福そうな人間たちのその現実の、その再構成把握残像を、再構成把握していくことが(それも)困難であるような時間には、例えば現実の"作品"(このような時間の場合、人間自身もその人間自身の作品だと把握できるとしてもそれ以外の作品になる、そのような作品)を手掛りにして。

 全面的に人間らしい=人間として全面的に美しい=いつも、本当に幸福そう。

 自分自身を含め、70億人又は60億人(70億×99%−α)の一人一人が、可能な少しのであっても勇気を出せていくように、そのように働きかけていくことも、"それ"は、実践そのものでもあるとも把握できるので、併せて。・・

 
20160402-2
 幸福の構成要素として欠かせない、よりよく幸福の(それがどんなにわずかなあるいはかすかなものであっても、また束の間のものであったとしても、その)現実の再構成把握残像を再構成把握していく、という要素を、(その要素以外の)現実(そのもの)の変革の取組みと並行して進めていくこと。

 より実践的には、徐々にでも、いつも、最良の、人間の or 特定の人たちの幸福そうな様子や、それを含む情景やその表情や、言葉によるものを含むそれらに関わる作品などの現実の再構成把握残像を再構成把握していけるようにしていくことの、その中で、現実そのものの変革の取組みをしていくこと。

 おそらく、偶然的な要素を待っているだけではないことになる、あるいは偶然的な要素を探しているだけはないことになる、そのような取組みを。

 
20160402-1
 "少年よ大志を抱け"(その卒業生たちに大きな影響を与えた旧制札幌農学校長、クラーク博士の言葉)に関わると自分では思われる新聞記事を、twitter投稿分のため、このホームページの中  "18歳選挙権「生徒の人格尊重」"  に掲載しました。

 これは、twitterの、「小谷行雄」のアカウント(@kotaniofc1)への私の投稿ツイートに関わるもので、「(地元の)山梨県の場合には、"大島正健"旧制甲府中学校長を介して、今も(おそらく)その言葉が校庭の石碑に刻まれている、"クラーク博士"のその言葉は、高校に入学した人たちにとって心のどこかに残っていて、」との趣旨を投稿したものですが、そちらのツイートも読んでいただければ幸いです。

 
20160208
 Home − 事務所プロフィール/アウトラインメニュー − 事務所の仕事からのニュースメッセージ に、2016-01-jwnm-no1-「起業・私的資本蓄積保持(お金を稼ぐことと確保していくこと・『社会貢献』など」を掲載しました。 

 
20160123-1
 「認識の総体」と「意味」について、前者は、対象となる事象の現実(現実の事象)の法則性を再構成して−実践的な観点から有効だと−把握できる、あるいは再構成して把握している、その現実の法則性の残像の総体であり、後者は、実践的に、「束の間のだけではないような幸福」を把握していく中でのその「有効性」である、と(その意味を)把握できる。

 一つ一つの「言葉」の意味だけでなく(言葉の意味はもちろん中軸的なものになっているのだろうが)、一つ一つの体験の現実の(相対的な現実としての、その再構成して把握する残像を含めての)事象 "things and/or matters"(出来事 "incidents and/or affairs")の意味も含めて。

 一つ一つの「現実の事象」又は「(現実の)言葉」の、意味の把握は、その時と時間における「認識の総体」を、より有効な、意味のあるものにできる、そしてしていくことができる、ものでもある。

 「なぜ?」そして「本当に?」と問うことと、その意味を把握すること、との関係は、前者は、事象又は言葉(文を含む)の意味を、言葉を通して把握すること、そしてそれを言葉を通して再把握すること、そのものである、というものになる? 実践的にこのように把握できる。

 
20160123-2
 一つの、あるいは一つ一つの、その取組みの結果としてのものであれ、そうだとは言えないものであれ、把握された「過去の試練をもはや勘定に入れないものである−そのような−喜び」は、その把握が−取組みの成果としてであっても−偶然的な要素を含むものであっても、あるいはまったく偶然的なものであっても、いずれにしても、再構成して把握されるその残像の素材になる。

 過去において把握されたそのような喜びについてもやはり、そうだ。−やはり、再構成して把握されるその残像の素材になる。

 より良い −すなわち、より意味のある− 現実の把握は、そしてその把握をしていくことは、上記のような素材を含めて、体験の中の現実の、一つ一つの、意味のある事象や言葉の意味を通してなされうる(実現されうる)。
 (この現実は、相対的な現実でもある、その現実を再構成して把握されているその残像を含む現実。)

 
20160123-3
 あらたに一つの言葉の意味を知ること(認識すること)も、−それはそれまでに知っている、その意味を把握している言葉の、その意味の総体を前提にしてだが−、実践的により「有効な要素」を獲得することでありうる。それは、「認識の総体」を直接により有効なものにしうることでもあり、また、さらにより有効なものにするための手段でもありうる。
 当たり前のような認識だとしても。

 「今の試練をもはや勘定に入れなくなるものでもあるもの、であるような喜び」という言葉の意味についても、「過去の試練をもはや勘定に入れないもの、であるような喜び」という言葉の意味についても。

 一つの、美しいと感じられる、あるいはつらいと感じられるような、「映像」の意味についても、同様に −実践的により「有効な要素」を獲得することでありうるものとして− 把握されうる。

 何よりも人を殺すためにのみ生きているように見える人たちのいた−そして、いる−ように見える世界の意味についても。

 「痛み」(広い意味では飢えを含む)については、基本的に休息と休養と、特に一定程度の呼吸補助の運動と、食物の獲得がなされなければならず、そのための取組み(仕事)が要請されているという意味を、そこから把握できる。
 今日では、医薬品や医療としてオペレーションなどが要請されているという意味をも、そこから把握できる。

 「仕事」の意味についても。

 今、ここに、こうしている意味についても。今は、闘うべきだ、という、また、少しでも「今の試練をもはや勘定に入れなくなるものでもあるもの、であるような」喜びが得られるのであれば、それを得て、さらには守っていくべきだ、という意味が、把握できる。

 (それらの一つ一つが、「認識の総体」になっていくものでもあり、より、「束の間のだけではないような幸福」に近づいていく、一つ一つでもありうる。)

 
20160123-4
 その、「闘う」は、その意味は、より具体的には?

 今は、以上の −何より20160123-3note− のような言葉で把握される意味。

 そしてさらに具体的には、「そうあってほしい人たちの、束の間のだけではないような幸福そうな様子」の、現実やその再構成して把握される残像を手がかりにして把握される、それを実現させていかなくてはならない、という意味。

 さらに、「そうあってほしい人たち」は、実践的には、思いの中のものを含む、一番身近な人たち、の意味。

 
20160117
 自分あるいは自分自身とは、現実には、あるいは実践的には、身体全体と切り離せない現実の感覚経の把握している世界の、その残像をも再構成把握できる、そして把握していることの多い、中枢を当然に含む感覚経(だと把握できる)。

 「なぜ?」、さらに「本当に?」を考えるのは、何より、目的への実践の有効性をより高いものにするためであり、そしてその結果によってそうできるかもしれない、と思われるからだ。

 それは、「どうすれば?」の問いの直接の「系」になる問いであり、また、実践によってよりよい結果を生じさせるために、その原因になるものを探す問いでもあり、それが把握できない限り、実践的に有効な結果は、基本的に−偶然的な要素によるのでない限り−得られない性質の問いである。

 そして、「喜びは今の試練をもはや勘定に入れなくなるものでもあるものだ」、そして、「喜びは過去の試練をもはや勘定に入れないものだ」と把握する、そしてできるときのような喜びを −相対的なものであっても− 把握している時と時間在りようは、それぞれの時と時間において、それぞれ一つの世界を把握している在りよう。「リュース」(ロマン・ロラン)がその物語の中で言っていたように。ポール・ニザンが、そして後藤健二さんが、その著作作品やその生き方を通して言っていたように。・・

 それぞれ一つの現実の世界と、心に描かれている、再構成把握されている現実の残像を(相対的な現実として)含めて。

 できれば、そのような喜びが何より中心になっているようなことが −相対的に 'miss' の状態のままでのものであっても− 把握されている要素を含めて。

 その一つ一つが、「今の試練をもはや勘定に入れなくなるものでもあるもの」(実践的にはそのようなもの・・)を、相対的にでも、選択して、獲得していって、変えていくべきものでもある、それ。

 ほとんど何も獲得していないと感じられ、思われる時や時間であっても。偶然的な要素も含めてであっても。−但しその要素は偶然的なものでしかないものとして。

 体験的に、幾つかの事例検討をしても、以上のように考えられる。その意味の把握がとても難しい言い方を含む、スピノザの「認識」の日本語訳を読んだ記憶も、これに含めて。

 
 
20160116
 Home − 事務所プロフィール/アウトラインメニュー − 亀鑑的な作品(splended pieces)・・ Note − 日本国憲法の誕生ウェブサイト − 本文頁へ のリンク先に、現状ではその末尾の言葉が、

 「(国連の軍事力[やはり「殺人−専用−機器力」]も、一人一人の人間を警備するための「警備力」のような力の範囲内のものにしていくべきだと考えています。それも具体的には、そのために、軍事力でなく、「自分をも、自分にも、人を殺させない」ための「警備力」の機器のその力の範囲内のものに、かつその力を行使するための範囲内の組織にしていくべきだ、とも考えています。」

 になっているところ、そのさらに末尾に次の言葉を付け加えました。

 「そして将来的に、この地球上の一人一人の、その大多数の人たちの、できれば基本的にすべての人たちの、認識に基づく生き方の選択によってそうなっているようにしていくべきだ、とも・・。(20160116さらに追記)」

 
20160115
 喜びは今の試練をもはや勘定に入れなくなるものでもあるもの、だ。?(「意味」以上に、また「忘れること」以上に。?)

 単純に。?

 
20160113
 それはさらに、おそらく、何よりも、精神的に一番つらい時や時間にも、その−「意味」以上に−「喜び」や「幸福」が、どんなに微かであったとしても−あるいは一番−、失われない(ことになる)ような、それ。これも、同じ対象を別の言葉で把握したものであると思われる、それ。

 さらに同じく、恋の −英語で表現してたぶん、"miss" の− 要素が一番含まれなくなる(あるいはなっている)ような、それ。

 
20160112
 「感覚経」−自分自身についてのそれ、から、(出発して・・)「そうあってほしい人たちの一番幸福そうな様子」は、子供たちのそれの方が、心に描きやすいかもしれない、多くの時と時間において。あるいは、子供たちのような「何か」をより把握できる人たちのそれの方が?

 そのように考えられる。その「何か」は、より具体的には?

 「子供たちのような」という言葉で把握されるもの(「何か」あるいは「それ」)?

 「子供たちの持っていると感じられるような友情」という言葉で把握できるもの? だ。

 それは、自分で、『ピエールとリュース』についてのノートの中でピエール(ロマン・ロラン)を引用して書いていた言葉、『他の、「彼」又は「彼女」たちも、本当はピエールの言葉 − 一度彼の食卓に迎えられた人たちにとっては、彼はいつまでも友達なんだ。− のとおりではないかと。』に関わっているような気もする。おそらく関わっている。

 「人間」の「命」にも?。喜びに、また幸福にも、もちろん。

 
20160110
 Home − 事務所プロフィール/アウトラインメニュー − 「亀鑑的な作品・・note」 − PIERRE AND LUCE 「ピエールとリュース」(チャールズ・ディ・ケイ英語訳版)− 「本文頁」 − の末尾へ、 「20160110 追加ノート (Additional recognition Notes)」を加えました。

 この頁の、20160108付ノートの、「 『ピエールとリュース』の中の、リュースの言葉のとおり。」に該当する部分です。

 
20160109
 一人一人の目の輝き、あるいはその代替的感覚と把握されるようなもの−「感覚経」の中枢の「輝き」を映しているとも把握できる、それ。子供たちの、子猫たちのそれ、のような、それ。

 大人になって、これを、より受け入れられる結果になるような、あるいはこれを否定する結果になるような、おそらくやはり感覚経の中枢での性差に基づく欲求や欲望や感覚に関わっている要素について、前者を選択していくことは、たぶん共通的に可能でありうる。言い換えれば、友情の方を選択していくことは、共通的に可能でありうる。

 人間は、そのような選択をしてきて、そのような幸福の方を選択してきている生物だと、考えることもできる。

 (昨日のnoteの認識に関わることとして、The Project Gutenberg EBook "THE ONE I KNEW THE BEST OF ALL"−「私の一番良く知っていた子[ バーネット自伝]」の、素敵なイラストをあらためて見て、またその部分のテキストを読んで。)

 
20160108
 現実の身体とその感受性と感じられるもの、の再構成把握残像たち、の、その一番幸福な、と把握できる時と時間の「それ」(・・その一番幸福な、と把握できる時と時間)、

 かなり、あるいはとても把握困難な対象でも、「それ」、

 「現実の身体とその感受性と感じられるもの」とは異なる画像(静止・動)と、音(これは動)と、テキスト(これは当然異なる)、などに関しても、上記の「系」として、これら画像や音やテキストであっても、これらの、素敵だと感じられる対象が、「なぜ」、「そう」(・・その一番幸福な、と把握できる時と時間のように)感じられるのか。

 素敵だと感じられる−たぶん、感覚に、あるいは体験の中にとても快く訴えかけてくる、とても美しいと言っても良い−その対象の、その「なぜ」は、不要な問い。

 『ピエールとリュース』の中の、リュースの言葉のとおり。

 「なぜ」を考えるのは、そして考えなくてはならないと思え、感じられるのは、それが良くないもの、素敵なものを否定する要素が含まれているから?

 だとしても、それらすべてについては、「なぜ」?

 現体験的に。

 「なぜ」一番幸福な時と時間が、それによってでは得られないの?、と問うていくことができるが、多分、であってでも(あるいは本当に微かにであっても)「確かに把握している」そう感じられるなら、その問いは不要になる。なってしまう。
 体験的に、そう思われ、感じられる。

 
20160101
 その相手を憎んでしまいそうな時、その相手の一番幸福そうな時間の様子を心に描くこと − 他の人たちのそれが同時的に把握されても、全然よいものとして。

 
20151230-2
 Home − 『電子テキスト又は画像の該当位置への「しおり」作成フリーソフト』 は、Firefoxのバージョンアップで、2015年8月17日頃から自動で使用できなくなっており、ダウンロードもできなくなっています。作者の方のhomepageでソフトも確認できますが、最近の更新がないようです。Firefoxのアドオン署名をして使用できるようにして頂けるとうれしいのですが。他に適切なソフトが見当たりません。当分、私の力ではテキストファイルかToDoリストなどに読み進めたページメモをしておくこと、に戻らざるを得ない状況です。

 
20151230
 20151229付けノートは、作品たち(pieces)の内容への思いが、より把握できていること(心に描き、思い出せていること、再構成把握できていること)の、その手がかりとして。そしてこの作品たちの内容への思いは、実現させていくべき目的・夢の素材であるものとして。

 
20151229
 心の中でそれを描く際に (「その残像を再構成把握する際に」) 、写真 (静止画像。イラストレーションなども含めて。) の、映画 (動画) に対応する位置は、フレーズの、物語全体に(あるいはその一部の段落に)対応する位置に、概ね相当する、と把握できる。そのように位置付けることができる。

 それ (写真の映画に対応する位置、あるいはフレーズの物語全体に対応する位置) は、心の中でそれを描く際のある旋律の、楽曲の全体に (あるいはその一部の楽章に) 対応する位置に概ね相当するものである、とも把握できる。

 それぞれ、前者が、後者を把握する (心の中で描く) 際の、有効な手がかりになりうる対象として。

 (たぶん多くの人たちにおいても、そのような取組みを実行している際の当たり前のような認識である、としても。)

 その写真や、フレーズや、旋律が、心の中で思い描かれた対象であるだけでなく、(相対的に) 現実的な、「写真」や、「録音された、あるいは書かれたフレーズ」や、「録音された旋律」であれば、より有効な対象として・・。

 さらには、それぞれ前者は、後者に対応する映画や、物語や、楽曲の、さらにそれらに相当する (あるいは対応する) 生(live)の 「現実」 を把握する (心の中で描く) 際の、有効な手がかりとしての対象にも、なりうる。

 そして、テキスト情報は、それら全てを個別的に 「指し示す (対象とする世界の中から特定する) 」 有効な手がかりにもなっている。

 一番上位の、また、その他さまざまな目的の、実現のための計画の作成や実行の場合であっても。

 (これらも、同じく当たり前のような認識であっても。)

 そして、これらの認識を、亀鑑的な(古典的・普遍的価値を持っている)作品が持つ (その作品が持っている)、自分自身の目的実現のための位置づけにもなる認識であるものとしても、把握できる。

 なお、それらの亀鑑的作品が、自分自身に現実に把握できた限りでのものであっても地球規模でのものであることが一番有効であるのは、自分自身に考えられる限りでのものであってもできる限り広い範囲からの選択になるものであって、より確率が高い選択対象になると考えられるからである。・・

 
20151226
 Twitter "@kotaniofc1" 20151226 返信tweet で引用をした  現実 (independent pressからの引用) の、その逆の、世界中で今も同じようなものが計画されていると考えられる 1956年USAでの核攻撃計画(「潜在目標は1200都市以上」・・) の、その現実に対比しての意味。?

 
20151225
 具体的・直接的なその手がかりとしての、できる限り同時の、「そうあってほしい人たちの本当に幸福そうな様子」と「人間として、全面的に美しいという要素」。

 
20151219
 一番上位の目的は、本当にほんの少しの幸福であったとしても、束の間のものだけではないような幸福を獲得していくこと。当然、一番つらいこと(たくさん在る)を避けることではなく。

 
20151216
  幸福に関わる、「美しい」という言葉で把握されるその対象が、ほんの少しのものであっても、幸福に関わって美しい(「感覚に快く訴えかけてくる」)のは、なぜ?(その実践的な意味−有効性−は、何?)

 生地の要素と、基本的に認識に基づく、その対象の把握の体験の、たぶん積み重ねの要素とが合わさってのものだろうが、当然に感覚経を含む自分自身の身体の中に「それ」に対応する要素が在るから、ということは、把握できる。

 子猫たちの好奇心、幼児たちの好奇心の対象が、その子たちの生地のその要素に対応するものであり、その子たちの身体の中にそれに対応する要素が在ることと同じように。

 (この、子猫たちの場合、幼児たちの場合には、「好奇心」の対象だが。この場合でも、幸福に関わって「美しい」という言葉でその対象を述べてもかまわないのかもしれないのと、特に言葉を介しての要素が決定的に欠けているので「認識」に基づくものとは言えないだろうが、その対象の把握の体験の積み重ねで、より「束の間のものだけではないような」それを把握することへの力が基本的に付いていくこと、については、把握できる。)

 「幸福」そのものについても、同様なことが言えるのだろう。それに対応する生地の要素と、基本的に認識に基づく、その対象の把握の体験の、たぶん積み重ねの要素とが合わさってのものだろうが、当然に感覚経を含む身体の中に「それ」に対応する要素が在るからだと。

 それらの対象の把握が、本当にほんの少しのものであってでも、「束の間のものだけではないような」ものになっていくためには、自分自身の身体の中のそれに対応する要素を、基本的に認識に基づく、その対象の把握の体験の、たぶん積み重ねのような取組みをしていくことが、有効だと言えるだろう。これも、当たり前のような認識として。

 個人間での喧嘩但し下記のような定義でのそれ)についても、さらには、「国家間」での戦争についても、同じようなことが、言えるのではないか?

 一人一人の個人の、たとえわずかなものであっても何より束の間のものだけではないようなその幸福な人生(生活)の獲得と保持を一番上位の目的にするものであることを前提にして、国家間での戦争の場合でも、その戦争に賛同し、それを権限を持って指揮し、それに従事従軍する一人一人の個人において、戦争におけるその相手方への攻撃は(防衛という言葉によるそれを含めて)、その目的の実現のためには役に立たない−意味のない−ものであることの認識(戦争を通しての資源の「私的資本」化や人間の奴隷化がすでにその目的のために役に立たないものであることのそれを含む)を同じく前提として、

 個人間での喧嘩についても、さらには「国家間」での戦争についても、いずれの場合も、憎しみや怒りに「駆られて」か、又は冷静に遂行される場合でも、錯覚とそれに基づいてその対象の再構成把握をしている残像(妄想)に基づいて行われているかだと考えられるが、いずれにしても、一人一人の個人の一番上位の目的のためには役に立たないものであることの認識を得て、それらを−喧嘩や戦争を−排除する体験の、積み重ねのような取組みをしていくことが、有効だと。

 ※ 戦争とは集団的組織的な殺人実行行為である、と定義して把握するその対象のこと。つまり、防御だけの場合、あるいは、防御とその相手を殺さないでその攻撃力を抑えるだけの反撃をする場合(限りなく軍事力に近い武器が使用されるものであってもその範囲のものである場合、現状では警察あるいは警備と名付けられているものとしての反撃の範囲のものである場合)を含まないものであると把握する。

 ※ 喧嘩とは、戦争とは異なるものであるか、戦争である場合も含むものとして、その相手からの反撃を予測して、殺人や傷害や、その他言葉や態度や振る舞いによってその、基本的に人間である相手を傷つける攻撃をする行為である、と定義して把握するその対象のこと。つまり、防御だけの場合、あるいは、防御とその相手を殺さないでその攻撃力を抑えるだけの反撃をする場合、を含まないものであると把握する。

 (現在時点での、しかしやはり当たり前のようにも思われる認識。)

 
20151215
  言葉を介してでもよいものとして、幸福に関わる現実の再構成把握残像を含む美しい対象を、たとえほんの少しのものであっても束の間のものだけではないようなものとして把握していく取組みを、朝目覚めてから次の朝目覚める時まで、継続的に一番上位の目的としていく。

 一番上位の目的とするとは、そういうこと−朝目覚めてから次の朝目覚める時まで継続的にということ−でもある。その目的は静止した状態ではなく、また、実践あるいは取組みを含むものなので、そのようなものでよい。・・

 実践的・具体的には、それが必要で有効であると感じられ思われる時と時間には、言葉を介してでもよいものとして、その目的の再構成把握をしつつ、その時と時間におけるその選択をする具体的・実践的な取組みを進めていくようにして。

 (20151212付けのノート・メッセージ[ツイート?]の補完。今の時点での。)

 
 
20151213
 ペギー葉山さんの歌っている「学生時代」の歌詞の中に、「賛美歌を歌いながら、清い死を夢みた」との言葉があって、このことについて考えてみて、死はすべて−誰の、どのような死であっても、穏やかな死であっても− '清い'ものではなく、'醜い' −と言ってわるければ、つらい− ものだと思うけれど、'そうであって欲しい人たちの幸福のために' の死である限りで、たぶんその限りでのみ、限りなくそれに近いものになる、のかもしれない。・・

 
20151212
 一番上位の目的を、その残像を、できるだけ言葉を介してでなく、再構成把握していく、その中でその実現への具体的な残像を、これもできるだけ言葉を介してではなく、再構成把握していく、その結果、成果としての実践を。言葉を介して、は、その補助として。

 単純だけれど困難な、あるいは、困難だけれど単純なそれを。

 
20151207
 自分自身の「運命」との闘いの、その在りようの必要で有効な、実践的な「厳しさ」の実現は、これも、その目的の(再構成把握)残像の再構成把握に基づいて、であるべきであるとともに、さらに、その再構成把握と、それに基づく実践については、その目的に対して、実践的にはそれに繋げることになり、その結果としてはそれに繋がることになる、「その実践そのもの」の(再構成把握)残像の再構成把握にも基づいて、であるべきだ。恒常的に。なかなか、あるいはとても、自分では困難なことなのだけれど。

 これは、大まかに言えば、いつもその取り組み方・闘い方の具体的なイメージも把握しつつその取組みを進めていくべきだ、というようなことになる。その効果として、何よりたぶんそれが欲しい、目的を見失ってしまっている時間がより少なくなる、という有効性もあるのではないか?

 「起業して、とても成功した」人たちは、たぶん、そのことに関してこれを−私自身の認識だが−継続的に実践しているのではないかとも、思われる。稲盛和夫氏の著作の幾つかの記述の記憶を思い起こしてみても。

 
20151205
 体験している現実への影響効果のための「(再構成把握)残像の再構成把握」に関して、その対象(になるもの)の再構成把握についても、「その対象の現実の在りようとしてのその周辺の対象をも含む在りよう」として把握するようにしていく、べきではないかと考えられる。その方がより把握しやすくなり、把握して居やすくなるだろうという点だけから、であっても。

 言葉を通しての−つまり、現実の発声を伴って、でも、再構成把握残像としての、であってもよいが、言葉を(思い出してでも、作品を現実に読みながらでも)述べること、あるいは記述することを通しての−、その言葉で表現される(再構成把握)残像を再構成把握することの影響効果に関して、次のような言葉が一つの参考になる。

 「人間がもはや、夢を見ることが要らなくなるような時と時間を想像すること」(ポール・イブ・ニザンの小説作品『陰謀』の中の、「日記(手帳)」の中の言葉から思い出して。)−束の間のものだけではないような、それ。

 ※ ここでの「夢を見ること」は、希望としての「(再構成把握)残像を再構成把握すること」、「想像すること」は、単純にその「(再構成把握)残像を再構成把握すること」。

 その、現実の実際の取組みの選択は、これも「考えながら」(つまりその取組みの実際の選択についての「(再構成把握)残像を再構成把握することを実行しつつ」)である。・・

 過去分
 
Homeへ戻る。