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このサイトのもう一つのメインテーマ(素材ノート) 過去分 (本文) (但し、20050108からのノート)



20151129-2
 身体と精神の両方の「健康」と、『「感覚経」によるその「制御」』との関係について、前者は、後者によって基本的に(つまり、恒常的な実践の観点からは)なされていくべきものだろう。自分自身の場合での実験的・経験的な検証結果として。
 (「関係筋」の、とか「姿勢」の制御というより。・・姿勢については、アンリ・ワロンがとても重視していた機能なのだけれど。少なくとも自分自身の場合では、なのかもしれない。)

※ 上記の「健康」は、実践的に、病気に罹っているその時間的・強度的割合が多くないこと、と定義してのそれ。「感覚経」は、当然、中枢も末梢も含むそれ。「制御」は、認識に基づくものを当然に含むそれ。

 これは、日々の食品(栄養剤などの名前のものを含む)や医薬部外品・一般医薬品などの使用選択などだけではなく、(突然の強度の苦痛が生じたような場合を除き)疲れを感じているようなときにであっても外部呼吸の補助的な制御は行っていくべきこと、などについても。(休息は闘う力の回復のためのものだが、休息の一部−あるいは休息のその制御−としての外部呼吸の補助的な制御も、回復のための取組みになりうる。)

 このこと−休息の一部としての外部呼吸の補助的な制御−は、自分自身の場合、必要で有効であると把握でき、体験的に一応検証済になっているものだが、それを、補助的な制御として、というのは基本的にはそれについての自律的な機能が少なくとも身体内に備わっていると既に認識されているため。多くの人に共通して、なのかどうかは、よく分からない。



20151129-1
 他の、共通的に基本的な経営に関する認識と、そして各経営組織にとっての基本的な必要で有効な認識を踏まえてのものということになるだろうが、「経営での基本的な『数値』目標達成」(下記※(1))という要素は、特に、その経営組織を取り巻く経営に関わる環境の「不況」(下記※(2))の時期には極めてシビアな(厳しいと言える)要素であって、その数値目標を「倒産」と呼ばれる状況になるまで達成できないような状況が生じる場合には、−具体的には、最終的に手形決済不可の連続、ローンの支払の何か月かの不可の連続、などのような状況になる場合には、その時期には「信用」(下記※(3))も当然枯渇しているのだが、−"恒常的に" それが−経営上での数値目標達成が−人生で一番上位の目的になるべきものではないか?と考えることにもなる。

 しかし、これ−つまり、"恒常的に" それが−数値目標達成が−人生で一番上位の目的になるべきものではないか?−については、まず、その、なぜ?については、「それが達成できなければ、他の人生の取組みの成果もすべて破壊されてしまう」ようなシビアな要素を持っているから、ということになる、のかどうか。

 たとえば、最終的に手形決済不可の連続、ローンの支払の何か月かの不可の連続、などのような状況になる場合には、「他の人生の取組みの成果もすべて破壊されてしまう」ような事象が発生することになるのは、本当なのか?

 今日、最小単位での経営組織、つまり各個人単位での経営組織のその経営の実践という観点からは、誰の場合であっても、基本的に(人間としての友情の要素を決定的に裏切るようなことがない限り、及び、少しでも人生の中での喜びや幸福を得ようとする取組みを諦めきってしまわない限り)、経済的な要素の成果が、その人間の身体と精神の中に蓄積されているその成果を除いては、生きていくのに必要で有効な最低限度に近いものになることがありうる、ということ、そのこと自体もその前の経済的要素と比べればシビアなものに感じられるものだが、それがありうるということ以外、何も破壊されない。
 (但し、日本の場合、及び基本的に地球規模での各地域での、戦争の行われていない地域の場合。)

 しかしさらに、そうだとても−その人間の身体と精神の中に蓄積されているその成果を除いては、生きていくのに必要で有効な最低限度に近いものになることがありうるということ以外、何も破壊されない、としても−、従業員、取引先など関係者の経済的な要素の成果を破壊してしまうということがありうるのではないか?については、人間としての友情の要素を決定的に裏切るようなことがない限り、及び、少しでも人生の中での喜びや幸福を得ようとする取組みを諦めきってしまわない限り、相互的なものであると−相互に相手方の状況と立場になった場合のことを考えてみて、そのように−把握できる。

 さらに、もう一つ、そのような、その数値目標を「倒産」と呼ばれる状況になるまで達成できないような状況が生じる場合というものは、経営環境の変動によっては、特に変動の激しい地球規模でもそうでありうる今日の経済状況の中では、経営組織としては、その資本蓄積を一番上位の目的としてその実現に取り組んで行くべきではないのか?について。

 これについては、何よりまず、その経営組織が個人でない場合には、そうであるかもしれない、と言えるのかどうか。

 これについては、これについても、その経営組織の中に所属する個人経営組織として、他の経営組織の中に所属する個人経営組織としての人間に対して、「その人間としての友情の要素を決定的に裏切るようなことがない限り、及び、少しでも人生の中での喜びや幸福を得ようとする取組みを諦めきってしまわない限り、相互的なものである」と把握できる、その結果・成果としてのその所属する経営組織の資本蓄積や保持であるものとして把握し、取り組んでいくべきだ、と考える。・・・
 
 ※(1)「経営での基本となる『数値』目標達成」とは、今日、目標とする、基本的に、一番短期のものでは1か月を、業種によっては四半期又は半期を単位の一つとし、合わせて1年を単位の一つとし、さらに最低3年程度の数年を単位の一つとする、それぞれの単位期間末日でのその経営組織の資本の確保の数値目標達成ということだと把握できる。但し、これも一つの把握例にすぎないかもしれない。

 ※(2)「不況」は、その経営組織の売上高の相対的減少の原因になる、基本的に主力商品の有効需要の、その経営組織の市場での相対的減少。おそらくこれが中心的なものだと考えられるそれ。

 ※(3)「信用」は、経営組織の主力商品の供給事業を継続してその対価を得ていくために必要な、さらには有効な、「負債」の負担能力であると把握できるその経営組織のその時点での力。資本の構成要素の中には、言い換えると貸借対照表の数値とその明細表示としては表示されていない、と把握される力。
 おそらく、具体的には、上記※1の「経営での基本となる『数値』目標達成」を、その経営組織の決算書類のデータに対して何かの要素−おそらく基本的に家計としての個人を含む他の経営組織からの金融(借入金)債務の支払意思とそれを実現される力の表示がそれによって測れることになるような要素、具体的には検討して見出さないとならないが、そのような要素−を加えて測られるような力。



20151128
 「悲しみを分け持ち支え合う」という言葉、時折耳にする言葉のこの意味は、これも、考えてみると、そのこと自体が、ごくわずかな、かすかなものであっても、自分にとって、そしてその相手にとってもおそらく喜びと感じられるから。当たり前な認識なのかもしれないが。

 関連して、その周りの人たちをできるだけ傷つけないようにという条件の中で、身近に居てより幸福に生きられると互いにそのように感じられる、と思えるような人たちの身近に居るように、文学作品その他の作品を経由しての場合を含めてその再構成把握残像の再構成把握という面を含めて、そのように生きていくことも、意味がある。これも、おそらく朝から次の朝起きるまでの時と時間で。


20151121
 「幸福な家庭は、似たり寄ったりだが、不幸な家庭はそれぞれその不幸の内容が大きく異なる。」(レフ・トルストイ 『アンナ・カレーニナ』の冒頭の句。日本語訳を思い出して)について、その逆も考えられるのではないか?

 「幸福な家庭の、その幸福の在りようはそれぞれ大きく異なっているが、不幸な家庭のその不幸は、その家族の悲惨な死を含めて、似たり寄ったりなのではないか?」と。

 それぞれの、その時と時間の在りようとしては、"そう" なのではないか? あるいは少なくともそうでありうるのではないか?

 それぞれ、幸福だと受け入れられる、そしてその不幸を受け入れられない、その時点では? それぞれ、実践的には、 "そう" なのではないか?と・・・



20151114
 その、「体験の現実」は、「感覚経」が把握している、身体を、「束の間のものだけではないようなもの」としては基本的なものとしている現実。

 その体験の現実に、一番の、と思える或る意味(有効性)の在る効果を持ちうる、さらにはそこからそれらを『実現』させていくべき、現実を何らかの在りようで再構成して把握する残像としての、「限りなく愛情に近い友情」、「そうあってほしい人たちの幸福な様子」、「人間として全面的に美しい人間に少しでも近づける」などの残像は、一緒のものとして、であるべき。

 自分自身の「経営」という「発見又は創造」も、その(束の間のものだけではないような、ほんの少しのものであってもよい、そのような幸福の)「発見又は創造」の一つとして、(位置付けにくいけれども、位置づけることが困難なのだけれども)把握するべき。



20151113
 (例えば、自分のホームページにupした作品の)どれから、手がかりにして、「発見又は創造」を?

 再構成して把握する「それら」の残像から。

 なぜなら、おそらく、それが自分自身の、その残像を把握する直前の要請だから。そして、それに素直になることになることだから。さらに、そのような要請や把握は、何時でも、瞬時に方向づけや選択ができることだから。



20121112
 体験の現実と、それを何らかの在りようで再構成して把握する残像との関係で、その後者は、前者に対して、それを把握すること自体で或る効果を持ちうる。

 その現実が受け入れやすい時や時間でも、その逆の時や時間でも。

 言い換えて、現実の受け入れやすい要素の密度の高低と、受け入れがたい要素の密度の高低との、その総体に関わる時と時間の、いずれの時と時間の中でも、と言ってもよいと思われるが。

 「このようにしたい」という現実のものであるような或る要請は、再構成されて把握される或る残像を、例えば、「ほんの少しの、でも、喜びや幸福を、現実の中に、その残像の把握そのもので、持ち込む効果を生じさせる」ように、そのようにそれを把握することによって、その直接の効果としてだけであっても、意味が(有効性が)在り、あるいは意味が在るが、

 さらには、例えば、限りなく愛情に近い友情に近い友情を示してくれた、あるいは示すことができたその現実の、再構成して把握する残像や、

 世界の中で一番美しいと感じられるものの一つである、「そうあってほしい人たちの幸福、あるいはその表情や姿勢」という言葉で把握される、何らかの現実の対象の、再構成して把握するかすかな残像や、

 「全面的に人間として美しい人間に近づけるように取り組む」という言葉の把握を通して把握されるその対象としての再構成して把握する、やはりかすかな残像、などのように、

 そのような、「それぞれ意味(有効性)のある、再構成して把握する残像の、その把握そのものによる現実へのその効果を、さらに、超えるような、その残像の、いわば『実現』」への取組みとして、

 そのために意味のある、現実やその残像の中からの、発見(現実のものとして、だろうが、見つけ出すこと)、あるいは創造(現実の中に、だろうが、作り出すこと)に取り組んでいくこと。

 現状では、ひたすら。

 「地球規模での世界を少しでも変えるという取組み」は、その結果あるいはその効果としてものでもよいものとして。

 これに関しては、さらに、現実の作品を「読み直し、見直し、聴き直しなど」をしていくことだけでも、現実の中のものとして、少しでも超えることになるようなものを、見い出し、発見していくことや、現実の中に作り出し、創造していくことに、経験的にも、実践的にもなりうるし、また、再構成して把握した残像の、さらに、の、再構成把握も、その直前の再構成把握残像の現実に対する効果を超えることができるものとして、とても困難なことであっても、これも、経験的に、できうる。(その効果が零ではない、と言える。)


20151111
 その質の在りようとしての、限りなく愛情に近い友情のような友情の要素の、基本的に再構成把握残像を、何よりも一番の、ほんの少しのものではあっても喜びや幸福として、それも、他には無い、と考えられるということも含めて、得やすい対象としていって、束の間のものだけではないような幸福の在りようを発見し又は創造して把握していくように、という取組みの仕方は、現状、それ以上のものは無いと考えられる。・・・? そのように考えられる。

 そして、自分自身を人間として全面的に人間らしい人間に近づけるという取組みの位置づけとの関係は、これは、この後者の取組みは、前者の取組みをその一部にそのまま含めての取組みの仕方である、と把握してよい? 間違っていたら、その時点で直せば良い。



20151110
 既存の手持ちの作品からの、認識だけでなく、認識を含めても良いが発見又は創造(の対象)そのものの、把握を、ほんの・・少しのものであっても喜びや幸福の把握そのものとして、していく取組みを。
 (自分自身での新たな認識は、もちろん、自分自身に対する新たな発見又は創造であるものだが、それとたぶん同じように、認識だけではないような発見又は創造(の対象)の把握を・・。)

 認識を含め、発見又は創造(の対象)を、言葉にすること、言葉として書くこと、何かに描くこと、などの、それらそのものも、把握であるものとして。

 その結果として、書かれていく言葉などが残れば、それはそれで意味があるものになるかもしれない、ものとして。



20151107
 ほんの束の間のだけではないような喜びあるいは幸福の獲得のために、それへの「思い」の「系」として、それが得られる結果になる対象や作品の、体験の基本的に現実の世界の中での発見や創造が、「ほんの束の間のものだけではないような」ものとして、必要であり、かつ有効であるという認識が導き出される。あるいは把握される。

 ほんの少しのものであっても喜びの、あるいは幸福の、一番の対象あるいは作品は、その時、その時間においては、それ自体が困難な取組みの結果であったとしても、得られており、その「系」として、何が、基本的に一番の対象として、あるいは作品として、有効で必要かという実践的な課題への回答としての認識として。・・
 
 そして、このことのために、他の取組みは、二次的な目的になる、つまり手段になる、かつその、二次的な目的としての他の取組みは、一番の対象あるいは作品へのその「思い」と離れない、それを切り離さないものとして取り組むべきものになる、と把握できるのではないか?おそらく。一瞬でもそれから離れたくないというその思い、に忠実に、ということ・・。

 (「思い」は、再構成して把握される、その相対的な現実の対象の残像であるとともに、それと分かちがたいものとして働くそれの実現への意志あるいは欲望あるいは欲求などと呼ばれている、自分自身の中の、基本的に「感覚経」に宿る或る働き [exertion] 。−ここでの取りあえずの把握として。)

 (「感覚経」は、神経の意味であって、その中枢も末梢も含む。自分自身で感覚し、その感覚で把握した現実の対象の残像を自分自身で再構成把握したり、自分自身のおそらく基本的に身体の他の部分から発する欲求や欲望をやはり感覚したりして把握し、自分自身の身体の、特に筋肉を働かせようとする欲求や欲望や意志をやはり感覚し欲求し欲望し実践しようとする、などの働きは、このような言葉で把握する方が、より適切に把握していくことができると思われるための言葉。事例的に、感覚で把握した現実の対象の残像[その現実の対象そのものとは異なるものであるそれ]を、再構成把握して活用するような働き [言語によるものを含めて知的な働きとはこのような働きだと把握した場合の、いわゆる、知的な働き] において中枢の働きが主導的なのだとしても、特に感覚そのものや、欲求や欲望の発祥が末梢のそれと切り離せないものとしてのものだろう、という意味も含めての。・・・)

 自分自身では、新たな認識として。



20151101
  "その" 直接的な "系" (連続的に関わってくるべきもの)として、体験の中の残像としての現実(であるもの)のそれを含めての、友達と思える人たちへのその友達(だよね)という思いを、涸らさないように、絶やさないように、目覚めさせて続けていくようにして、その取組みを(試練の要素を含んでいるという意味で闘いを)進めていくということが、出てくる。

 そして体験の中でのその時間の密度と、さらにその時間の中でのその効果の密度を高めていくということも。



20151003
 人生の時と時間の中で、何を選択しあるいは何を作っていくか、いつも考えながら"そう"していくこと?

 ポイントあるいは焦点になるのは、恒常的には、それによって体験のすべてが打たれる結果になるような美しい(pure・・・?)対象を体験の中に獲得していくこと?

 それはおそらく人間として可能な限り全面的に美しい人間になれるように取り組むという生き方を含む?
 (「人間として可能な限り全面的に美しい人間」は、他にも言っていた人はいるのでしょうが、ポール・イブ・ニザンの小説作品「陰謀」の中から、その趣旨を引用しての言葉。)

 それも、自身のすべてを、他者の、それが何より必要な人にとってのその幸福(と把握することのできるもの)のために"も"、役立たせようとするような取り組みを、いつもその要素として含むような?後藤健二さんがデスクに貼っていたと伝えられる「メモ」の言葉も参照して?

 「メモ」の引用をさせていただきます。
『「わたしをお使いください」
主よ 今日1日貧しい人や病んでいる人々を助けるために
私の手をお望みでしたら今日わたしのこの手をお使いください
主よ 今日1日友を求める小さな人々を訪れるために
私の足をお望みでしたら今日わたしのこの足をお使いください
主よ 今日1日優しい言葉に飢えている人々と語り合うために
私の声をお望みでしたら今日わたしのこの声をお使いください
主よ 今日1日人というだけでどんな人々も愛するために
私の心をお望みでしたら今日わたしのこの心をお使いください』

 私としては、そのメモの、「主よ」は、より「可能な限り人間として全面的に美しい人間、あるいは、その人たちの生きている、そして生きていく世界」への夢でもあるものとして把握して?
  (短縮して、「友よ」と言ってしまってもよいものとして?)

 自分自身"も"、束の間のだけではないような幸福に生きるために、でよいものとして?

 すべてをこの夢の実現のための基準で選択していってよいものとして?

 たぶん・・・。但しそれぞれ実践的な検証を。・・・



20150923-2
 生き方の選択として、(心の中のというより)体験の中の思いの対象を、一人の人間として、現実の、家族や、近所や同じ地域の人々や、職場の人々や、参加するグループの人たちや、友人として互いに選んでいると思われる人たちなどとの、さまざまな付き合いのあることを前提にして、全面的な人間らしさ−人間として全面的に素敵な・美しい[・・・]人間−に、自分自身でもほんの少しでも、少しずつでも、より近づけていけるように取り組んでいくことは、自分自身でそのような思いを持てる(ことにもなる)ということだけでも、意味がある。
 (たぶん何よりそれによりそれらの人たちの中での、人間としていろんな面で素敵な・美しい人たちだというその現実の体験そのものや、その思いがより強く重ねられてくる−そして重ねられていく−ということも合わせて含めて。)

 その人間は、大げさに聞こえても、世界規模・地球規模での共通的なものであるそれとして。

 考えてみて、それ以上(の規模)ではない、と思われるということもあり、また、今日、世界中の一人一人の体験あるいは心の中の思いの中に、それは否応なく(この漢字は基本的に「いやおうなく」と読むようです。これまでいつ頃からか「いなおうなく」と読んでいました・・。)把握されているか、急速によりそうなっていくものでもあるので。

 その中でさらに取り組んでいく、さまざまな仕事についても。

 ここでの「美しい」とは、「感覚に快く訴えかけてくる」という、大野晋さん・浜西正人さん編集の「類語国語辞典」(角川学芸出版)での意味に、できれば「体験全体がそれによって打たれているくらいに」という副詞あるいは形容詞を付けた意味として。

 また、ここでの「人間として」という言葉も、(以上の繰り返しを含めて)「人間として可能な」、かつ、「今日・現在時点で、地球規模で共通的なそれとしての」という形容詞あるいは副詞を付けた意味として。



20150923-1
 行動する際の判断の基準としての認識に関して、大人になってきてそしてさらに歳を経てくると(そして、大人になっていってそしてさらに歳を経ていくと)、その中で体験したこと、体験すること、体験していくことについても、自分の中に、そのさまざまな行動する際の判断の基準としての認識に関わって、何らかの在りようでそれが「積み重なって」くる、そして積み重なっていくことになる、と思われる。

 そして、その人の生き方あるいは生活上のさまざまな事柄に関する行動をする際の判断の基準としてのそれぞれの時点での「認識の総体」についても、それ−その体験したことが積み重ねられてきたこと、積み重ねられていくこと−に基づいて変動してくるし、変動していく、と思われる。

 また、歳を経て来ると−そして経て行くと−と、その人自身の若い頃と比べて、新しい体験が、本当はその割合は変わっているはずはないとも考えられる(すべてが新しい体験であるはずである)のに、そうではないように思われ、感じられるようになるのだろうか。

 前段のことについて一つ言えると思われることは、当たり前のことでも、歳を経てくると−そして経て行っても−同様な体験が何回か、あるいは何回も出てくる−と思われる−ということ。単純な繰り返しではないことは明らかだが。何らかの生き方の選択をして生きている時や時間においても。

 その、同様な、とは、生活上の、あるいはさらに幸福に生きるという観点から、そうである−同じくらいの有効性を持っていると把握できる−という意味。

 このことは、それが−その、同様な体験が−(その時点で)以前より、より有効性を持つ体験として把握されるようになってくれば、それだけでも、束の間のだけではないような幸福を得て生きていくという目的のために−その実現のために−その限りでも「達成」ができたということになると把握できる、ということを、あるいはその可能性を示している。 ・・



20150917
 直接政治に関連する事象とは把握しにくいけれども、おそらく共通的に幸福に生きるという点からみて有効と思われる、可能な限り人間として全面的に−なぜか使いにくい言葉でも−美しい(pureな?)人間になるという各自の取組みの、その思いの対象は、その思い−たぶん現実を再構成して把握している残像−の中にだけでなく、現実の体験の中にも、現実の人々の−生身の人間の−表情や姿形や行動のそれも、人々の作品−小説作品・絵画作品・音楽作品・彫刻作品・写真作品など−の中のそれを含めて、在るものである。

 子供だと、私自身の理由付けとして、たぶん生物的な−生物としての−特性として、その存在自身で、人間として大抵−戦争や貧困などにつきまとわれていない限り(それらの在る限り美しいと感じにくくなってしまうというような意味で)−とても美しい。

 大人の場合、できる限り、基本的に何らかの、これも基本的に何らかの仕事−その場かぎりものではないような取組み−を、真剣に−できる限りの要素を注いで−している時や時間の方が人間として−−美しいように思える。

 この理由は、それが、望むもの−夢や希望や未来−に向かっての取組みだから、なのだろう。(子供の場合、遊び自体が、見習いの−学習の−要素を含めて、仕事。)

 その望みの内容は−あるいはその夢は−、その人(子供、あるいは大人)たちが、その人(その子あるいは大人)自身でどのような−−素敵な体験を(作品のそれを含めて)何よりも現実にしてきたか、そしてしているか、に基づいている。

 これらのことは、政治の取組みの強力な動機にもなるものだ。



20150916
 政治に関連する事象の中からの有効なまた必要な法則性の探求と検証の取組み。

 まず、「嘘が永遠に続くということはない」という言葉があり、だまされている人間のさらにの嘘を含めて、嘘は一人一人の人間が作るものなので、「そう」だと考えられる。

 逆に、自由な討論を前提にする限りで(そのために勇気が必要で有効な時が少なくないとしても)、自由な討論が進むことにより、人間に共通に有効で必要な−たぶん、論理的に言えば「正しい」−認識は、いずれは人間たちの多数を獲得していく、ということも。(「嘘」、には直接関わらないことだとしても。)

 次に、身近に、戦争(組織的集団的な殺人実行行為。それを無くすための定義−対象を限定するための言葉−としてのそれであって、テロリズムでのものなどを含むそれ)と、貧困(何よりも死に至る衰弱を引き起こすような、飢え、寒さ、暑さ、過労などであるものとしてのそれ)の、自分自身での直接体験や、見聞や、直接体験あるいは見聞したものへの思いがなくても、それらを持たざるを得ない時の出現の確率−蓋然性−は、グローバルな世界のどこに居ても、現状で、共通的に零又はそれに近いものではなく、意味のあるものであると言える。

 かつ、それら戦争や貧困を廃絶することができる蓋然性も、零とは把握されない。

 人間の一人一人が−少なくとも大人たちの一人一人が−それら戦争や貧困を廃絶するための取組みをしていく−挑戦をしていく−こと、それも政治的な取組みをして行くことは、共通的な取組みになりえ、また、共通的な取組みであるべきだと把握できる。

 たぶん、それぞれ、当たり前のようなこととして。・・・



20150915
 政治は、グローバルな世界をその最大の一つとする入れ子的な構造を持つ各地域で生きる基本的にはすべての大人が、その共通認識あるいはよりそれに近いと思われる認識に基づいて、すべての人が互いに共通に可能な限り幸福に生きるために、経済を中軸的あるいは必須的なものとしてのその社会生活全般に関連することとして、そのすべての人一人一人が、その各地域において守り、そして守らせるべきその行動の規律を、その代理人あるいは代行人を選任してすることを含めて定め、そのようにして定めた規律を守り、そして守らせるために行う行動の総体と把握することができる?

 ここでの共通認識は、それぞれ他者も同様な認識を持っていると把握できるその認識。

 また、政治も経営及び経済と同じく、法人その他の団体に入れ子的にあるいは複層的に所属することがあっても、その最小構成単位(主体=主権者=統治者)は各個人である、と把握できる。

 それぞれ、それを現実に作るための把握、としてでよいものとして。



20150912
 戦争(組織的集団的な殺人実行行為。それを無くすための定義−対象を限定するための言葉−としてのそれであって、テロリズムでのものなどを含むそれ)を、今後の人間たちの取組みとして無くすことができるのかについては、現実には絶望的に困難だとしても勝率零とは言えない。

 但し、戦争することによってそれを無くすことは、核戦争などで人間が殺し尽くされた結果としての場合を除いて、有り得ない。

 常に「防衛」力という名目で拡大されてきた軍事力(戦争実行のための機器の能力とそれを使用する人たちの戦争実行の能力)の強化によって−戦争を無くせるなどとは考えないにしても−戦争を実行する抑止力になると考えるその思いの結果についても、現実には、核戦争などで人間が殺し尽くされた結果としての場合の戦争の−抑止力の増加というより−消失ということでしか実現され得ないのではないか?

 戦争を無くすことができるとすれば、戦争実行や軍事力強化以外の、貧困(ここでは死に至る衰弱を引き起こすような飢え、寒さ、暑さ、過労などであるものであって、軍事力の構成要素としての兵力の確保とその強化の有力な要素になるものとしてのそれ)や、貧困にも−貧困の結果としての一般的な教育水準の格差(だまされやすくなっていること)に基づいて−結びついていると言える差別(ここでは憎しみの対象として選択している一定の他者に対する人間に満たないような劣等者だとの思い)や、同じく貧困に今日では直接結びついていると言える、生き方としての一番の目的として選択していく私的資本蓄積の、それぞれ、教育や認識に基づくものとしての、政治的な−民主主義的な−選択によるものを含む廃絶や、それらのための一般的な教育水準の格差の縮小化、などによってではないかと考えられる。



20150910
 (さらに)自分を含めてたぶんそれに責任のある大人たちはともかく、子供たちが、実現させたい「夢とか希望とか未来などの言葉で表せるようなもの」(後藤健二さんの言葉から引用してのそれ)を、思いとしても持ち続けていることができやすくなるような体験の中の現実の世界を、ほんの少しでもより確保していくような取組み。

 今日、何より、貧困とこれに相互的な影響効果を持っている戦争、の無いそれ。

 職の仕事も、関連する取組みも、少しでもよりそれにシフトさせていっての。

 命を賭けなければならないような時にも、そのような目的のために。たぶん何より、喜びや幸福への絶望の中で人間を殺させないために。・・

 戦争推進者とは、人間に満たない劣等者と思っている憎しみの対象としての、命を持っている人間への−他の人間をして殺させることによって−殺したいという憎しみがその生き方の一番の基調になっている人間、のこと。・・



20150909
 人間の命の尊厳は、人間の死の厳粛さの表ての面であるものとしての人間の命の喜びや幸福の、その尊厳のこと。

 言い換えれば、人間の死の厳粛さの表ての面であるものとしての人間の命の美しさ(体験の中に快く訴え掛けてくる要素)を、あるいはその等価であるようなものを思い、感じることができる、そのような要素を不可欠的に含むもの、のこと。

 少し硬い言葉でも、人間の命の尊厳を、大切にすることから始めて、自分自身もまた友達だと思い感じてる人たちにとっても−たぶん実際にはこちらの方が多くの場合に一番のこととして−幸福になり、そして幸福で居てもらいたいために生きて闘っていると、当たり前のこととして思え、表現できるようになり、そのように生きて闘っていくこと。
 闘っていく、というのは、基本的に、受け入れられない運命的なものと闘っていくという意味。

 戦争は、そのような人間の命の尊厳を集団的組織的に破壊するもの、のこと。



20150906-2
 自分自身で一番欲しいものの一つとしての、体験の中の(たぶん限りなく愛情に近いような)友情の密度の獲得のためにも、人間としての信頼−人間として、他者にも自分にも、自分自身で約束したこと−を、裏切らないようにそれに取り組んでいるということ、全面的な人間らしさ、すなわち全面的な人間としての美しさ−それが一人一人異なる内容を持ちうるものだとしても、それでも、体験の中に快く訴えかけてくるという共通的な要素を持っているものだという、体験のさまざまな現実の中から再構成して把握しうるそれ−を、できる限り実現させたいという夢の実現に取り組んでいるということが、恒常的に必要で有効なこと。



20150906-1
 反軍事科学−人間を戦争で殺させないという目的のために必要で有効な、物理的・化学的・生物的・政治的法則性に関する探求と検証の取組み−。・・



20150905
 束の間のだけではないような幸福の獲得ためには、体験の中の、何より、感性的要素(sensitiveな要素)、すなわち、感覚や感情や意識や欲求や欲望や思い(thinking or thought)を持っていると把握される生きている人間の身体という物質的要素を含む物質的要素が、(体験の中の)思いと、それ以外の(部分の)両方に、身近に、それに適するように、在るのでなければならない。

 その「思い」は、体験の中の(物質的要素も感性的要素も含む)現実を、(基本的に再構成して)把握している−そして把握する−その(現実の)残像だと把握できる。

 「思い」の中の、物質的要素の濃度(というようなもの)も、把握可能である。

 「経営」は、何より、体験の中の物質的要素の面での「貧困」−何よりも死に至る衰弱を引き起こすような、飢え、寒さ、暑さ、過労などであるもの−からの保護を確保する(基本的に被扶養者以外の個人をその取組みの最小単位とする継続的な)ための取組みであり、そして、人々の、その一人一人の−複層的で入れ子的な構造を形成しての−その経営の集合が「経済」である、と把握できる。

 体験の中の感性的なさまざまな要素を変えるためにも、思いの中のそれ−物質的要素−の濃度を含む、そして(感性的な要素を当然に含んでいると把握される、自分だけではない、多くの人たちの、身体的な要素を当然に含む)物質的要素をも変えるのでなければならない。
(これは、上記の当初段落の文の言い換えと言える。)

 その物質的な要素を含む全面的に人間らしい人間たちが、身近に多く居る体験の中の世界が、思いの中にだけではなく、実現されるのでなければならない、と言ってもよい。

 これらも、それぞれ当たり前のような認識なのかもしれないが、体験の中の「物質的な要素」に焦点を当てての認識として。


20150901
 「暴力を許さない可能性を探ってみたくなった」・・「表現そのものが勝利だと、私に教えてくれた奈々さん。生き抜いてくれてありがとう。あなたの命が希望です。」(『赤旗日曜版』の2015年8月30日付連載記事から。twitterにも投稿。)

 付け加えるべきものがないので、そのまま、紹介させて頂きます。
 ("命"の中には、ほんの少しの、であっても、当然、"喜び" あるいは "幸福" が含まれていることを含めて。)

  (下記は、上記リンク先PDFファイルの、テキストのコピー。)

   『魔女先生の玉手箱 70』 − 「20歳のあの子がデモに」

 20歳の奈々さんからお便りが届きました。

 −先生、ご無沙汰しています。心配をかけてごめんなさい。相変わらず無職ですが、外にちょっと出られるようになりました。それで実は、デモに少し参加しました−

 びっくりしました。奈々さんは、中2の秋までは積極的に活動する子でした。合唱コンクールの指揮者だった時に、突然「いじめ」の対象になりました。
 手紙には当時からのことを書いていました。

 −世界が真っ白になって、言葉が無くなった。具体的なことは覚えていない。(いじめの)中心になった女の子の唇が左に上がるとひどいことが起こったから、唇ばかり見てた。私がへまをすると暴力が誘発されて、みんなが嫌な思いをする。だから存在を消したかった。
 お金を持ってこいと言われて、お父さんの財布から札を抜いたら見つかった。お父さんに切られて、死のうと思った。でも死ねなくて部屋にこもった。
 お母さんの「出てきて」という泣き声を聞いたら、感情がめくれあがって、お母さんに暴力をふるった。私は最低だと再認識した。死にたいのに死ねなくて地獄だった。
 そんな私のために、お母さんは自分の生活も全部変えて、3年間家にいてくれた。「暴力ってとめられないのかな」と語ってくれた。
 前はお母さんが「平和憲法」というたびに、「じゃ、私への暴力、憲法で止めてよ」ってムカついてたけど、ネットで私と同い年の子の「戦争したくなくてふるえる」デモを知って、暴力を許さない可能性を探ってみたくなった−

 −何でおまえみたいなやつが来るんだよって言われるのが怖くて、帽子かぶって、手作りプラカードで顔を隠して参加したんです。知らないおばあさんがすてきなプラカードねって握手してくれた。嬉しかった。久しぶりに息が吸えました−

 目的は戦争法案の廃案ですが、表現そのものが勝利だと、私に教えてくれた奈々さん。生き抜いてくれてありがとう。あなたの命が希望です。
  小学校教諭・大江未知




201508029
 「(究極的な、ではなく、可能な限り即時的な)戦争廃絶法」案。日本国憲法第9条を参照してもらって。「(同じく)戦争廃絶条約」案あるいはその集合としての「(同じく)戦争廃絶憲章」案。戦争することそれ自体が違法であるということを含めてのもの。

 戦争は、国家規模以上の組織的集団的な殺人であるというのが基本的な把握で、派生的に、すべての組織的集団的な殺人もその意味に含ませる。死刑も、テロリズム(国家規模に至らない、大義又は正義の名目を表明してのそれ)も、暴力団的組織によるそれも。

 この把握は、何よりも、その対象を無くすための把握であるものとして。

 武器と兵器の相違は、認識しておいて。兵器は、殺人専用に特化された武器である。兵器ではない武器、兵器になりうる武器は、それぞれありうるが、兵器になり得ない武器、人間を殺させないための武器というものが、開発され製造使用することができないのかどうか、これは検討課題として。

 武器は、現状、他の生命を殺すことのありうる、人間の生活のための闘いの、そのための機器。


 「(究極的な、ではなくできる限り即時的な)貧困廃絶法」案。日本国法としては、日本国憲法第13条に基づいて。さらに、「(同じく)貧困廃絶条約」案あるいはその集合としての「(同じく)貧困廃絶憲章」案。

 貧困は、何よりも死に至る衰弱を引き起こすような、飢え、寒さ、暑さ、過労などであるものとして、それらを無くすための把握として。

 そして何よりも、貧困から一人一人の人間の生活を守り、関連立法としての、そのための財源としての税制−これも何よりいわゆる富裕層者向減税部分の特別措置税制や、私的蓄積資本に対する累積的課税と大きく異なる人頭税に近い非累積的税制の見直しなどを含むそれ−の選択を含むそれ、として。



201508026
 美しい思いの対象のいくつか。子供たちの本心からと思える笑顔とそれに近しい表情・姿勢・言葉・声の調子、そしてそれらを思っていることを見せてくれる(という、自分自身の思いとしての)それら。そして大人たちでもそのような笑顔など。
 つまり、喜びや幸福のそれら。美しい思いの対象はそれらは以外ではないような、それら。
 時の、あるいは時間の中での。



201508022
 ほんの少しの、ほんの束の間の、だけではないような幸福の獲得にとって、そのために、人間に関わる、それもさらにその人間の思いのそれ−その人間の思いが美しい−体験の中に快く訴えかけてくる−と思えること−に関わる、美しいと思える対象は、必要であるし、有効だと思える。
 喜びは−過去の試練をもはや勘定に入れないものであるそれ(ロマン・ロラン)−は、そこにしかない、くらいに。

 そしてその、必要、と、有効、の意味は、「それを思うこと」すなわち、「人間に関わる、それもさらにその思いのそれに関わる美しいと思える対象」を思うことそれ自体で、それぞれ、確認(検証)できているものとしてよい。

 その対象が、夢でもあるという要素は、あるいは、その対象が再構成把握された一つの、ないし、いくつかの現実の残像でもあるという要素は、含まれているのだろう。基本的に常に。
(「現実の再構成把握残像も体験の現実である」ということとは一応別に。)

 このことも、それを思うこと自体で、検証できているものとしてよい。


 その、人間に関わる、そしてその思いに関わる美しいと思える対象は、「体験の現実の中では」、基本的に、単純な、友達だ(よね)と−自分にとってであってもよいものとして−思えるような人間だ、と把握してよい。
 いつも、どんな場合でも、信頼できる、そして尊敬できる要素を持っていると思えるような。

 そして、夢に近い言葉として「全面的に人間らしい人間」あるいは「全面的に人間として美しい人間」という言葉によって把握されるような人間になれるように取り組むことは、相互的なものでもあると思われることとして、いつも、どんな場合でも、その人たちに、友達だ(よね)と思える友達になってもらうように取り組むことと、同じこと、あるいはその延長線上のことなのだろう。

 「いつも、どんな場合でも」、というのは、より具体的には、「朝から次の朝まで、いつも、どんな場合でも」という意味。

 ほんの少しの、ほんの束の間の、だけではないような幸福の獲得のために。



20150805-2
 戦争での核兵器の使用による人間の命の死も、人間の一人一人の命の尊厳とその一人一人の命の死の厳粛さの問題として把握されるべきだ。

 広島。 広島-現実の記憶。  長崎。また、アウシュビッツ、その他全ての人間の命の死についても。(20150809 追記。)



20150805-1
 それを消去するためのあるいはより消去するための取組みの行動の一つとしても、一番苦しみの少ない姿勢という言葉で把握できるそれを−身体的なそれも精神的なそれも合わせて−恒常的に選んでいくこと、と、ほんの少しの幸福あるいはほんの束の間の幸福を得るための取組み、と、ほんの少しのあるいはほんの束の間のだけではないような幸福を得るための取組み、と、について、最前者は中間者を通して最後者への一つの過程であり、最後者はやはり、体験の中での友達(友人)と思える人の、現実のまたはその残像の、さらにはそれらの印象だけであってもよいが、その存在は不可欠だという把握(認識)は保持し続けることによって実現させていくべきものだ。

 その幸福の対象がどのようなものであれ。その幸福の対象がそれ−友人の現実の存在など−自身であれ。

 ほんの少しのあるいはほんの束の間のだけではないような幸福は、そのようなものだ。

 そのようなものとしての、戦争・貧困・金儲け、すなわち生き方としての、一番の目的として選択していく私的資本蓄積・それらの手段にもなっている人間たちへの憎しみとその扇動などの、反対に位置するものたちとしての、できる限り互いに友人であること、さらにできる限り多くの人たちとの間で互いに友人であることが必須である、そのようなもので構成される夢・希望・未来。

 そのような方向への取組みの選択を。姿勢あるいはその選択は、方向性あるいはその選択を当然含むものとして把握して、さらに姿勢は、それ自体が行動であるとともに他の行動の有効性の基軸になっている行動であるとも把握して、進めていく。

 生き方として。



20150801
 「友達だ(よね)」という思いあるいは確認は、当然自分自身に対してもなされるべき取組みである。

 現実におそらく再構成して把握している「残像」としての自分自身を他者のようなものとして把握することができるし、そうしなくてはならない時と時間も少なくない、ため。

 これと関わると言ってよいことで、現実の他者の死(その残像を含む)の厳粛さに対して、可能になることは、おそらく何よりも、接する、また触れることのある生きている人たちが現実に幸福であるか、また、亡くなったその人がそうであったか−それも、束の間だけのものではないようなありようでそうであったか−の思いあるいはその確認と、それに対する−今後の−取組みだ。それだけだと言ってよいくらいに。自分から見ての、あるいは自分自身で思ってのそれでよいので。また、自分自身がどうであるかの位置付けは、その中でしかおそらく把握されないものとして。

 これも、言葉、あるいは文章としては単純な。

 そして、戦争による現実の死、そして再構成把握するその残像としてのその死の場合でも。



20150724-2
  人間のネットワークは、「友達だ(よね)」といつも思っていられるような友達を、できればみんながそうであるくらいに増やしていくような、生き方としての選択によって・・。

 「友達だ(よね)と思っていられる」は、自分自身では、エドモンド・デ・アミーチスの、「クオレ(心)」の中の、正確には作品のテキストを確認しないとならないが、ずっと心の中に残っている言葉から引用してのもの。



20150724-1
 現実の人間の命の尊厳と−それを感じての−その可能な幸福の中には、現実の他者−何より人間−の命の死の、あるいはその再構成して把握するものを含むその残像の厳粛さが、どんなにわずかにであっても含まれている。・・多分誕生の場合のそれでも。



20150721-2
 二つ目の、夢・希望・未来。

 意志になればよいが、思いとしてだけでも、

 世界各地で実行されている戦争(国家やその連合組織を介してのものを含む組織的な殺人)を無くすこと、平和を実現することに向けて働きかける法案の提案とそれに基づく政策の提案と実行をして行く自国政府の実現

 世界各地で、その国とその各地方地域がそこで生きていく全ての人が束の間だけではないような厳しい経済的条件の元で生きていくことを強いられることのないような経済的条件の元で生きていくことができることに向けて働きかける法案の提案とそれに基づく政策の実行をしていく自国政府と各地方政府の実現

をも、世界各地の人々が選択していくことになるような働きかけ・・・?

を、人間のネットワークに基盤を置いて、

「人間の命の尊厳とその可能な幸福」のために、の観点から・・・?

 夢・希望・未来としては単純な・・・?



20150721-1
 人間を、自分にも、他者をも、自分をも、他者にも殺させないための闘いの、殺人用に特化された武器である兵器(軍事機器)とは異なるものとしての武器?

 戦争を実行することが犯罪になるような国際法の立法と国際司法の効果的な機能、経済的強制の効果的な機能、逮捕、及び死刑以外の禁固・懲役・義務認識教育そして手段としての機器、プロテクター付催涙弾・催眠弾などの機器??ミサイル防衛「だけ」の機器??・・・



20150720
 自分にとって一番美しい対象としての、今そうあってほしい人たちの幸福も、そのために、特に束の間だけのものではないような幸福であるために、その周りの基本的に全ての人たちのそのような幸福が要る。現実には、そのためにほとんど何もしてあげられていないとしても。

 これも、やはり当たり前のことだったが。



20150717
 愛(情)は、そのままでは人間としての美しさ(である)とは必ずしも言えない、友情−友達だという思い−を伴うことによって初めてそう言える、のではないか?

 一人一人が、独立した、これから形成していくものでもある、「 (全面的に)人間らしい人間」として生きているという思いを伴ってはじめて・・。?人間に近しい生命とのそれを含めてでも・・。?

 他者の心や思いの詳細は、もちろん(当然)、言葉−センテンス−を介してでないと−表情や振る舞いなどだけからではやはり−的確には把握できない。たとえその把握が、自分自身のどのような心のありよう、あるいは思いに近いものなのかというものであるにしても−その限度であるとしても。

 自分自身の心や思いについても、自分自身の体験の現実の、これもおそらく「再構成把握残像としての自分自身」という他者と、現実の自分自身との、言葉−センテンス−を介しての相互的な把握がいるのではないか。継続的に実行してきていること、なのかもしれないが。これらのこと(以上の問題)について、アンリ・ワロンの著作作品の再検討なども含めてのそれが・・。

 他者が、特に他の人間が、その度合いや内容は様々であっても、自分の持つ友情−友人だという思い−に近いと把握される思いを持っているという−そしてそれが相互的にも持たれているという−自分自身の信頼が−程度の問題はあるにしても−持てなければ、束の間だけのものではないような幸福を得ることは極めて困難な取組みになる。

 「人間として信頼できるか」という問いも、相互的にだが、この点で無意味ではないとも考えられる。

 人間の、国を含む組織と組織の間でも、その一人一人を通して「そう」なのだとも。

 それと、メインテーマの方法に関する認識との関係については、上記のような認識を保持して、おそらく体験の現実の再構成されて把握されているその残像としての結果が中軸になっている、心、あるいは思いの中の、やはりその中軸的なものとして位置づけられる感覚や感情やそれらの対象のすべてが、そのような−ほんの少しのだけではないような、ほんの束の間だけのものではないような−もの(幸福)に、なるように、あるいはするように。そのような意味で、単純な取組みをしていくべきだ。

 以上、大まかに要約すれば、「(体験の中の)現実−reality in "midperience"−も、心(思い)−mind or thoughts−も、"それ"に適うように変えていく取組みを、他者(人々)の心(思い)は、現実に属するものとして。そして他者は、愛(情)の対象として(だけ)でなく、何より相互的な人間としての友情の対象としていくように」していくべきだ。・・



20150712
 後藤健二さんの2010年5月24日付のツイート。「言葉は不思議です。メッセージを伝えるには限界があると完全に思っていたのに、センテンスの持つ響きによって"心"は伝わる。しかもストレートな方が誠実だ。食べ物を美味しいと言ってたらふく食べれらる幸せ、その時を共有できる幸せや感動。」

 この、「センテンスの持つ響きによって"心"は伝わる。」について、

 話されるそれに限らず、書かれるそれであっても、そのセンテンスを発する人の肉声も、現実に、あるいは受け取る人の(単に「想像」ではなく)「現実の体験の、再構成把握された残像としてのもの」としてであっても、その中に含まれる「響き」として。そのような「共振」として(も)。・・

 テキストのセンテンスを読む時には、このこと−この認識・・−も含めてその取組みがなされるべきだ。多分、科学的な論述のセンテンスであっても、その意味の観点から。

 既存のテキストを心の中で(暗誦したりして)再構成把握していく時にも。

 さらに、それを−現実の体験の再構成把握された残像として再構成把握することによってでも−聞きたい人のセンテンスを聞くべき時にも。

 PS.後藤健二さんのツイッターの本文全体を一応読了。樋口一葉の「一葉日記」を思い出す。(日常が、日々がそのようなものだった、という意味で。)



20150710
 ツイッターに2015年7月4日投稿した分の引用ですが、「(政府見解・政府発表文書) 安倍氏を筆頭に憲法違反と言われないようにどう国際的な戦争支援を継続的恒久的に行うかだけを考えていて、現実に世界各地で行われている戦争をどう止め、どう平和を実現するかの思いが全くない。」

 これについては、それらの人たち−現在の政権中枢にいる政党に属する政治家たち−の生活が、それらの政策−法案の成否−に掛かっている(「経営」の一部になっている)ということもあるのではないか?
(他の人たちと、基本的に一桁以上の位取りの異なる水準での生活が?)
 政党支部への寄付収入や、政治資金パーティでの収入や、政党助成法に基づく収入などの、配分権限に関わるそれなどが?

 2015年5月28日、「人の生死とか、戦争に関わる話しですよ」との辻元議員の議会(国会)での発言に対する、「大げさなんだよ」との安倍氏のヤジを見聞し、その他個人的に近くでそれらの人たちの発言を見聞きしてきた結果の認識として。

 同じくツイッターに2015年6月7日投稿した分の引用ですが、「自分からみて、安倍氏の国会答弁など見聞きして(この書き起こし[この個所ではこの引用は省略−小谷付記]を証明として読んでも)、人間として信頼できない人間だと思うようになりました。周りの人達もどうしてこのような人間に付いていくのだろう、とも。」

 への返信で、「思い出して・・

 ここでは、その中のパネルの金額のテキストにしたものを表示。

 『主要閣僚の企業・団体献金と、政治資金パーティ収入(2013年、万円)

  安倍首相      企業・団体献金 3756
              パーティ収入  8580

  麻生副総理    企業・団体献金 3223
              パーティ収入  5253

  岸田外相      企業・団体献金 1449
              パーティ収入  1億80

  甘利経済担当相  企業・団体献金 3305
              パーティ収入  6160

菅官房長官     企業・団体献金 1770
              パーティ収入  5780

  林農林水産相   企業・団体献金 3597
              パーティ収入  9083

          [6名合計   6億2036]
  (各大臣の国会議員関係政治団体の合計額)』

 これらと、人によっては、下等と思っている(差別する)思いに基づくその対象になる人間たちへの憎しみが合成されて。?



20150709-2
 「自衛」戦争、「防衛」戦争であっても、戦争は、いずれにしても組織的集団的な殺人の実行行為そのものである。

 「戦争」ではない(応戦ではない)「自衛」あるいは「防衛」行為−そのための闘い−は、可能なのではないか。?

 つまり、自分をも、自分にも、他者をも、他者にも、人間を殺させないためにその戦争を仕掛けてくることのある、そして仕掛けてきた相手方の、殺人実行行為そのものや、その殺人実行行為の結果を避けたり、その効果を消失させたりする闘いとして。?

 具体的にそのための機器−人間の殺人専用に特化してきた武器としての兵器と一応区別できるものとしての「人間を殺させないための」武器と呼んでもよいもの−を使う闘いであっても。?

 そして、その相手方の「認識」−戦争を含む殺人実行行為が、自分自身についても、何より束の間のだけではないような幸福を得て生きるためには何の役にも立たず、その反対の効果を持つものでしかないというそれ−に働きかけるという闘いであっても。?

 さらには、各人のその体験の世界の中で、他者との関係で安全を確保していくための一番有効な方法は、(他者への憎しみを基礎にしている脅しを強化していくことや、強大な兵器を保持していくことや、その兵器を使用するための協力者を−「自衛」や「防衛」のためにであっても組織的集団的な戦争への協力をしていく国やその兵士たちを−増やしていくという方法ではなく、)他者との間の友情−友達だ、という思い−を育てて守っていくという方法である、という認識に働きかけるという闘いを含めて。?



20150709-1
 ホームページへのアクセスチェックも、ホームページの情報更新も、ツイッターのタイムラインの情報チェックも、職の(事務所の)仕事への取組みも、「経営」も、政治的選択への働きかけなどの取組みも、それらのための「勉強」(study)も、「有効と思える認識の総体」に基づく「生き方」(way of living - midperience)の選択として。br>


20150706
 『美しいのは今何よりもそうあってほしい人たちの幸福』( "for myself, the most beautiful thing is happiness of...." )

 自分のホームページの中に書いていた、思い出せていなかった、ロマン・ロランの作品を読んでいて気がついたこと。センテンス。言葉。・・・



20150705
 カンボジア−ポルポト時代の事実の掘り起こしの仕事の、本日付新聞記事。

 自分も、いつそういう人間になるか知れたものではないという思いは、在る?無い? 犯罪に該当するようなものはもちろん、戦争や死刑でのそれを含めた殺人者に? 今でも在るそれがありふれたことになっている環境でそうならない勇気が? さらには・・?

 また、兵器(核兵器を筆頭とする組織的な殺人用になってきている武器としての機器)を発明し、製造し、供給販売し、保持し、使用する産業が、「防衛」又は「抑止力」のためにという目的の元に驚異的に「発達」してきているこの時代にそれは?

 人間の人間としての美しさというほんの少しのものであっても幸福あるいはその対象の、さらにはほんの少しのものだけではないような幸福としてのそれらの意味を選択していって・・。


20150701
 核兵器を含む兵器(人間の歴史の中で組織的な殺人用に特化してきた武器)の「殺人機器力」をより消失させ無力化するような、人間を戦争(すなわち組織的な殺し合い)によって自分をも自分にも「殺させ」ないようにするような「機器」や「精神的な何か」を開発創作製造し、あるいは発明発見し、その使用を選択していくこと、そしてそのような選択を他者にも働きかけていくこと・・・

 まず、その「精神的な何か」は、それぞれの人自身の、その人自身が持つことができる他の人間に対する友情(愛と言ってもよいとしてもそれが同時に友情である限りでのものとしてのそれ)への信頼に基づくそのような、兵器の殺人機器力をより消失させ無力化することの方向を選択していくような生き方を選択していくことになる要素を含む「精神的な何か」・・・

   −何より、核兵器やあるいはそれ以上のより強力な兵器を創造し、製造し、供給し、保持し、使用することによる「戦争抑止力」とそれに基づく「精神的な何か」の選択をしていくことによってではなく・・・

 平和を実現すること、戦争を無くすことのためには?



20150629
 (2015月6月28日付noteの)「優しさ」の意味は、ここでは、「穏やかで、かつ、他者自身の感受性への共振性が在るということ」(角川学芸出版『類語国語辞典』の定義を一部変更して。)

 その取組みが捗々しくない(はかばかしくない)と感じられる、何も言えない(言ってあげられない)、あるいは何もできない(してあげられない)時や時間でも、ただそばに居ること("by your side")−それが少しでも役立つと思えるなら−だけでもよいものとして。
 (the chord+shizuka "by your side" から、この言葉を引用させていただきました。)

 さまざまな身体的な、及びそれと相互関連している精神的な理由あるいは原因が在っても、あるいは、戦争、貧困などに対して有効なその現状を変えるためのための認識が得られていない、あるいはその認識は在っても有効に実行されていないなどで。



20150627
 ほんの少しの幸福、人間の亀鑑的作品、優しさを伴う美しさのさまざまな在りよう(優しさを伴う美しさのさまざまな質を−その質はおそらく多くの場合次のこととして、但し時と時間によっては必須の要素として−含むその具体的な内容)、は、だいたい同じ意味である。少なくとも自分自身にとって。

 逆に、と言ってもよいと思うが、憎しみは、怒りに駆られた行動が作り出している感情であり、さらにはその蓄積が感覚ないし錯覚にまでなったものであって、体験の中の現実のその対象や、心の中でその再構成把握残像を伴って把握されているその対象への、脅しや差別やさらには大義という心の在りようなどを伴うこともある、刑法で規定される殺人やテロルや戦争や死刑を含む殺人の理由にもなっているものであり、人間の幸福への取組みにとって役に立たないその逆の要素を持つものである、のではないか?

 上記段落の判断は、多くの場合に一見当たり前のようなこととして考えられていると思われるにしても、本当にそのように当たり前のこととして考えられているのかどうか。どの部分が正しくまた正しくないのかの再検討もしていって。

 日本の軍人の中国での−中国人を銃剣で突く訓練、中国人を並べて銃弾が何人を貫通するか試した−などの行為、アウシュビッツ、「広島」「長崎」、ISの戦闘員の行為、などの場合でも?

 単純に、差別や脅しや大義の教育とその受け入れの結果といえるのかどうか。

 それらと、「絶望」(と呼ばれるもの)との関係がどのようなものであるか、について、今日、日本でも、『少年らが「人を殺してみたかった」などと供述するような凶悪事件は、なぜ繰り返し起きるのか。』(2015年6月3日の新聞記事) についての神戸大学名誉教授、教育行政学の広木克行さんの講演から、私にはとても参考になる認識。

 『「なぜこんなにも命が軽んじられるのか。それは、事件後の議論が責任追及にとどまり、教訓を引き出すということが一貫しておこなわれてこなかったからです。」と広木さんは話し、教訓として「子どもが発するSOSの見落とし」を挙げた。

 子どもは悩みを打ち明けるとき、「相談があるんです」と言ってはこない。食事をしているときなどリラックスした状態で、信頼できる大人に"異変"を感じさせる一言を放つ(たぶんその子どもたちに「相談があるんです」と言えるような余裕は、ほとんどないから−小谷付記)。

 だが、親や教師にゆとりがなければ、「頑張れ」などという正論でつぶしてしまい、子どもは「言っても無駄だ」という絶望を味わう。そして、言葉で伝わらないSOSを自分や他者を傷つけることで示すようになるという。

 「佐世保や名古屋の事件でも、『人を殺してみたい」と話したり、薬品を飲ませたりするなど、いくつもシグナルを出していました。しかしそれらがSOSとしてきちんと受け止められなかった。」

 行動の奇妙さや異常さが際立ち、その原因を不登校や発達障害などに求めるという的外れな議論がされ、肝心なSOSの見通しについては語られていないと指摘する。』

 大人全体、社会全体、人間全体への絶望と憎しみがあるのではないかということについて。

 さらに、それらの、脅しや差別や「大義」が正しいとする教育と、それをそのまま受け入れていた−そして結果としてでも受け入れている−私たちを含む人たちがいるのではないかについても。

 これらに対する、後藤健二さんたちの行動の在りようについても、検討していって。



20150626
 自分にとっての亀鑑的作品の体験(それに触れること)を、体験の時と時間の中に集中すること、集中させることは、自分にとってのほんの少しの幸福(でもそれ)を体験の時と時間の中に集中すること、させることと、概ね同じことだ。逆も言える。

 また、関連する言葉を学ぶこと−そのような亀鑑的作品の体験のために、自国語でも外国語でも古典語でも、たとえば作品の説明などの教科書や、辞書から、その作品に関わる言葉の意味などを学ぶこと−も、亀鑑的作品の体験のための取組みの一部になるものである。



20150621
 「ほんの少しの喜びや幸福」としての、その時と時間において一番の亀鑑的作品に触れること、触れていくことはできても、そこから先に進まないように感じられる時と時間においては、「何よりそれを力にして、よりほんの少しだけではないような幸福」の、体験そのものあるいはその再構成把握残像を獲得していくことあるいはそれに触れていくことに、「その体験やその再構成把握残像」を「集中」していくこと・・。



20150620-2
 「人間がどのように死ぬかには意味がある。」(ジャーナリスト山本美香さん−2012年8月20日シリア内戦の取材中に狙撃されて死亡−の、著作作品の中の言葉。)

 人間がどのように死ぬかは、人間がどのように生きるかの最後のものだ。いつも'そう'だ。

 たとえば、人間を−何より子供たちや友人たちを−殺させない−そしてその幸福な生への取組みを守る−ために、その結果として死ぬこともありうるものとして生きるという選択をするにしても、

 大義のためであれ、資本蓄積のためであれ、だまされてであれ、脅されてであれ、絶望からであれ、憎しみや、憎しみに基づく妄想からであれ、人間としての素質−生地−が破壊されてしまう環境の中でのその影響の結果であってさえ、その結果として自分自身と、それに巻き込んで周りの人間を−選択するという観点からは−殺させて死ぬという生き方をする−そのように生きるという選択をする−にしても。



20150620
 その時と時間において一番の亀鑑的作品に触れていくという言葉で再構成把握される(体験の現実のその)残像を手がかりにして獲得していく、その亀鑑的作品の中に、自分の言葉だけれども、より「全面的に人間らしい、全面的に人間として美しい人間」になれるよう闘うということ、を含めてもよく、さらに、一人二人だけではなく多くの人たちがそうなれるように闘うということ、も含めてもよいのではないか?



20150615
  「ほんの束の間のだけではないような幸福」との言葉でのその認識(意味)の中には、起床時から次の起床時までのすべての時と時間(という意味)が含まれているか、含ませるべきものである。

「ほんの少しのだけではないような幸福」との言葉でのその認識(意味)の中には、今のところ、これ以上に具体的な意味を持たせることができない−再構成把握できるような体験の現実の世界のこととしては、ではなく、その時と時間において一番の亀鑑的作品に触れていくその時と時間の中で、今でもそれがより具体的に得られる場合が少なくないと把握すべきである。

 全面的に人間らしい人間、全面的に人間として美しい人間、は、この体験している現実の世界の中で、作っていくべきものである、ものとしても。



20150607
 いつも思い出せているようにしていかないと、瞬く間に時も時間も過ぎてしまう(Moment and time pass in a flash..)。束の間のだけではないような幸福の獲得のための時と時間。

 自分自身についても、全面的に人間として(使いにくい言葉でも)美しい人間になろうと取り組むことは、人間として美しいと感じる人たちの、現実の残像を再構成して把握することにもなり、それだけでも意味のあることである。

 しかしそうだとしても、具体的な取組みは、合わせて基本的に常に必要で有効なことである。さらにそれをより有効なものにしていくことと共に。



20150606
 他者が(基本的に他の「人間」が)自分と同じような体験の中の世界を−そしておそらく共通的な体験の中の世界を、「現実の環境」などと呼んでいるそれを−持って生きているということが感じられること、そしてその人たちの中で、美しいと感じられる−何より人間として美しいと感じられる−人たちが生きているのを、そして生きていたということも、感じられること。

 自分にとって、ほんの少しの幸福はそれらに何よりかかわっている。それら抜きでは無いと言えるくらいに。
 それらがあってさらに、ほんの少しのほんの束の間のだけではないような幸福は、それもやはりそれらにかかわってくる。

 人間の、人間としての美しさ。ものすごく残虐で醜い部分も持っている中でのものであっても。認識として。あるいは再構成して把握する現実の残像として。 おそらくその人たちの幸福(のその質)にもかかわっていることなのだろうが。

 後藤健二さんの報道やその文章を読んでいて、「人間を殺させないための闘い」などというものが本当に可能になるのだろうか、あらためて考えてみて。友情のためにでも、その人たちの幸福−のその質−にもかかわって、共通的な闘いとしてたぶん・・。



20150604
 おそらく、「いつも、体験の中へ、最良の(基本的に過去の)体験の現実(の出来事やその対象となるもの)の残像を再構成して把握すること、そして、し続けることのできる力」を、その実践を通して付けていくこと。

 それ自体が闘いであるとともに、より有効な闘いの成果のための手段としても。

 束の間のだけではないような幸福のために(も)。

 自分にとって人間の亀鑑的作品(繰り返し検討した結果としても最良の)作品たちは、「その」有効な、そして必要的な手段になるべきものだ。

 自分にとって、その作品たちは、現在は、何より、後藤健二さんの報道やセンテンスなどに行き着くよう、だが。

 後藤健二さんの引き出した、「授業」での、子供たちの、その時、その時間のものであったとしても把握していた希望・夢・未来。自分自身についても、その希望など。自分の職の仕事に関しても、その希望など。

 子供の頃だったらもっと簡単にそれが−その残像の再構成把握が−できていたのではないか、については、そのようにも思われるが、その時と時間の、特に人間の「作品」たち(人間たち自身を含む)という環境に、より大きな影響を受けざるを得なかったその限りで、という条件が付く。

 おそらく、子供の頃には−さらには誕生から又はそれ以前から−体験の中の現実とその(相対的なものでもある、しかし年齢を重ねていってその相対的な区別は可能な)残像との相対性は、ほとんど無い所から出発してきているのではないかとも思われる。すべての人についても。

 この意味でも、後藤健二さん−たちがと言うべきかもしれない−が取り組んできた、子供たちの「授業」に関する−ジャーナリストという仕事を通してのものであっても、それ以外の部分があったとしても−仕事の意味は大きいと思える。

 人間のすべてが−すべての人間が−、何よりも戦争を通して−特に核兵器使用を伴う戦争を通して−すべての生命も半永久的に生存できない場所にこの地球がなってしまうことなどを通して滅び去ってしまうのでなければ、実現できるかもしれないそれに対して。



20150527
 (承前)その闘いの相手方は、その闘いによってそれ−を体験の中の世界の中から、と言うべきかもしれないそれ−を無くすことが絶対にできないとは−束の間のものであっても在りうる時あるいは時間が在る、その体験から把握しても、また証明の点でも−考えられない、束の間のだけではないような幸福のために−あるいはそのためにも−人間として受け入れられないもののすべてであって「運命」などと多くの人が呼んだりしているもの。

 束の間のだけではないような幸福のために−あるいはそのためにも−闘うことをしていないことが−その時間が−自分自身を含めて多くの人達の場合でも−多分−とても多い、と感じられるそれ。



20150525
 闘うとは、勇気を出して−人間として−それを実行すること。
 (束の間のだけではないような幸福のためには。あるいはそのためにも。基本的に恒常的に。)



20150524
 一つの、希望・夢・未来。

 防衛省の『(反戦争反軍備)人命警備省』化。人間を、自分達自身を(受動的な意味でも、能動的な意味でも)含めて−特に組織的に−殺させないために組織された人間達の、政府の権限に基づく組織化。

 政府の義務として、日本国憲法9条は守り、軍事力行使も、軍事力整備もしない。軍備(軍事力行使機器)とならない限りでの武器(すなわち、他の生命を殺すことのありうる、他の生命からの自分達自身の生命殺傷への侵襲から自分達自身の生命を守るための機器)は、反戦争・反軍事力行使の目的の限りで、すなわち、人間を、自分達自身を含めて殺させないために限り、使用できるものとし、またしなければならないものとする。

 刑罰に死刑を含ませない。

 領土問題等は、国際的刑事司法のプロセスを含めて国際的な対話を通して解決する。相手方が軍事的に進出してきた場合であっても。



20150522
 (承前)たぶん多くの人に美しいものとして受け入れられる「こんなふうに」という内容を持っている「希望」や「夢」や「未来」−そのような希望や夢や未来を持つことは、(それがかすかなものであっても)それ自体、体験(英語的な私の造語だが、midperience )の中での喜びあるいは幸福なんだ。
 それの無い時、持つことができない時のことを考えてみても。

 希望は、その思いを主体の側から見ての言葉、夢はその対象を主に見ての言葉、未来はそれの実現された未来の意味、と言ってよい。それぞれ、それら自体は、心ひかれるような体験の中の現実の、再構成把握をしている残像だとしても。

 それらは、自分自身のものであれ、他者それぞれの人達のものであれ、自分自身にとってのそれらである。
 (他者の持つ希望や夢や未来も、少なくとも、それをその人達が持っていると−自分自身に−感じられるということは、自分自身にとってのものである。)

 体験の中の世界の中で人間らしさが−人間としての美しさが−より全面的になることへの希望や夢や未来の実現への選択と闘いをしていくこと。可能なすべての時間で。

 この希望や夢や未来は、それをただ待っているだけの状態を含まない、たぶん、その実現を祈っているだけの状態も含まない、言い換えれば、その実現のために闘うことを必要的に含んでいるものとして把握されるべきものである。



20150521
 (承前)自分自身のその選択と闘いへの自分自身の信頼を賭けることと、子供たち、青年たちを当然に含む他者たち自身のその選択と闘いへの自分自身の信頼を賭けることとは、相互的に共通的なもので、これからより確かなものに創っていくものである。なぜなら、全面的な人間らしさ−人間としての全面的な美しさ−は、そこから−体験の現実に基づくその(相互的に共通的なものだという)認識から−出発してきているものだから。



20150520
 INDEPENDENT PRESS 「インデペンデント・プレス」 Report 『夢』 2004年1月23日 ipgoto.com から作成されて投稿された、twitter の中の(外部)リンク先の  file のセンテンス 

 (テキストでは、「でも、願わくは、願わくは『この色が綺麗』とか、『この歌が好き』とか、『こんなことをしたい』とか、『こんなふうになりたい』とか、夢とか希望を描ける能力とチャンスを与えてあげたい。それができるのは国際規模の支援だけだ。アフガンでできたことがイラクでできない−無念、憤り、失望・・・入り混じって胸につかえている。自分たちの大きな罪だ。・・いろいろと対外的な理由を付けてはいるが、自分を取材にむかわせる本当の理由は、この『胸のつかえ』だ。この胸のつかえが取れるまで、自分の中にある渇きは癒えないと思う。」)

と、その前のセンテンス

 「ハナンは元気だった。体の調子は昨年11月に訪問した時と変わらない模様。『ようこそ〜』と朝小と、お土産を渡した。ちょっと面食らっていた、というかニコニコ喜ぶわけでもない、ムスッとしているわけでもない微妙な表情を見せた。この時ふと、『この子は自分の感情をどう表していいのかわからないのではないだろうか』と思った。相変わらず、学校には行っていない。ハナンの姉妹も全員学校に行っていない。本を読むことも、絵を描くことも、将来の夢を見ることもない視線・・・インドのアウトカーストの女性と子どもたちと同じ視線だ。アウトカーストの子どもたちに『将来の夢は?何になりたい?』と聞いた時、彼は質問の意味を理解できなかった。『夢』という意味がわからなかった。自分の親がすること以外は何も知らないし、想像することさえない。それを否定するわけではない。これもひとつの”生”だ。」

 そして、その前日の、INDEPENDENT PRESS Report 『大きな瞳』 2004年1月22日 ipgoto.com から、以前にもこのページで引用した、言葉

 「子どもたちの表情は素朴で実にかわいらしい。ズームしたファインダーの画をパンしていくと、見たことのある口元にほくろ・・・昨日畑で出会った少女だった。一見気が付かなかったのは、今日は頭にスカーフをかぶっていたからだ。

 あまりに美しい瞳、すいこまれる。大きな黒いダイヤモンド・・・いや、そんな陳腐な例えで表現できない。自分は、新たな生きる楽しみを見つけた子どもたちの瞳が大きく呼吸をしてキラキラ輝くことを知っている。しかし、この少女の瞳は新たに生まれた希望によって輝いているのではなく、希望とか未来という存在そのものの美しさような気がした。今はこれ以上うまい表現が見つからない。とにかく、びっくりした。」

 こんな素敵な、こんな素晴らしい『夢』を描いて、その実現のために取り組んで−生きて−いた人がいたんだ、という驚き。

 『こんな素敵な生き方を、してみません?』

 ただ、自分自身に問い合わせてみても、これ自体なぜかとても困難なのだけれど。なぜ?

 それを打ち消してしまうような要素が、たぶん体験の中の世界の中に−現実としても、その(相対的なものでありうる、基本的にその現実を再構成して把握している)残像としても−、とても強くそして沢山在るから?

 と、そのように考えること、把握することができる。そうだとすると、

 「それ」と闘って、「こんな素敵な生き方」、つまり人間として全面的に(なぜか使いにくい言葉でも)美しい人間になること、なるように生きることの、その内容のこと−特にこの、上に引用したような言葉で表されるような内容を含むその内容のこと−なのだから、その内容を実現させるようにすること。

 そしてこの、「闘う」とは、そのために勇気を出すということ−あるいは最低限勇気を出して実行すること−では?
 正確には、そのために必要な時そして有効な時(この二つの時は基本的に一緒だろう)、勇気を出してそれを実行すること、して行くこと。
で、良い。



20150516
 現実の或る体験と、その再構成把握する残像を体験するという体験と、現実の或る体験の「代替的作品」と把握できるような作品を体験するということについて。

 当初の現実の或る体験の、その最も心動かされる部分を−時と場合によってはそれを超えるようなその体験を−、その「代替的作品」であってもその作品を通して体験することができうる。(「でき『う』る」というのは、できることがある、という意味でそのように表現。)

 特に小説作品、あるいはテキスト(文章あるいは言葉)による再構成把握を通しての作品の場合。この場合、複層的な再構成把握残像を体験することによる体験をしていくことになるのだろうが。

 但し、絵画や写真や音楽や彫像などの作品の場合でも、複層的な再構成把握残像という要素はないとしても、同じかもしれない(当初の現実の或る体験の、その最も心動かされる部分を−時と場合によってはそれを超えるようなその体験を−、その「代替的作品」であってもその作品を通して体験することができうる、のかもしれない。映画やアニメーション作品の場合、これら両方に関わって。)。

 これらも、当たり前の認識だとしても。確認としても。



20150515
 自分の中の人間として美しい−体験の中に快く訴えかけてくる−と感じられ、思われる部分を増強させていくこと。
(この「こと」は、「べきだ」という意味。つまり、そのような取組みの有効性と必要性があるということ。自分については使いにくい言葉でも、とりあえずこのように。)

 なぜなら、体験の中の美しいと感じられ、あるいは思われる対象へのその−美しいと感じられ、また思われる−感覚や感情は、それそのものが自分の中の人間として美しいと感じられ、あるいは思われる部分に呼応して生じていると、現在時点の−新たな−認識としてそのように思われ、さらにそれが何よりも(つまり他の条件ではなく)「人間として」美しいという条件付きのものであるのは、これまでの過去の体験への思いの総体的なものから。

 上記のことと、性差に関わる感覚や感情や欲求や欲望の差異あるいはバリエーションのことについて。

 後者は前者の一部として把握して、また、前者の中で後者は、廃除しないで取り組んでいくこと。
 (これも取りあえずでも。漠然とではあったとしても基本的にはこれまでどおり。)



20150513
 脅し(威嚇)は時と場合により、有効で必要なものなのだろうか?(人間間での問題として。)

 それは、特に束の間のだけではないような幸福のためにはその必要性も有効性もまったく持たない、怒りや憎しみに駆られた行動に近い行動なのではないか?

 と思われる。

 基本的に人間らしさの部分への−つまり、人間としての友情や優しさなどへの、言い換えれば人間の人間としての美しさの部分への−それを持ち得ない、信頼できない、傷つけられることしかない、という絶望に基づく恐怖が引き起こすと考えられる(現実の可能な限り正確な認識に基づかない)「脅し(威嚇)の行動」は、基本的に、その対象の中でその時一番身近でかつ弱い−と自分に意識され、あるいは思われている−者に向けられる。

 他の動物間でもそうだが。

 核兵器を含む戦争で使用される軍備(兵器)や私の考えでは死刑執行機器−それぞれ殺人専用機器−の増強や使用によるそれも、ヘイトスピーチやレイシズムと呼ばれる行動も。

 おそらく、(基本的にその対象の中でその時一番身近でかつ弱いと自分に意識され、あるいは思われている者に向けられる性質を持つ)脅しの行動が取られるのでなければ、その自らが持つ−その行動が必要で有効かどうかの、判断の誤りとは言えない−絶望や恐怖が錯覚や妄想に基づくものだと分かるか、現実に傷つけられる危険性に対してはそれそのものを正確に把握してそれを廃除する−それも、自分を含めて何よりも人間に人間を殺させない−ために闘うか、その場所から退避する行動を取る、以外の必要で有効な選択肢はないことが分かる結果を生じさせることになると思われるが、脅しの行動を取る結果としてそのような、現実に必要で有効な選択肢を選択させない結果を生じさせてしまうことになる、と考えられる。

 何よりも、幸福のための保障である人間たちへの友情への信頼も消失させる。

 国家の、戦争−つまり組織的な人間の殺し合い(殺させ合いと言った方が正確かもしれない)−への「抑止力」と呼ばれていることのある脅し(威嚇)の行動とその力の場合でも。

 この場合でも、そこでの行動を行う一人一人の人間がそのように行動する、その一人一人の行動の総体が国家の「戦争への抑止力」と呼ばれていることのある脅し(威嚇)の行動であり、その力であるので。

 世界中のすべての人が−あるいは世界中の大多数の人が−たとえばこのような(脅しの行動が、意味のない、逆効果のものであるというような)認識を持ち、それに基づいて少しでも−脅しの行動を取らない、さらには殺させるための機器を使わせないという−勇気を持って行動して生きていくようになるのでないと、戦争も無くならないのかもしれないが、選択の方向性としてはこのようなものなのではないかと考えられる。



20150512
 「優しさは、『傷つけないように』快さを持ち込んでくること」というとき、それができるのは、その時にその人自身が傷つく要素が−それが相対的な度合いの問題でもあり、かつ、どのようなその度合いが−何より瞬間的なものだけではないようなものとして−プラスになり、また、同じく、たとえばあまりに強く酷いものであればその人の死に−その人の認知あるいは精神的機能の致命的破壊を通しての場合を含めて−直結するようにマイナスになるのかの問題を別として−その人自身に在る場合だけ、なのだろう。

 さらに、人間としてのすべての人に在るそれが、その時に在ることが認識されている−あるいは体験の意識の中に含まれている−場合だけ・・。

 おそらく束の間のだけではないような幸福の必須の条件として・・。



20150508
 (INDEPENDENT PRESS Report 大きな瞳 2004年1月22日 ipgoto.com ) から、以前にもこのページで引用した、

 「子どもたちの表情は素朴で実にかわいらしい。ズームしたファインダーの画をパンしていくと、見たことのある口元にほくろ・・・昨日畑で出会った少女だった。一見気が付かなかったのは、今日は頭にスカーフをかぶっていたからだ。

 あまりに美しい瞳、すいこまれる。大きな黒いダイヤモンド・・・いや、そんな陳腐な例えで表現できない。自分は、新たな生きる楽しみを見つけた子どもたちの瞳が大きく呼吸をしてキラキラ輝くことを知っている。しかし、この少女の瞳は新たに生まれた希望によって輝いているのではなく、希望とか未来という存在そのものの美しさような気がした。今はこれ以上うまい表現が見つからない。とにかく、びっくりした。」

 「瞳」は−おそらく全感覚器官になると思われるその代替的器官である場合を含めて−何よりもその人の心を映しているものなので、そうなのだと思う。

 できれば、大人達も、老人達も、障害を負っている人達も、過去の記憶や病や不慮の事故などでつらい思いをして生きている人達も、少しでも・・。



20150503
 優しい、と、美しい、の意味のこの時点での再確認。言い換えると「優しさ」と「美しさ」のこの時点での定義(認識)。自分自身の問題としての。それぞれ束の間のだけではないような幸福のためには不可欠的な要素としてのそれ。

 優しさとは何かというと「傷付けないように快さを体験の中に持ち込んでくること」、美しさは「感覚に[体験の中に]快く訴えかけてくること」(この定義は、『類語国語辞典』角川学芸出版、大野晋・浜西正人著、での定義。この定義の[ ]内は、私自身の読み替え。)

 同じく「勇気」については、以前定義したもので良い。

 同じく「人間としてできる限り全面的に」については、「国際規模の」(勝手な引用ですが、後藤健二さんがtwitterの中で述べていた言葉の引用でのそれ)あるいは「世界規模の」を、一番身近な人たちに対する場合でも、自分自身に対する場合でも、不可欠的な要素としてその意味の中に含むものとしてのそれ。上記「優しさ」「美しさ」「勇気」の全てに含まれるべきものとしてのそれ。



20150405-3
 新聞を読んでいて、「アメリカン・スナイパー」 (スナイパー − 軍隊の狙撃兵−小谷付記)(ハヤカワ文庫、クリス・カイルほか著) の書評 があり、心打たれた。

 書評者を確認したら、 映画「アクト・オブ・キリング」についての紹介記事 を記載されていた、映画監督の森達也氏。(記事の日付は、記憶だが、おそらく1年程前の2014年4月。)

 同名の「映画」が本年度アカデミー賞・音響編集賞受賞、との、ネット情報がある。(原作者:クリス・カイル、監督:クリント・イーストウッド。)
「米軍史上最多、160人を狙撃し(て殺し−小谷付記)た、ひとりの優しい父親。彼は帰ってきた、心は戦場においたままで。」とのコピー。

 2015年3月16日のこのページ内のnote − 
 『 Home − 亀鑑的な作品からの認識note − 防衛省 の本文頁の中に、
 「合わせて、国連平和維持『軍』も、『国連平和維持警備隊』のようなものに変えていくことを働きかけていくような。
 自衛隊、国連平和維持軍のいずれも、軍事訓練、おそらくすなわち『人を殺すための訓練』、ではなく、『人を(−自分達自身を守ることを含めて−)殺させない』ための警備訓練のようなものにはできないのだろうか、とも思います。」
 との記載を追加しました。』

 今考えられるのは、この位。



20150405-2
 自分自身がその人たちに友情を感じやすくなるのは、当然、その人たちが(できれば−相互的にだが−上手に)友情を示してくれる時。

 愛情は、基本的に、その人自身の持つそれ(愛情)の対象との、その愛情の相互的な授受−表現に伴う共鳴のような要素を含む−とは、無関係なものなのではないか?そして、それがあるように感じられるのは、それが友情である場合だからなのではないか−身近な、人間以外のもの(たとえば身近な動物)への愛情と、それとの間での「友情」でも。
(現実には。現実の再構成把握されたその残像としては、そうではないこともあるとしても。)?



20150405-1
  個人単位での所得収入は、基本的に、つまり健康状態などの特別条件を除いては、人間の基本的な科学的認識水準(個人単位でのものはまだ全く未発達であるが人間の経済的な問題への取組に関する科学であると把握しうる「経営」についての科学を含む)の獲得の度合いに概ね比例しており、それを(人間の基本的な科学的な認識水準を)超える認識に関しては、その個人の資本蓄積への思いの強さ(実践を伴うそれ)に応じて獲得され、やはりある程度までそれに応じて増加していく、と思われ、

 そして、そのような人間の基本的な科学的認識の水準の獲得を、世界の中での多くの個人が−特に子供たちが−していく上で最大の障害になっているのが、そのための機会と時間と健康とを合わせて奪っている人間の世界の中での個人間の資産格差の増大化(あるいは地域間での社会資本格差の減少化を含めてのその資産格差の減少化が世界規模の−gloabalな、と呼ばれている−問題としてなされてはいないこと。)(世界の資産格差拡大−富裕層85人で35億人分−新聞記事[小谷行雄コメント付PDF])と、それを助けている−少なくともそのような結果を生んでいる−戦争とテロリズムなのではないか?(後藤健二さんの、titterでの情報他出版されている書籍など。)

 このことに関連して、2014年9月に発売されて現在広く話題になってきている『税金を払わない巨大企業』(富岡幸雄氏著、文春新書)という本、また、トマ・ピケティ氏の『21世紀の資本』(みすず書房)という本、これからそういう本も勉強しなくてはならないにしても、現在の各国のすべての税法制自体が世界の中での個人間の資産格差の増大化に寄与しているのだろう、ということは、これらの本の内容如何にかかわらず、推測あるいは認識可能である。(資産[会計上の資本]所有と配分に関する政治そのものの中軸となっている法制度なのだから。)



20150404
  Home − サイトアウトラインメニュー/プロフィール − の項目 − に、「Twitter投稿分本文書庫」(ジャーナリスト後藤健二さんの生き方の影響を受けたことが大きいもの)
 を作成しました。この書庫内テキストも、「サイト内全文検索」での検索対象になっています。



20150315-2
 「新しいことを始める場合や新しいことを言おうとする場合には特に、失敗はありうるものだ。」との趣旨の認識。これも、当たり前のことだと思われるが。
(昨日の新聞記事の中にあった、プロ野球の新任監督の、「科学的なトレーニング」に関する言葉の趣旨からの引用を含めて。)

 さらに、「認識は、『なぜ?』や『本当に?』の検討結果を含めて、そのような失敗をする確率を下げるのを助けるものだ。」ということも。



20150315
 表情は、友情の表現であるような、基本的に一瞬のものである−目を閉じたそれを含むような−眼差し(まなざし)の、その総体とも把握できるもの。



20150314
 その時その時−その時間−において、(体験の−世界の−中で)描写すべき表現すべき対象についての、基本的には残像などで把握している対象の、空白性と、少しでもの存在性について、基本的には前者でなく後者をできる限り選択していくべき。体験そのものとして。

 そのような選択に基づく幸福についての物語を自分自身にも語っていきながら、その「系」(連続的に関わってくるべきもの)として、委託された、そしてされていくべき職の仕事と、亀鑑的作品に触れていくこと。

 それも、そのような幸福についての物語は、人が−できる限りでよいのですべての人が−、人間らしく愛情を含めた友情に満ちた人生を生きられている世界の中でのそのような物語であるものとしてでないと、それが再構成された残像であるとしてもそしてそのごく周りの世界でしかないとしても、それに−そのような世界に−支えられていないと(それが背景にあるのでないと)描けないし表現できない−そのようなものとして。



20150313
 描写することは、言い換えると表現すること。より具体的には、おそらく全面的に人間らしい人間と同じように形成され続けていく言葉や、声や色彩や線や音声や表情や姿勢やそれらの造形や、それらすべての代替的なものなどに表現すること。していくこと。

 それは、その対象を実践的に把握することの一つ。

 後藤健二さんの、子供たちと一緒に居る写真(子供たちに少しは笑顔が見える時)の、その時間だけは少なくともご本人も本当に楽しそう。周りの状況にも関わらず。このことが私自身にとって大切なこと。子供たちの学ぼうとする真剣な表情が情熱を与えてくれるというような発言の記録の記憶が残っている。
(貧しい言葉だけれど。ツイッターのどこかにその−子供たちの学ぼうとする真剣な表情が情熱を与えてくれるというような発言の記録の−原文があるのだけれど、何らかの検索をして再度探すことがとても困難。)



20150312
 幸福は−喜びも−ほんの少しのものでもそれを選択していくと共に作っていくもの−今、そして当面何よりも、自然や作品であるものの、現実や物語や描写を参考にしてそれらの手助けを得たりして。(描写も物語も現実の再構成把握残像だと考えられるが、そのようなものとして。)

 そのための時と時間。そしてそのための時と時間の中での経営、という位置づけで−位置づけとして。

 物語や描写は、(物語は、現実が描写されているのだとしても、その再構成把握残像が描写されているのだとしても)その描写される−そしてされている−具体的な内容がすべて。あるいは一番肝心なもの。−それを読んだり聞いたり作ったりする人自身の思いを別にして。当たり前の認識なのかもしれないが。しかし、これは、考え直してみると、後者の方が−それを読んだり聞いたり作ったりする人自身の思いの方が−一番肝心なものなのかもしれない(物語られている、描写されている具体的な内容がその手助けになりうるものとして。)。

 描写し、物語ろうとすることによって(さらにはその成果を読むことや見ることや聞くことなどで再構成把握することによって)、その描写し、物語ろうとする対象を、その姿勢で見たり聞いたりその他感じたりすることに−そのように−もなる、と思われる。

 さまざまな作品に触れて、朝から晩まで一日中、さらには生涯、物語られている、描写されているそのことだけを−その再構成把握する残像を把握していくことを含めて−思って生きていけるのか(いってよいのか)どうか、については、検討していってよい課題であると思われる。どれほど強い思いや感情や欲望が物語られているとしても。



20150310
 経営も(経済面での取組みも)、金儲け(私的資本蓄積それ自体)への情熱(ハングリーさとも呼ばれるもの)をではなく幸福や喜びそのものへの情熱を活用してのそれを。現実的には相対的なものでもあるとしてもそれは可能なのではないか。

 さらに具体的に、等価的対価を得て(で良い)供給すべき自分の(自社の)仕事の成果の供給や、その宣伝広告などについても、現状でも、もっともっと、それを需要していると思われる受給する人自身の身に寄り添っていってのそれをも通して。 もっともっと分かりやすく、も含めて。



20150309
 プラスになるものだけを−その方向にだけ−選択していくこと、は、もちろんできる限りではあっても、できないわけではなく、していかなければならない、結果はさらに検討するにしても。この体験している世界の中に、あるいは中で。読んであるいは聞いていくことのできる物語など作品を手掛りに、さらに手助けになるものとして、予感してあるいは予期してあるいは偶然に見つかったものなどを含めていって。

 物語を作ること、読むこと、聞くこと、語ること−物語の言葉を、自分自身などと(の間で)交わすこと、交わしていくこと−、このことと、その物語の体験をすること、それは、「その物語の、背景としての世界はその物語が交わされるときには再構成把握されており、物語は、その中の主人公−中心に居る、生きて活動し行動し話したりしている人間あるいはそれの類似のものとして再構成把握される動植物など−の、その世界の中での物語なんだ−何よりも。中心に生きている人間あるいは類似の再構成把握されたものと、その世界の。」−その美しい(つまり感覚ないし体験の中に快く訴えかけてくる)世界の中の人間の物語以外ではないそれを再構成把握させて体験させる−相対的現実としても体験させる−ことになる。その物語を読んだり、聞いたり、交わしたりすることは。

 自分で作って自分自身にでも、語っていかれればそれがよく、難しくても、既存の作品を手掛りにまた手助けにして、それをしていくことも−自分の作る物語として作り直していくことも−可能でありうる。

 作品からは、認識だけでなく、そのような、自分自身を相手に、でもよいのでその物語を語っていく−その言葉を交わしていく−取組みとその成果の体験も、獲得していくべきだ。実践的に、それがないと、充実は無い、さらには喜びも無い、と言えるかもしれない。私の場合。

 以上も、認識(でしかないの)だけれど。



20150308
 友情への思いの実行として上げられる、現実にはできるだけとしてのものでも一番美しいと思えるものあるいはことである全面的に人間らしい人間(おそらくできるだけ多くの人にとっても喜びや幸福の手助けになるようなそれ)によりなること、なっていくこと、そのような取組み。
 人間を、(主体としての場合、客体としての場合のいずれも)自分自身を含めて、殺させないように、ということを含めて。
 戦争は、政治的権力に基づいて何よりも人間を殺させること、でもある。



20150304
 できれば身近に居てもらえているとうれしい友人だからという理由で、その人の肉声又はそれに代わるものや生身の身体はこの体験の現実の世界には居ない場合であっても(あるいは単に身近に居ないだけの場合であっても)、その残像としてでも身近に居てもらえるとうれしいそのような人と、言葉を、体験の中に現実には身近に存在しない場合のその人の肉声又はそれに代わるものに対しては一方的なものになってしまうにしても、交わしたりしていく−その手段としてのさまざまな情報−電話やwebや書籍などの情報−の活用などもして−、というような本当に小さな狭い範囲での取組みも意味のあるものとして含めて、あるいはむしろそのようなたぶん認識の誤りの少ない取組みの方から、少しでもその範囲を増やしていくことから進めていくこと。?
 から。自分の場合は、ということであっても。そのような要素がなければ、幸福はもちろん、喜びも無い



20150302
 自分が、そして他の人たちもたぶん同じように、それを体験している−生きている−自分自身の在りようを含めて、体験の中で見たり聞いたり肌で感じたり食べものを味わったりいろんな思いを−それはたぶん体験の中で現実に見たり聞いたり感じたりしたことの直接的な残像や再構成して把握している残像を把握しての結果としてのものなのだろうが、そのようないろんな思いを−いだいたりする、などのすべての中にしか、喜びも幸福も無いのだろう。あるいはそれらの中にこそ在るのだろう。

 同様なことを何度も聞いたり読んだりしていたにしても、あらためて。

 但し、生はただ一つであること、まったく同じ体験は二度とないこと、は認識しておいて、だろうが。

 「後藤健二さんの笑顔を見て生まれるのは悲しみではなく悔しい涙。自分たち人間自身に対してのその弱さに対しての。そしてその思いや祈りや行動の、その美しさと強さのこと。」(自分でtwitterに投函したものを一部直して引用。)



20150301
 今日の日本の経営と政治と法律に関して、「しんぶん赤旗」のtwitterから。
 (本文 2015年2月25日衆議院予算委員会の記事 )

 『・・・政治家個人は禁止となりましたが、政治家が支部長を務める「政党支部」には献金できる抜け道が残されました。穀田氏(日本共産党の衆議院議員−小谷付記)は、現在、10政党で8921支部もあると指摘。政治資金パーティー開催を認めたことで企業・団体献金が温存され、安倍首相ら主要閣僚が関係団体の企業・団体献金とパーティー収入により、1億円前後もの巨費を得ている事実を示しました(別掲下)。
 「2013年の政界全体の企業・団体献金は87億円、政治資金パーティー収入は176億円。250億円を超えている」と述べ・・・企業・団体献金の禁止を求めました。
『別掲下表』

 古い日付の項目ですが、当サイト − Home − メインメニュー − トピックスプラス-現代日本の法律 の2004年5月17日付で、「政党や代議員などへの個人寄付と法人団体寄付との差異」についての私の個人的な意見を述べています。



20150228
 なぜ、喜びの密度を少しでも体験の中で充実させていくという単純に思える取組みがとても困難なのか、については、現実の対象とその残像に関わっていることであり、肝心なのはやはり現実の−それによってより充実するようになる−対象を把握できるようにするその取組みなのだという認識が欠けているから・・。

 実践的な対象になりうるさまざまな感覚や感情や欲求や欲望「そのもの」は体験の中には−特にその現実の中には−無いと言ってよいのかもしれない。在るのは、具体的なそれらに近いさまざまな感覚や感情や欲求や欲望であり、またそのような認識に応じるものとしてのそれらの対象「そのもの」も無いのだろう。在るのは、それらの対象「そのもの」に近い具体的な現実的な対象なのだろう。(現実的な対象の残像も、体験の中で相対的に現実でありうるにしても。これらのような認識も、意味はあると考えられる。)

 つまり、それによって喜びが−とても美しいと感じられるものが、つらさを消失させてしまうほどに感覚や感情に快く訴えかけてくるものが−体験の中でその密度がより充実することになる対象−作品と言ってもいいのだろうが、さらにそのような世界と言ってしまってもいいのかもしれないそれら−を現実的に、具体的に把握していく取組みをしていくべきだという認識が。

 (「本当に?」は、「なぜ?」を回答した時にその確かさを検証するため当然に関連して出てくる質問で、「なぜ?」の直接的な「系」になる質問。これは、実践的に検証していくべきもの。

 各人で、あるいは各人でも、自分自身で「なぜ?」と考えてわからないことを、有意に−それによって有効性を獲得できるように−分かっていく取組みが、[その学習を含めての]科学の取組みであり、その成果が認識だと言っても、これもよいのではないか?

 「なぜ?」の前には実践的・目的的に意味のある判断[認識]があり、その判断は基本的に事象の変動の法則性を言葉で述べた[把握した]ものだと思われるが、その判断自体は−その法則性の言葉による把握自体は−まだ科学的取組みとは言えないと思われることも合わせて。)



20150226
 友情やその残像に関連づけられている心惹かれる、好きだ と感じられる対象の方が、単純に、つらい対象より−切り離しにくい要素があったとしても、またあるにしても、 さらに、体験の中に残っていても−選択して把握すべき、していくべき対象。
 さらに、「幸福は美しいよ。」、「美しいのは幸福、あるいは喜び」。
 これも、実践的検証。



20150225
 時と時間によっては、友情(そのもの)が−それもいろんな人たちとのそれが−現実の、あるいは現実に近い喜びの対象にならないか?「本当にいろんな人たち」との友情が。?
 これも、実践的検証。



20150224
 (承前)但し、その言葉が本当に−真に−手助けになるかどうかについては、たぶん恒常的に、「本当に?」や「なぜ?」を確認して続けながら、その言葉を使って手助けを受けていかなければならないのではないか。
 一見、すごく手助けになりそうな言葉でも。そう思える言葉でも。自分自身の過去の言葉はもちろん、誰の言葉でも。 人間の亀鑑的作品と思える作品の中の言葉でも。
 基本的には、一つの単語を表示するだけでも一つの「文」になりうるがそれを含めて、一つ一つの文(を単位としてそれ)毎に。
 なぜなら、肝心なのは、それぞれ−他者のそれらであっても、そのそれぞれの−自分自身の体験とその中の幸福や喜びやつらさなのだから。



20150223
 言葉は、書かれた言葉でも、心の中で暗誦する言葉でも、実際に話される言葉でもそうだが、把握したい対象を、単に認識としてだけではなく、とりあえずは残像としてでも、再構成把握する手がかりになるだけでなく、手助けになる。そのようにしてきたし、今後も。このような認識として持って。



20150222-2
 Home − 亀鑑的作品からの認識note − 辻井伸行・「ショパンへのオマージュ」の紹介の記載の中に、辻井伸行さんの「ロックフェラーの天使の羽」という曲を後藤健二さんの最後の仕事に繋げたものとして聞くことができる、という趣旨の追記をしました。



20150222
 ヘイトスピーチも、友情の正反対のものとしての脅しの一つ。
 他の動物でも−たとえば身近な犬や猫でも−それに近い行動を取ることは当然あるが、そしておそらく狼やライオンなどでもあるのだろうが、現状、人間の場合おそらく何よりも、何千年もかけて、前線に送られる兵士はもちろん、最上位で指揮する人間にとっても、束の間のだけではないような幸福に生きるためには何の役にも立たない実践を含めての人間同士の殺し合いとしての軍事訓練などで目的的にその機器のそれを含む能力を鍛え「向上」させてきたことから、ずっと残酷。
 後藤健二さんの仕事が、このようなことも、教えてくれたような気がする。勇気の他にも。



20150221
 経営でもそれぞれの時期で−時と時間において−一番肝心なのは、国家や会社やその他最小の経営組織の単位と把握できる個々人との間で中間的な、個々人を包摂する経営組織の資本構成の選択なのではなく−その、個々人との間で中間的な個々人を包摂する経営組織の、主宰者の場合であったとしても、そう言ってよい−、個々人の、さらに言えば個々人の自分自身の−生涯の長期的なそれを含む−資本構成の選択。
 この場合の個々人は、被扶養者は基本的に含まれない、それ以外の個々人にその被扶養者の経営がいわば包摂的に含まれる意味の。



20150220-2
 つらい思いをして生きている人の方が−つらい体験を負って生きている人の方が−、喜びや幸福をより強く感じるものだという認識も、そしてつらさの部分はあっても喜びや幸福そのものに近い体験は可能であるものだという認識も、自分自身の再構成把握残像としての部分を含めての体験でもそのように把握できると思われるけれど、観察を含めて、闘いとしての−挑戦としての−ものでもある実践的検証はしていくこと。



20150220
 時と時間の中の、自分自身の喜びあるいは幸福そのもの(などと名付けられるようなもの)という対象は体験の中の現実にもその再構成把握残像としても無いとしても、具体的なそれに近いものに感じられる対象は体験の現実やその残像の中に−何よりも心惹かれる対象として−在りうる。

 その対象の喜びあるいは幸福は、自分自身の喜びあるいは幸福であり、それそのものに近いもの。

 自分自身にとっての作品は、そのような対象であり、それらから把握し、さらに、自分自身でも、そのような作品をわずかなものでも制作し、できればその伝達・交流・交換などもしていくこと。

 職の仕事も、自分自身にとっての新しい認識の獲得とその言語での把握も、このホームページの制作更新と公開も、その制作でもありうるけれど、それら以外にもできれば・・。

 (基本的にそれらの一部を等価のお金で買ってもらっていっての経営は、その一部として・・。)



20150218
 言葉は−話は、文章は、と言ってもよいが−、体験の現実やその残像の貧弱な伝達・交流・交換手段である場合もあるが、そして多くの場合、貧弱な伝達・交流・交換手段であることが多いとさえ思われたりもするが、表情やふるまいやしぐさではうまく伝達・交流・交換できないそれらを、よりうまく伝達・交流・交換させることがそれによって−初めて−できる手段にもなる。

 音楽作品や絵画・彫刻作品や、物語の中での言葉を除いたアニメ作品などでの伝達・交流・交換でもうまく伝達・交流・交換できないそれらを、よりうまく伝達・交流・交換させることがそれによって−初めて−できる手段にも。

 だから何々、というのではないけれど。今は取りあえず、ただそれだけの認識なのだけれど。当たり前といえば当たり前の。



20150217
 つらさはつらさのままでもよいので、残像でも現実でもよいので(基本的には残像なのだろうが)、時と時間の中の−物語としての−喜びあるいは幸福を、ほんのわずかなものであっても、体験のすべての中に埋め込んでいくような、ごく当たり前のような取組み方法の、その有効性のテスト兼実践を。



20150215-2
 想像(imagination)が現実の残像の再構成把握以外のものでありうるかについて、子供の頃、むしろ想像の中に−その想像が再構成把握された現実の残像であったとしても−、その中に現実が在ったようなものではなかったのかどうか。・・境界があいまいだったものがその境界がより明確になってきて分化してきたものなのかもしれない。
 自分自身のこととしては、遡ってその当時の現実の残像を再構成把握しての解答でしかありえないものだろうが。
 (必要で有効だと考えられる場合に、子供たちの様子を観察することは、参考にはなるとしても。)

 これについては、想像は、特に子供の頃は現実との境界があいまいなものだが、そうだとしてもやはり、現在現実として把握しているような現実の、体験のなかでの−積極的にだけでなく消極的にでも再構成把握される−残像なのだろう。

 とすれば、幸福の素材や要素(ディテール)になる喜びの対象は、時と時間によっては、体験の現実の中により多く−密度高く−発見できるものではないのかもしれない。
 現実の中からの方が−錯覚に基づくものであってさえ−基本的により強い輝きあるいはその逆の衝撃を持つものだが、たとえそうだとしても。

 とすれば、さらに、時と時間によっては積極的に再構成把握残像としての想像の中にも素材や要素を探していくべきであると言える。より有効な方法の一つとして。ただこれだけの認識だとしても。

 他に取り組まなければならないこと−他の仕事など−は、並行「的」に取り組んでいって。



20150215
 ほんの少しの喜びも体験できないように感じられる時と時間、でも、ひたすらそれを得られるよう努めて有効そうな作品にも触れたりしているうちに−そのようにして始めて少しは効率よく−美しいと感じられるもの、思えるものがごくかすかに輝きを持って、たとえば当初その残像として体験されるようになってくる、そのような体験、繰り返しだけれど、美しい(はずの、ではなく美しい)対象が少しでも美しいと感じられるようになってくる時と時間、が得られるような体験、を、ずっと見続けていく、ずっと聞き続けていく、ずっと再構成把握し続けるよう努めていく、心動かされる作品を読んでいってみる、ことなどを合わせて、始めて少しでも可能にできるような気がする。
 少なくとも、その時間はよりましな時間になる。他にしなくてはならないことは、並行的に。「的」に。
 たぶんそれぞれ当然のことで間違いないけれど、これもなお実践的検証を。
 (少し前までは、単に「疲れ」と把握していた・・。より基本的には全ての認識についてなお実践的検証をという要請要素はあるのだろうけれど。)
少なくとも自分自身の場合に。



20150214
 ほんの少しでも獲得可能な喜びの、体験の中へのその−あるいはそれらの−密度を高めていくそのために、その「系」(連続的に関連してくるもの)として、同時に「ひたすら」という程度あるいは方法に加えての(もう一つの)方法と言ってもよいものとして、何より、体験の中の世界を、自分自身もその中に含めての人間自身が−基本的にはその再構成把握残像から−形成していくより全面的に人間らしい人間への過程にあるものとしての人間自身をもその中に含めた人間の、その作品のさまざまなものたちから構成されるものとして−その形成された現実の作品たちの再構成把握残像の把握を含めて−把握していく、という取組方法の有効性の実践的な検証を。
 少なくとも自分自身の場合に、として。ただそれだけのものとしてでもよいので。



20150213
 ほんの少しでも獲得可能な喜びの、体験の中へのその−それらの−密度の充実をさせていくために、ひたすらという程度に−あるいはひたすらという方法をもって−取り組んでいくべきその対象の現実と残像についての認識として、残像は、その再構成把握しての獲得に取り組んでいくにしても、現実に体験された−一瞬のでも束の間のでもいずれにしても体験としては過去形での−対象とその効果を、基本的には超えない。超えることはほとんど困難である。
 もし超えるとすれば、それは、現実化された−実現された−対象になる−対象である−と把握しても良い。
 そのような、現実化された再構成(把握)しての残像の把握をしたもの−されたもの−が作品、とも把握できる。
 少なくとも自分自身の場合に。



20150212
 (承前)それは、それが残像であって現実のもの−対象−ではないということに関わっているものであり、さらにそれ−再構成して把握するその残像−すらも得られないような時間の中では、そのような−喜びの一部だとも把握できる−切なささえ存在しないものだ。その現実と残像のそれぞれが、相対的なものでもありうることは認識しておいて。



20150211
 心惹かれる先から得られるほんの少しの、ほんのささやかな喜びでも、過去の試煉を消失させることになる喜び。切なさは残っていてさえも。この時の切なさはもちろん喜びが消失させる試煉には属さない。おそらく体験の中の現実を再構成して把握している残像に関わっているものだ。



20150209
 自棄(やけ・じき)も、怒りの一種なのだろう。そして、自暴自棄に駆られた行動を取るという事象も、怒りに駆られた行動を取ることの一種なのだろう。自分自身への、あるいは受け入れられない運命への怒りに駆られた行動の選択。

 しかし、そのような怒りや自棄に駆られた行動を選択することはもちろん受け入れられない運命との闘いではなく、その受け入れであってそのような受け入れられない運命に「勝利すること」がありえない行動の選択になってしまう。

 一瞬の選択としてもありがちなことなので、つまらない名誉心あるいは名誉欲に駆られてそのために生涯を賭けてしまうような行動を選択すること以上にその危険性は高いと言えるかもしれない。

 怒りに駆られた行動を選択することは受け入れられない運命との有効な闘いを選択することではもちろんなく、その受け入れられない運命との闘いの有効性のためのまず第一の手段である認識あるいはその成果を放棄してしまう行動を選択すること。



20150208
 下記それぞれ、可能でありうる−何より今後人間としての共通的認識として形成させていきたい−把握として、

 兵力=軍事力と、警察力=警備力との相違は、前者は殺人目的又は殺人を含む目的での物理力行使で、後者は殺人の防止及び人間の健康な身体の確保目的での物理力行使。

 この観点からも、死刑制度と死刑執行は、警察力の範囲には入らない。

 武力は、兵力と警察力の両義を含むが、人間以外の生物への人間の健康な身体と生存の確保のための−その目的での−殺生(せっしょう)を止むを得ず含む物理力行使をも含む。

 日本国憲法上での場合、警察力の範囲での定義での武力の行使は禁止されていないと解しうるが、その範囲での武力の保有及び行使とされなければならない。



20150207
 共通的なほんの少しのでもの喜びあるいはその素材を体験の現実の中に発見すること、あるいはそのような喜びの残像を再構成把握することを、会話の素材などとしてでもよいにしても、できればそれ以上により意味のあるものとしてのそれを獲得すること、していくこと。・・



20150205-2
 死刑制度と死刑の実行も、友情と正反対のものの一つである脅しの一つだと把握することができる。
 (刑罰としての禁固、懲役、罰金などの刑は、死に直結するような苦痛やつらさを与える恐怖を与える脅しにはならない、とも。)



20150205-1
 体験の中の限りなく愛情に近い友情の総体が、それを把握できている限りで幸福であると把握できる。
 (自分自身の体験の中のとても−あるいは限りなく−愛情に近い、子供たちの残像を必須のものとして含むような友情たちの密度が−その質として−高いことを、幸福と把握してよい。
 友情「たち」、と言うのは、その現実や残像を再構成把握する際に現実や残像としての人間たちを関わらせて把握しているから。
 なぜ「愛情にとても−あるいは限りなく−近い友情は」であるのかは、喜びの質の点で。なぜ友情の範囲なのかは、自分自身とは別の人間がいなければ幸福はありえず、かつその人間は自分自身で自分自身とは別の人間だと把握できるから。)

 言い換えれば、その総体が人間らしさあるいは人間性。

 現在の部分的な人間らしさを手掛りにしてより全面的な人間らしい人間に自分自身がなっていくのに応じてより束の間のだけではないような、あるいはよりほんの少しのだけではないような幸福を獲得することができる。



20150204
  友情の正反対のものの一つであると言える脅しにかかわる恐怖は、何よりも自分自身の生存が維持できなくなるほどの苦痛の原因となるものや、その再構成して把握される残像などを手掛りにしてその原因となるものからの忌避の選択をするために、自分自身の身体の感覚経 [私の造語ですが、中枢も末梢も含む神経のこと] に生まれつき保持されている、そして体験からの−必ずしも言葉によって把握されているものではないようなものを含む−認識に基づいてその残像が把握されることになるその忌避選択のための現実的な証しである、と、把握できます。

 この認識は、Home − 追加的ノートメッセージ − 「生きる術(すべ)としての友情は」の項目の末尾に書いていた文章で、ただそのような認識が可能だというだけの文章ですが、ここにも引用しておきたいと思います。・・

 さらに追加して言えば、軍事訓練とは、殺人のためのそのような恐怖や苦痛やつらさを自分自身の体験の中での再構成把握残像として把握する力を、物心付く前の幼児のような水準に近づけ、しかもそのような恐怖や苦痛やつらさを与える力が兵器 − 小はナイフなどから大は核兵器までのそれら − を使用する大人の水準のものとして持ち続けられるように訓練することではないか、と考えられます。



20150202
 《人と微笑(ほほえ)みあうたびに必ず健二さんのあの大きなBig Smileを思い出すでしょう》
 《(後藤さんは)憎しみを超えて人と人が分かり合えることを信じていました》

 本日、インターネット、msnニュース、朝日新聞デジタルの記事の中の言葉から。
(「米ニューヨーク在住の映像制作会社代表、西前拓さん(52)」から「1日」、「交流サイト『フェイスブック(FB)』の『I AM KENJI』専用ページ」・・に「投稿」された言葉。)

 −とびきり美しいその−特に子供たちへの−友情とそのレポートたちとともに。
   _後藤健二さんからのレポートとメッセージ



20150201
  インターネット、YAHOO JAPAN!ニュース2015年2月1日記事から。

毎日新聞 2月1日(日)16時45分配信

<後藤健二さん>注目集まる過去のツイート

広がりを続ける後藤さんのツイート=後藤さんのツイッターより

 イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)とみられるグループが、ジャーナリスト、後藤健二さん(47)を殺害したとする映像がインターネット上で公開された後、ツイッター上で後藤さんの過去のツイートが広がっている。

【写真特集】ドキュメント2.1 後藤さん殺害か

 「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」(https://twitter.com/kenjigotoip/status/23238345864?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter)。中東取材も多かった後藤さんが2010年9月7日に自身のツイッターアカウント(@kenjigotoip)で発信したツイートだ。1日午後4時現在で8000回を超えるリツイートがあり、ツイッター上で拡散が続いている。

 後藤さんは同年12月2日のツイートでも、ジャーナリストとしての使命感を記している。「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人の愚かさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸が締め付けられる。声に出して、自分に言い聞かせないとやってられない」(https://twitter.com/kenjigotoip/status/10010282252304385)。このツイートも1000回以上リツイートされており、後藤さんの過去の発信に注目が集まっている。【石戸諭/デジタル報道センター】



20150130
 想像されたものとは、基本的に「自分自身の体験の中の現実あるいはその自然的なあるいは再構成して把握される残像を再構成して、自分自身の体験の中に把握したその残像」である、ということは認識しておくべきだ。ほんの少しのまたほんの束の間のだけではないような幸福を獲得することに関する認識として。

 他者の体験の中のことを想像する場合であっても。

 想像力とは、想像されるものをそのように想像するその力であるということも。



20150129
 他者の現実の姿形や表情などから自分自身の体験の中の現実に近いものとして把握するような、他者の体験の中の恐怖や苦痛やつらさを、また反対に他者の体験の中の喜びや幸福を、自分自身の体験の中での再構成把握残像として把握する力は、ほんの少しのあるいは束の間のものだけではないような幸福の獲得のために必須の友情の要素になるものだが、その力が物心付く前の幼児のような水準である場合であってしかもそのような恐怖や苦痛やつらさを与える力がそのような大人の水準のものとして持っているような場合、また、怒りや憎しみに駆られて、あるいはそれらと合わせても軍事訓練などでそのようなそれぞれの水準の力になるように訓練されたその結果が生じた場合、そのような幸福の獲得の機会は壊滅的になる・・。

 人間性(人間らしさ)とは何よりも自分自身の体験の中の友情で、反人間性とはその自分自身の体験の中の友情を裏切ること。



20150128
 幸福そうなら一応でもそれでよいものとして幸福のディテール(要素)として、そうではないようならそれでもそれをほんの少しのでものあるいはほんの束の間のでもの喜びあるいは幸福を得るための認識の素材のようなものとして、限りなく現実に近いほんの少しのでものあるいはほんの束の間のでもの喜びあるいは幸福の、その現実から再構成把握するその残像としてでもよいのでその獲得を狙って獲得していく取組みの(その結果の)中に、基本的には「新たな現実的なもの」を獲得していくような取組みを試みていくこと。

 ほんの少しのあるいはほんの束の間の、さらにはほんの少しのあるいはほんの束の間のだけではないような喜びや幸福を獲得するためには、一人二人の人間の体験の世界の中のことなど問題ではないのではなく、一人二人の人間であってもその一人一人の人間のその体験の世界の中のことが問題であるべきであって、その一人の中に自分以外の人間が、それが誰であってさえ含まれているべきであると言える。

 自分以外の人間の体験の中の世界は、自分自身の体験の中の世界の現実の再構成把握されたその残像のようなものとして把握するしかないのだろうが。



20150116
 心惹かれる対象からの、基本的には現実的なそのような人間の作品からの、ほんの少しでもの幸福を身体の中に獲得して蓄積していくような(焼き付けていくような)取り組みにおいて、現実的な対象を心の対象にし難い時間におけるそのような対象の残像の再構成把握を通しての獲得と身体の中へのその有効な蓄積をしていくような取り組みは、現実的な対象を心の対象にすることのできる時間における現実的なそのような人間の作品からのほんの少しでもの幸福を身体の中に蓄積していくような取り組みを通してでしか、「より」有効なものにはならず、なっていかないと考えられる。

 と共に、現実的な対象を心の対象にし難い時間におけるそのような対象の残像の再構成把握の取り組みの成果それ自体も、その成果が結果的にどんなにわずかな零あるいはマイナスと把握されるようなものでしかない場合があっても、そのような時間におけるそのような対象の残像の再構成把握を通しての獲得と身体の中へのその有効な蓄積をしていくような取り組みによってでしか有効なものとして獲得できないと考えられる。言い換えれば、「その時それが全てである」とも考えられる。

 さらに、それらの時間の中でごく例外的偶然的な幸運なと感じられる出会いがありうるとしても、ただ両方のそのような取り組みの中でしか、有効なものとして獲得できないし、それらの中でごく例外的偶然的な幸運なと感じられる出会いがありうるとしても、ただそのような取り組みの中でのみ獲得できたものとしてその対象の一部になっていくものだとも考えられる。

 自分自身の場合では。



20150106
 「金縛りが起こったら、目だけは動くレム睡眠の仕組みを思い出してみましょう。あわてずに、意識的にまぶたや目を動かす、夢の中で何かを見つめようとすることで、早く抜け出すことができます。」という、新聞の解説記事がありました。

 実際にそんなことができるのか、また本当に効果があるのか、テストはまだですが、機会があったらしてみたいと考えています。

 「(金縛り)・・これはレム睡眠の仕組みと関係があることが分かっています。・・犬や猫を飼っていると、眠っている時の姿勢には2種類あることが分かります。
 ・・ノンレム睡眠・・脳は休んでいるのですが、姿勢も保つための仕組みが働いて筋肉は脱力しないため、行儀良い姿勢を保って眠っている状態です。
 ・・レム睡眠・・脳は完全には休んでいませんが、脊髄で運動の指令が遮断され、つまり体のクラッチをきることで、筋肉を完全に休めている状態です。・・」

 (上記「」内部分は、『山梨日日新聞』2015年1月5日付「人間と眠り」の連載解説記事の抜粋をしたものです。日本大学医学部教授である内山真さんの解説記事。記事全文の方が分かりやすいので、コピーを掲載させていただきます。(『人間と眠り−10』)

 ノンレム睡眠は、感覚経(私の造語で、神経のこと)、特に中枢部を休ませる取組み(睡眠)であり、
 またレム睡眠は、筋肉を休ませる取組み(睡眠)であり、
 体を休ませて睡眠態勢に居るとある程度自然にその仕組みが−「交互的に」という記憶があります−働くようになっている、のだろうと思います。

 どんな拍子に金縛りが起こるのかは、冒頭に、「寝入りばなや眠りから目覚めるときに」と述べられています。
 体と心のどちらかが、あるいは両方が疲れているときが多いのだろうとは推測できます。



20150104
 特に心を惹かれる対象の、再構成把握残像の体験の中への記憶方法として、何らかの関係を持たせて−というこのことも一つの再構成把握残像の再構成把握だとしても−中枢や末梢を含む感覚経(神経のこと)を含む身体の中に蓄積していくような取組みが、可能であるように思われる。多少のテストをしてみても。再構成把握残像の把握そのものが身体の働きの結果でもあると考えられるのだから、その可能性もあるのではないかとも思われる。
 (友情や信頼のことはもちろん、お金や資本のこともその対象の中に含めて。)



20150101
 ごく個人的なことなのかもしれない、そして個人的な体験の再構成把握残像の再構成把握に関わることなのだが、一番心惹かれる複数的なものでもの対象を恒常的に心の対象にしていってよい、と考えられる。
 (今年も年賀状をいただけたこと、も含めて。)
 これを、いろんなことに迷う時の恒常的な出発点にもできる、とも。
 意識してみると、あるいは、気がついてみると(しっかり目覚めてみると、というべきかもしれない)、自然のままでの再構成把握される体験の残像の再構成把握対象が、くだらない(意識すれば自分でも質が低いと思える、本当にそれが楽しいわけではないような)、あるいは時機には全然外れている対象であるにもかかわらず、それに引きずられるようにして夢中になってしまっているような時間が少なくないことへの対応方法としても。



20141228
 「ニュースは、基本的にニュースメッセージであり、商品(広い意味での、公的サービスなどを含むような意味でのそれ)が売れるか、そしてさらにその根底的なものとしては経営が維持できるか(基本的に何より目標値としての資本維持をしていけるか)、さらには資本蓄積ができるかということと、世界の人間社会(その一部も全体的なものも含む)の質を変えられるかの、両方が、その発信者たちに、基本的な動機として存在している。自分自身がそれで楽しいかそれで幸福か、も存在しているが、前二者に(少なくとも技術的に)従属的だ。そうでなければ継続しないので。また、経営維持の動機はこれも同様に恒常的に必須だ。」という認識を把握できる。

 例示として、通信社の記事というニュースメッセージ、それを引用したりもしている新聞記事というニュースメッセージ、webでの「スタジオジブリ」及びその仕事からのニュースメッセージ、新聞記事を引用したりもしているgoogleやyahooやlivedoorなどのwebでのニュースメッセージ、webでの2チャンネルなどのニュースメッセージ、さまざまな司法書士行政書士事務所からのニュースメッセージ、当事務所からのサイト運営ノートメッセージや当事務所の仕事からのニュースメッセージなどについて。

 すべて、その運営者たちのニュースメッセージ。それらの中から、人々が−日本に居る人々が、また外国に居る人々が、それらの多くの人々が−何を選んでいるか、また選んでいないか。ネットで、テレビで、新聞で、週刊誌で、月刊誌で、ボスト投函紙で、新聞折込紙で、を検討して、把握して、「当事務所の仕事からのニュースメッセージ」を、掲載していくべきだ。どの程度のものにできるか、今後の課題として。



20141227
 経営は、その最小組織単位が(被扶養者部分を除く)各個人である人間の経済的な条件を確保していくための取組みだが、各個人から、束の間のだけではないような幸福を獲得していく取組みにおけるその位置づけを把握すれば、その(「足場(のようなもの)」と言うよりさらに)「恒常的にそれを−基本的に物質的に−支えていくもの」を確保し維持していく取組みに該当すると認識できる。そして、そのように認識していくべきだと思われる。
(足場あるいは物質的なその支えがぐらついていたり倒れたりすれば、そのような幸福の獲得は極めて困難になる、そのようなものとして。)

 そして、経済的な条件は、各個人のそのための「土台(のようなもの)」に該当する(その中枢も末梢も含む感覚経 [私の造語で、神経を指す言葉]の健康を含むものとしての)「身体の健康」を−実践的には束の間のだけではないような幸福を獲得していくために必要で有効な限りで−確保していくための基本的な条件だと認識できるし、認識していくべきだと考えられる。

 これらも、当たり前と言えるのかもしれないが。



20141219
 体験の意識の中に意識の対象とする作品(現実的なものも残像的なものも含めての作品)からの体験の質を高めるための蓄積をしていくことが可能になるのかどうか。たとえば、確かに高まると感じられる−高いと感じられる−そのような作品の把握を通して。

 さらに、その作品は、作者、翻訳者などの生身の人間の作品であること、そしてそこでのその生身の人間も一つの作品として感じて(把握して)いくこと、このことも不可欠的な要素として。辞書の言葉でさえ、生身の人間の作品である。

 (体験の意識の中に蓄積をしていく、という場合に、それが−その蓄積が−可能だとすれば、それに伴うなんらかの身体的・物質的変動のような蓄積は生じ、生じていくのだろうが、ここでは−「認識」の範囲には限界付けられない、[かつ、現実の体験やその意識の対象の、残像の再構成把握におそらく大きく関わっている]「実践的な取組み」が可能でありうる場合のその実践的な取組みの問題として−その限りの問題として−である。)

 (自分にとっての)亀鑑的作品の作者はみな−少なくとも第1段に書いたことについては−少なくともこれを実践してきていたあたりまえのことなのかもしれない。認識として把握して、ではなくても。

 以下20141220付記。

 時や時間それ自体が体験の意識の中あるいは体験の意識の対象の中に存在しているわけではないのとたぶん同じように、体験の喜びや幸福の観点からの体験の質の高さ低さそれ自体が(体験の質それ自体も)存在してるわけではないことは、認識しておいて。

 また関連して、幸福に−それも、束の間のだけではないような幸福を獲得して−生きる術(すべ−means)のこととして以下。

 日本語で、神経と呼んでいる対象は、私の造語だが、「感覚経」と呼んだ方がやはりより適切にそれを把握できると考えられる。こなれていない言葉だが。英語的に言うと、これも私の造語だが、nerve ではなく、own sense fiber  さらには own sensor とでもいうような言葉で。
 人事(ひとごと−他人事)ではなく、それぞれ生きている生物としての自分自身のことにそのように − 感覚さらには感情や情動(感情に接し、感情とは区分されるような部分としての)を伴って − 関わっている対象としてのそれに名付ける言葉として。
 また、価値評価を伴わない−喜びとつらさとの価値評価でニュートラルな−言葉として。

 中枢(脳部)感覚経、末梢感覚経、諸感覚器官、その他身体内諸器官から発してくると思われる欲求等に基づいて特に中枢感覚経の働き−操作等−による感覚諸器官の感覚対象の残像の再構成把握(言葉とその意味を含み、記憶と認識に関わると言える、さらには、ことによると意識の保持にも関わっているかもしれない − あまりにも衝撃の強い[但し生きている限りでの]現実の感覚の対象だけでなく、その残像の消極的なものであっても再構成把握される残像によってさえ逆に意識を消失させてしまうというような事象を含めての − それ)と、それに大きく関わっていると思われる感情や情動、など。
 さらに、随意感覚経(意識に直接的に関係していて、意識によって直接的に操作等可能な感覚経)、
 不随意感覚経、あるいは自律感覚経(意識とは直接的には関係していないでそれ自身で操作等していると考えられるような感覚経)、
 平衡感覚経(たぶん随意と自律の中間的な所に位置づけられる脊柱と頭部[特に中枢的感覚経としての脳]に関係する身体運動の平衡に関わっているような感覚経)、
 反射感覚経(たぶん不随意感覚経に属する反射的身体運動に関係する感覚経)、など。

 それらが基本的にすべてネットワークを組んで−ネットワークに組まれて−働いているとも言える。
 代替的感覚によるその対象の把握は、このことに関わっているのかもしれない。

 また、実践的にはほとんど意味のない分類把握だと考えられるが、感覚経過敏質、感覚経鈍感質(これは、「神経鈍感質」と呼んでも、造語になると思われる。)、感覚経敏感質、感覚経平均質(これらも造語になると思われるが。)など。

 さらに、「慣れ」という事象(体験の中の現実の出来事)など。(痛みやつらさや恐怖などだけでなく、喜びや幸福についてもありうるものとして、「神経」が慣れてくる、と言うことはできるが、「感覚経」が慣れてくると言った方がより適切に把握したことになる。)
 (逆に)筋肉疲労と同じように感覚経疲労というようなものがこれに関わって在るのかもしれない。

 体験 (英語的な私の造語だが、midperience )の中には、試煉 (trial) − 受け入れられない運命(disteny)といってもよいもの − への遭遇の要素が基本的に恒常的に含まれていて、束の間のだけではないような幸福の獲得のためにそれと闘っていくあるいはそれに上手に対処していくためにも、このような言葉で把握した方がよいと思われる。



20141212
 生身の−少なくとも物心付くようになってからはその人が自分自身で作り上げてきたとも言える人生を生きている人間自身のその生きている人間自身であるというその−作品と、生身(の人間)以外の作品との関係については、生身以外の作品は、生身の作品としての−他者を含む−人間の生きているその体験の中で初めて生きるものであって、生身の作品の中でしか生き得ないものと言っても良いのではないかと思われる。たとえどれほどそれが生き生きしていても・・。

 人間自身もその部分を含んでいるものだろうが、大気や、水や、木々の緑や花弁や、木漏れ日や、動物たちを、それら自身あるいはそれらを全体として把握しての体験の中の自然を、作品と言えるか、については、作品というより作品の素材あるいはディテール(そのものとして構成要素になるもの)と言うべきだろう。少なくとも実践的には。

 作品もまた、生きている人生の−体験の−中のその喜びや幸福の素材あるいはディテールあるいはそれらの一つ一つだが、生身の人間たち自身が作り上げた−たとえその中に偶然的な要素が含まれるにしてもそう言える−ものであり、自分自身のと共に、他者の人生の−体験の−中のその喜びや幸福の素材あるいはディテールあるいはそれらの一つ一つになりうるものである。(ここでは、幸福は、喜びの要素の密度が人生の中で−束の間の時間であってもそれをも勘定に入れて−高いこと、と考えて。)

 動植物が「生きている」ことは当然だが、生身の作品としての人間の体験の中で初めて生きているものでもなく、生身の作品としての人間自身の体験の中でしか生き得ないとは言えないにしても、生きている動植物が生身の作品としての人間自身が作り上げていく作品の素材またはディテールまたはそれらの一つ一つになりうると考えることはできる。



20141204
 ほんの少しのあるいは束の間の幸福あるいは喜びだけではないような喜びあるいは幸福の獲得への取組み自体が困難な時間、繰り返しそのような可能な喜びあるいは幸福を基本的にはあるいは多くの場合再構成把握しての残像として体験させることを通してその取組みの力を回復させること。たぶん傷を負った動物がひらすら休養を取って回復を待つように。(なお、心の休養を取ることは、基本的には体験の現実の残像の−ある程度自然的なものも含む−再構成把握をしないことと、わずかでも喜びに関わるそれであれば受け入れていくことだと、そして一言で言えば、残像の再構成把握についての休養だと言って良い。少なくとも自分の場合。)

 一番力になるのはやはり、一番愛情に近い友情あるいは一番友情に近い愛情の対象としての人間自身であることは確認して。

 なぜなら、実際にそれでおそらく生きていく限りは回復するし、それ以外に適切な方法を少なくとも現状では見出しがたいから。単純に。



20141203
 疑問の残る形でも、自分にとって分かりきっていることではなく、基本的に新たな意味のある−有効性のあると考えられる−ものだけを記載すべき。基本的に職の仕事としてはではない部分でだが、自分自身でもより有効性の高いものにするために読み直しをすることがし易くなると思われるので。



20141127
 少なくとも自分自身の場合では、鏡や写真などに映った自分自身の−「身体」の、と言ってもよいかもしれないが、感覚や感情や欲望や意思や再構成把握している現実の残像などの「心」もそれに写っていると考えられるのでそのような心と、その心は目的を持つものとして行動しているものであってその行動は相対的に心とは別なものとして把握できるのでその行動も含み、そしてそれらのたぶん原因でもあり結果でもあるような身体をも含む−全体の、自分でと共に他者から見ての−あるいはその代替的感覚対象としてのものがありうるとすればそれの−「現実」と、その−基本的には再構成把握をしていると言えるその−残像の占める割合が、よくも悪くもとても大きいことが認識できる。

 少なくとも自分自身の場合、他者の表情や眼差しから受けるその−鏡や写真などに映った自身の、自分でと共に(おそらくは子供の頃の「・・ごっこ」 遊びやロールプレイの取組みなどの、「つもり」ないし「pretend」の実行などにより把握されるような自分自身と他者の残像を置き換えてみる再構成把握をするその残像としての)他者から見てのものとしての−あるいはその代替的感覚対象としてのものがありうるとすればそれの−「現実」と、その−基本的には再構成把握をしている−残像の影響効果の占める割合がとても大きいので、他者に対しても、他者を−特に友情ないし愛情の対象として把握することの多い他者を−他者である対象として把握するその接点であり接線であり接面としての要素としての度合いが大きいものにそれらの現実とその(再構成把握)残像がなっている、ということも認識できる。

 これらの結論的に、自分自身の場合、自分自身でと共に他者の表情や眼差しから受ける他者から見てのものとしてのそれらの現実とその再構成把握残像のより適切な再構成把握の取組みは恒常的になされていくべきものであるということが言える。

 言葉を使っての取組みも、そして、その他の取組みもすべて、その中でくらいに。少なくとも現時点では。



20141126
 実践的に、記憶が、20141123付ノートメモのように現実の体験の残像の再構成把握力であるとすれば、そして(感覚的な痛み以上につらいものでも、その逆も、ありうる)感情もそのような記憶の対象になるとすれば、さらにその「記憶」を(ほんの少しでもの、さらにはそれ以上の幸福に向けて)鍛え育てることができるとすれば、そして現実の視覚的・聴覚的等々の対象のほかにも、言葉を読み、また心の中で読むことないし暗誦することによって聞くことなどを手掛りにするほか、基本的にはそれらの残像を手掛りにしてだろうが、(たとえば誰か他の人の身近な存在を介して、というようにだけではなく)直接的に(現実の体験の中の)感情の残像の記憶力(再構成把握力)を鍛え育てることができることになる。

 このことに関して、菊池寛訳の 「青空文庫」 の 『小公女』 の中で「つもり」という言葉で表現され、オリジナルのバーネット自身の "Project Gutenberg" の "A Little Princess" の中では、"PRETEND" という言葉で表現されている取組方法があり、この時点で以上のように考えて再度検討してみると、それは「意味がある(有効性がある−かもしれない−)」ものであるように思える。
(『小公女』の電子テキストで、「つもり」を検索すると67箇所、"A Little Princess" の中で "PRETEND" を検索すると50箇所出てくる。)



20141123
 現在の時点で実践的に、まず人間にとっての記憶は、(造語ですが)「感覚経」と名付けることができると思われる−中枢も末梢も含む−神経組織の持つ、筋肉や臓器や骨格や皮膚などの身体内の他の組織に制約されてないしはそれら組織との関係を持ち続けている中でのその諸感覚の「現実」の対象の「残像」を、体験の中に「再構成(して)把握する力」だと言えないかどうか。

 少し言葉を添えて言い換えれば、健康に、さらには幸福に生きるために−なお、このことの認識は思い起こされて把握されているうえで、あるいは少なくともその欲求は残されているうえで、であるが、そのために−必要で有効な諸感覚の「現実」の対象の、その「残像」を「思い起こす力」だと。

 その、諸感覚の「現実」の対象は、もちろん(それまたはその代替的感覚が人間の場合重要な比重を占めているとしても)視覚的なものに限られない、また身体的精神的健康や幸不幸に関わる快さや痛みなどや喜びや悲しみなどの感情などのありようでも有りうるものとしての、さらには体験の中ではたとえば現在の感情は現実の感情であると把握できるにしてもその中の過去の感情を区別することが−一応でも−できる場合もできない場合もあることなどを考えてみても現実の対象か残像かは相対的なものでもありうるが、実践的に区別すべき−そして区別できる−範囲内での「現実」の対象のこととして。

 そしてその残像は、それに対応する「残像」のこと、として。

 そして、記憶の容量は体験的に見ても限界付けられていると考えられるので、記憶をそのような−健康に、さらには幸福に生きるために必要で有効な諸感覚の「現実」の対象の、その「残像」を思い起こす力である−と認識において把握して、何よりもそのために−つまり健康に、さらには幸福に生きるために−という観点から−必要で有益な記憶を育てあるいは鍛えていくことは−このこと自体は体験的に見てその能力は老衰化によって衰えていくことがあるとしてもそれ(老衰化による衰え)との相対的な観点からでも一応可能なことであると考えられるので−、記憶に関して選択していくべき有効な一つの方法、ないし選択していくべき一つの有効な方向性になると考えられる。

 さらにこのことに関しても認識は、何よりも健康に、さらには幸福に生きるそのためにその時の現在時点でその必要で有効なものとしての記憶が−たとえ漠然としたものとしてであっても(そして認識されているその限りにおいて必要性や有効性によってさらに明確にすることもできるそのようなものとして)−再構成把握されている(思い起こされている)そのような(必要で有効な体験の中の諸感覚の現実の)残像であると考えられる。

 加えて言葉は、そして文字に表記された言葉も、それを学び使用することが認識のための必要で有効な手段であるのはもちろん、その記憶の−その残像を再構成把握する力の−育成あるいは鍛練をするための(単に補助的な手段としてだけでなくおそらくその意味内容を−再構成して−把握することそれ自体を通して直接的にも)育成しまた鍛練する結果にもなる)有効な手段でありうる。

(以上、まだ十分に整理された言葉で述べることができていませんが。)


20141110
 目的と手段とのそれぞれの実践的に把握する位置関係は相対的でありうるが、最終的なないし上位の目的とその手段との位置関係の把握は、恒常的に、四六時中確認していくべきものだと考えられる。

 どんなに重要な手段であっても、その位置関係を逆に把握している限り−あるいは、その手段の上位のないし最終的な目的との位置関係を把握できているのでない限り−、その目的に対する有効な成果は得られないからだ。

 これまでの人生の、ほとんどの時間において、適切とは言えなかったのではないか?


20141020
 「こつこつと」(すなわち、相対的に長い時間持ち堪[こた]えて)取り組むことが−もちろんより有効な認識がその中でも得られてそれを活用できてよりよく克服できる時のその活用を当然に含めてであるが−、効果が全然見えないような困難な時間には特に、必要で有効であること、を確認しておくこと。



20141019-1
 体験の中で亀鑑的作品そのものを直接対象としての−それに接しあるいはそれに触れての−取組みからは遠ざかっての、それ自体がマイナスの−否定的な−要素であると感じるようなその時間の取組みにおけるそのマイナスの要素を含めて、「束の間のあるいはほんの少しのだけではないような幸福」の獲得のためにマイナスの要素と感じる要素については、そのそれぞれに相対的に特有の−と言ってもよいと考えられる−美しい(体験の中に快く訴えかけてくる)対象を見出して把握していく、という方法が考えられる。

 たとえば、身体的痛みに対して、医療的治療それ自体や、それに関わるその「系」としての−優しい言葉かけなどの−取組みがそうであったりするように。

 亀鑑的作品そのものを直接対象とする取組みからは遠ざかっての取組みでは、その作品の再構成把握残像に接しあるいはそれに触れていくことを伴わせての取組みは、可能でありうる。

 以上、「忘れるように」という方法−しかないような場合もありうるにしても次善あるいは最後の選択肢として−より有効な取組みとなりうる。


 (20141105付記)これについては、特に「体験の中で亀鑑的作品そのものを直接対象としての−それに接しあるいはそれに触れての−取組みからは遠ざかっての、それ自体がマイナスの−否定的な−要素であると感じるようなその時間の取組み」そのものにおいては、常に、そのような(「束の間のあるいはほんの少しのだけではないような・・」)幸福のディテール(構成要素)の獲得の−それを創っていくような−取組みであると把握してその取組みをしていくべきだ。

 なぜなら、亀鑑的作品もそのような幸福のディテールの最良の一つ一つだが、その時の状況においてそれらの−最良の一つ一つの−現実の、あるいは再構成把握してのその残像という現実の把握は、なされており、(その質の観点からと言ってよいと思うが)それに追加されるディテールを獲得して−創って−いく取組みとして把握できるからだ。
 (目的を言葉でより明確に言えるようになったからだ、とも考えられるが。



20141018
 その人にとって一番美しい一瞬の現実、あるいは一番美しい時間の現実の一つ一つは、その人にと っての−自然という現実の中での−一番目の亀鑑的作品の中から獲得していくのが一番確率の高い方法だと思われる。少なくとも自身の場合では。

 写真・絵画・彫像・映画・アニメ・演奏・物語や小説・詩・特に子供にとってのマンガ・さまざまな(含め得るとすれば哲学や倫理学や数学などを含む論文で表示されるような)科学的技術的認識という作品・さらに、人間そのもの、など。

 その人の亀鑑的作品が、何より、世界の誰より一番資本蓄積ができている時間の現実であるという人もあるにしても。



20141012-2
 束の間のだけではないような幸福を獲得することにかかわる、「体験」・「意識」・「意思」・「行動」などの、個人的な(自分自身の場合での)実践−すなわち、生き方、あるいは生きる術[すべ]−の観点からの一応の定義。

 意識は、体験の世界の中の、身体内の感覚の総体(と把握してもよいのかもしれない)。その意識や感覚の、対象は、含めない。

 体験(あるいはその中の世界全体)は、その意識や感覚の対象を含む。

 意識や感覚の、現実の対象と、意識や感覚が把握するその現実の対象の残像とを、−それが相対的なものでありうることは把握したうえで(つまり、体験の世界の中で、或る現実の対象の残像も、それを把握している限りで[さらには明確に把握されていない漠然とした印象でさえも一つの現実だと言えると思いますが]、体験の世界の中での一つの[別の或る]現実の対象だと把握することも[これも、定義の仕方によってそうではないと把握されうるにしても、]できるので−)、区別することができる。

 話された言葉や、録音された言葉や、書かれた言葉は、それを聞き、あるいは読む場合には、意識において、聴覚的なあるいは(今日では基本的に)視覚的な−かつ基本的には物質的な−その音声あるいは文字である言葉という「現実」を対象として把握する(聞く、あるいは、−心で、すなわちその文字によって社会的に共通的に把握される音の残像を意識において把握しながら、の場合を含めて−読むなどする)ことになると同時に、その言葉がその−社会的に共通的に把握されている−意味・内容として示すある現実の(基本的にはその時の意識が何らかは再構成−reform−して把握している)「残像」を対象として把握する−そして把握される−ことになる、ものである。

 意思(あるいは意志)は、身体内の、−末梢及び中枢の両方を含む、かつ「感覚経」と言ってもよいと思われる−「神経」外の部分(組織・器官と大雑把に把握してもよいと思われる)から感覚に働きかけている要素(信号と言ってしまってよいのかは疑問)を、神経が受け取って生じる感覚の、その総体であるあるいはその一部分である欲求が、その欲求自身(あるいはその欲求を持つ身体内の全体あるいはその一部分)によって基本的には意識の中に再構成把握されたなんらかの現実の対象の残像に照らして、基本的に意識内で自己制御している状態。

 行動は(現実の対象の再構成把握残像と、現実の対象あるいは別の再構成把握残像との照合を中軸的なものとして−かつ言葉を基本的に不可欠的に使用して−行われている「思考」を含めて)、意思の意識に基づくその意思の実行。

 欲望は、再構成把握に至らない、欲求に基づいていたりいなかったりして生じることのある残像に照らして、その限りで自己制御している欲求。主に、欲求と意思とに対比して−その間のものとして−定義されるもの。

 睡眠は、意思又は欲求に基づいて、神経自身とその他の身体組織とを休息−すなわち、生存に最低限度必要な範囲(非随意神経とそれに関わる身体組織に該当すると考えられる部分)に至る直前までをその限度に含めて、その活動ないし行動を抑えること−をさせる行動ないしその結果の状態。

 幸福の(不可欠の)構成要素である美しいもの(意識やさまざまな感覚に快く訴えかけてくるもの)は、身体内の全体と身体外の両方の対象が−その強度の点で相対的に(意識の点では片側が−基本的には身体内のものが−零又は限りなく零に近いような状態を含むような場合を含めてであるが)−同時にその対象になっている。

 身体内の全体あるいは一部分から意識が把握する−そして把握している−感覚の中の、全体あるいは一部分に、体験の(その対象としては基本的に)身体外の現実の対象の残像や再構成把握される残像に影響されている−いわゆる精神的な、と言ってよいと思われる−部分も合わせて含まれる場合があるものとして、そのつらさ(苦痛)の要素が恒常的に含まれる場合であっても(その継続が極度の場合は身体の生存自体が長続きせず無くなるので除き)、それを、束の間のものとしてであっても忘れる−ないし消滅させる−という−そのこと自体の−快さを得ることは、そのような−精神的なものを含む−姿勢と、そのような姿勢を作り保つ力(能力・エネルギー)を蓄えることにより、可能になるものである。
(このことは、人間の場合、脊椎動物であり、かつ基本的に活動時に脊柱が中枢神経を支えている身体構造を持っていることも関わっているのかもしれない。)
 これらのこと(認識)は、束の間のものだけではないような幸福を獲得して生きるうえで、出発点の一部になるものだと思われる。



20141004-2
 基本的には「限りなく友情に近い愛情あるいは限りなく愛情に近い友情」に属するものだと思いますが、また、体験の中の『世界』そのものに対しても言える−ことになる−ことだと思いますが、「朝から晩まで一日中愛し得る」という言葉と同じような意味になる、「束の間のだけでないような幸福を体験して生きる」という、そのような幸福の、基本的には恒常的な欠如ないし不足と、それへの対策に関わる創意工夫の一つのこととして、

 (多くは精神的なきっかけがあってのことだと思われるにしても)自分自身の「身体内」的に、気分や情緒や感情が沈んで、自分自身(だけ)で有効な対応策が取れないでいる時に、誰か、身近に−あるいは一緒に−居るとそのことによって−相対的にでも−浮き立つことになるような人は−少なくとも自分自身の体験として−いる−そしていた−ので、そのことの−その現実の−(再構成把握)残像を再構成把握するようにして、という取組みが力になるので、このことは認識しておきたい。



20140929-2
  「今、他の学習塾にはない教育法で話題になっている『花まる学習会』。ここは、小学校低学年をターゲットに、受験のための詰め込み式のような勉強ではなく、将来『魅力的な人、そしてメシが食える大人』になることを目指し、思考力・国語力を中心に学ぶ意欲を伸ばすことを教育指針とした学習塾だ。

 花まる学習会は口コミでひろがり、今や、在籍者は16000名以上。オリジナルテキストだけでなく、その考え方が受け入れられ、塾を誘致したい親たちが自主的に保護者会を開くまでになった。会は大きくなったが、いまだに高濱氏は現場で子供達を教えている。

 今、一番力を入れていることを聞くと、『公立の教育を変えたいと思っているんです。試験に生きる勉強はしているけれど、社会で生きる、人間と人間のあいだで魅力的に生きるという教育がなされていない。今まで塾で培ったノウハウを活かし、モデルケースを作りたいですね。』と話す」
 (日本行政書士会の月刊誌『日本行政』2014年10月号、「中小企業列伝〜明日を支える小さな巨人たち〜」から。)(「花まる学習会」)



20140929-1
 「リベリア人医師ジェリー・ブラウン・・・エボラ出血熱の感染拡大で最多の死者を出しているリベリア。プラウンは首都でも数少ないエボラ治療センターを備えた病院の院長としてエボラとの闘いの最前線で指揮をとる。・・・ 感染の恐怖は片時も消えない。・・・

 感染者からの女児誕生はまさにその希望の光だった。翌日の感染検査で、母親は陽性だったが、娘は陰性と分かった。
 母親は娘を『プリンセス』と名付けた。『大きくなって自分の生まれた日の話をみんなに聞かせてほしい。それを考えるとうれしくなる。』とブラウン。『エボラは治る。』という彼の言葉どおり、母親は回復し、9月半ばに娘と退院した。看護師らは女児を『エボリン』と愛称で呼び、拍手と笑顔で見送った。」
 (共同通信配信に基づく2014年9月28日付け、山梨日日新聞の記事。右は、記事本文。最大画面にすると−さらに+ボタンを押すと−少し読みやすくなります。当初、上記のテキストの引用だけで済ませようと思ったのですが、記事本文はどうしても欠かせないと考え直しました。)(「リベリア-エボラ最前線」。)



20140927
 その時に必要で有効なのは分かっているのに気乗りしないで具体的な取組みができないことへの対応方法について。

 目的としているその取組みの結果の、(再構成把握)残像の再構成把握をする取組みから始めて、その結果として取り組むように。また、さらに、目的としているその取組みの結果の再構成把握残像の再構成把握をする取組みは、そのための具体的な取組みをするためにこそ取り組まれるべきものだ、ということを認識して。

 (少なくとも私自身の場合。但しそういう方法で具体的な取組みを始めることができるようになる人も、少なくはないのではないか。以前、このノートの中で、「意思化(意志化)」とか「実践化」などの言葉で考えていたことの、より具体的な内容−方法−として。)

 その取組みの結果を「想像する」(あるいはイメージする)と言わないのは、その取組みの結果が、単に想像されたもの(あるいはイメージされたもの)ではなく、現実的なものであることを、明確にしておきたいから。つまり、その「(再構成把握)残像の再構成把握」の取組みによって把握しているのは、実現されるべき現実的なものの、その再構成把握された残像であることを明確にしておきたいから。

 さらには、ある意味で(見方を変えれば)現実的なものとして、体験の世界の中にすでに存在しているもの(部分)が、再構成されてより多くの部分に実現されるようにする取組みであることを、明確にしておきたいから。



20140926
 認知症化と老衰化と、身体内と、身体外(但しそれぞれ体験の世界の中のそれら)ということについて。

 認知症は、病い(症状が類型的に把握できる、身体内に生じる、人生を幸福に生きるという観点から基本的にマイナスの要素であって、その原因も身体内に関わって存在していると把握されるもの・・・)の要素もあるにしても、老化に伴う身体内に属する要素の働きの衰弱化という要素も関わっているものだと把握できる。
 「認知」は、ここでは「認識」とほぼ同じ意味と考え、病いによる認知症化もその対象に含めて考えてみる。
 いかにして、それら−認知症化と老衰化−を抑える取組をしていくべきか、というその方法について。

 身体外の、(身体内に属する要素であると把握できる−障害のある場合の代替的なそれらを含めての−感覚などに対して)快く訴えかけてくる対象−つまり、身体外の美しいというような言葉で把握できるような対象(現実の他者の姿形や表情や姿勢や、ふるまいや、作品の創作という行動などを含む−つまり人間たちのそれらの要素を含むものとしての−それ)たちや、それらの−視覚的なものに限られない−残像たちに、体験の世界を近づける−実践的には、それらに近づく−という取組みが有効なのではないか。

 要するに、死ぬその時まで幸福でいるためにできる限り有効であると把握できる(そのような)取組みを続けていくことが、認知症化や老衰化の抑止への取組みにもなるのではないか、ということである。

 もちろん、病いに対する医療的な取組みは、可能で有効である限り当然に並行して取りくまれるべきものとして。

 関連して、記憶(力)は、体験の世界の中での現実的な対象のその残像の再構成把握(力)と言ってもよいのではないかと考えられるが、その−ような性質を持っていると把握できる−記憶(力)の老衰化への抑止の取組み方法としても。



20140913
 自分一人だけではあまりにも、さらには堪え難く寂しいと感じられる時のその寂しさは、体験の中で、何よりも −その度合いが強いものであっても友情を感じていたその対象がではなく− その度合いが強い −そして束の間のだけではないような強い幸福の源泉になっているという要素も含む− 愛情の対象が消失した時の寂しさであり、その愛情の対象が、自分自身のことはどうでもよいと感じられるような性質になっている時のものであってさえもやはり、自分自身の体験の中の世界でのことである。そのような問題として解決に向けて取り組むべきものである。
 家族や親族であっても、恋人であっても。生きている場合でも、死亡した場合でも。

 友情の対象が消失する時のその寂しさは、愛情の対象が消失した時の寂しさと重なる部分がありうるにしても、−各自自身が− 対象者との、おそらく、しかし間違いなくと思われるほどに相互的・共通的な−しかし異なるものである−各自の体験の世界でのものとして把握して感じているものであり、その意味で(共通的な問題として取組むことになるものなので)、互いの友情の度合いが強いほど、あまりにも、さらには堪え難いという要素が−おそらくその重なる部分に対して−少なくなるものだ、と思われる。
 それが、体験の中の世界の現実の友情の、その残像(としてのもの)であっても。例えば、小説作品その他の作品を読み、見、聴くことは、(新しい)認識を獲得するための取組でもありうるとともに、自分自身にとっての−作者や翻訳者や登場人物たちとの(愛情やその残像のような要素がありうるにしてもできる限り友情をという認識での)−その友情を育て強める取組でもありうる、と考えられる。



20140912
 『幸福だろう?』
 ピエールは黙って、うなづいた。
 『もっともさね。幸福は美しいよ。おれの分もとれよ・・・・』
 弟を当惑させまいと思ってフィリップは、滞在中、ピエールの年度の適齢者たちが近々軍籍に編入されることを ほのめかすのを避けた。しかし、出発の日に、彼は、自分が知りすぎるほど知っている試煉に、弟がやがてさらさ れるのを見る心配を表明しないではおれなかった。すると、若い恋人の顔を、かすかに暗い影がかすめた。彼は、 かるく眉をしかめ、しつこい幻しを追い払うかのように、目をしばたたいた。そして、いった。
 『馬鹿な!・・・・・もっと先さ!・・・・・わかるもんですか?』
 『わかりすぎてるよ』フィリップがいった。
 『とにかく、ぼくにわかっているのは』ピエールは、兄が強調したのにむっとしていった。『向うへ行っても、 ぼくは人殺しはをやらないってことですよ。』
 すると、フィリップは、別に反対しないで、悲しそうに微笑んだが、彼には、群集の不可抗の力によって、か弱 い人や彼らの意思はどうなるものかがわかっていた。」
(ロマン・ロラン作『ピエールとリュース』。角川文庫版での渡辺淳さんの日本語訳。)

 以下に、The Project Gutenberg EBook of Pierre and Luce, by Romain Rollandの
 Translator: Charles De Kay
 Release Date: March 7, 2010 [EBook #31542]の、
 英語訳。

 While they were returning Philip said:

 "Are you happy?"

 Without speaking Pierre nodded with his head − yes.

 "You are right, my boy. A great, beautiful thing is happiness. Take my portion...."

 In order not to trouble him, Philip during his furlough avoided making any allusion to the near incorporation of Pierre's class in the army. But on the day of his departure he could not prevent himself from expressing his anxiety at seeing his young brother exposed very soon to the trials which he knew only too well. Scarcely did a shadow cross the brow of the young lover. He drew his eyebrows a bit together, blinked with his eyes as if to drive off a troublesome vision, and said:

 "Enough! Later on! Chi lo sa?"

 "We know it only too well," said Philip.

 "What in any case I do know," said Pierre, vexed that he should insist, "is that when I am down there I for my part shall do no killing."

 Without contradicting him, Philip smiled sorrowfully, knowing well what the implacable power of the crowd does with weak souls and with their will.



20140907
  昨日、司法書士会で「事業承継」についての研修会があり、その関係データを探すために、中小企業庁のホームページで、「中小企業白書」を探してみましたが、電子テキストデータで、平成17年(2005年)版から平成26年(2014年)版の分が、公開されていました。

 「経済白書」も確認してみましたが、「年次経済財政報告」が平成13年(2001年)版から平成26年(2014年)7月版分まで公開されており、「経済白書」(「年次経済報告」)も、昭和29年(1954年)版から平成12年(2000年)版まで、内閣府から、公開されていました。

 これまで、出版されたそれらの紙の書籍を購入しても、ほとんど読むことはなかったのですが、電子テキストデータで情報提供されるようになったことにより、データ参照しやすくなったため、読む機会が出てくるように思われます。

 電子テキストデータの活用方法、有効性については、当ホームページのいくつかのページで紹介していますが、Home − 「サイト内全文検索」の中の、「参考1〜参考4」で記載している部分が、参考になると思います。

 検索した言葉に関わる部分だけ、あるいはそれに関係するデータだけを拾って読んでいくことができます。



20140901
 かすかな印象のようなものとしてでも、再構成把握している(夢見ていると言ってもよいかもしれない)体験の中の−基本的には現実の−美しい部分の残像に比して、ありふれた、自分自身を含む身の回りの、また言葉や映像を通して把握する世界のさまざまな部分が、(すなおに)受け入れにくい−さらには受け入れがたい−ものであることは、あらためて今の時点で考えてみると、当たり前のことなのだろう。そのような部分の方がむしろ当たり前−普通−のことだ、と考えることもできる。

 それに対して、そのように考えて、そのように把握して、身の回りのことからでも、少しでも、美しいもの、快いものにすることができれば、あるいは見つけること、見出すことができれば、その限りであっても幸福は得られる。偶然に、現実にそのようなものに出会えたときと同じように。努力して取り組んだ結果なので、多くの場合、それ以上に。

 その"系"(連続的に関わってくるもの)として−仕事を含めて−すべてのことに取り組んでいくこともできる。そして、その系の幹として選択すべきものは、「限りなく愛情に近い友情あるいは限りなく友情に近い愛情」に関わる部分。その部分が体験の中でそして体験的に最も強い幸福を与えてくれる部分だからだ。



20140831
 疲れを強く感じている時も、疲れて病がまさってあるいは単純に病がまさって痛みを感じている時も、疲れや痛みが認知できなくなってしまっている時も、そうでない時も、それらの中間的な状況の時も、相対的なものでも幸福の充実への取組みはできるので、それへの−束の間だけではないような充実した幸福への−取組みは−あるいは取組みを、継続していくこと。

 考え方によっては、人生のすべての時がそうであると言える老衰化に向かっている、そのすべての時も。ただし、この、人生のすべての時がそうである、との認識については、現実的にはそうではない、逆に少ない、と言えるかもしれない。しかしいずれにしても、取組みとしては−生きる術としては−同様なのだろう。

 老衰化による死と、戦争による死では、180度受ける衝撃の度合いが違う。戦争に抗しての死は、前者により近いものだ。戦争の中では同じもののように見えても、やはり。より受け入れられる運命という意味で。



20140830
 個人を単位として、限りなく友情に近い愛情又は限りなく愛情に近い友情を、というのと同様に、個人を単位として、限りなく公務事業に近い民間事業(とその経営)又は限りなく民間事業に近い公務事業(とその経営)を、という方向性を生き方の選択の問題として働きかけるような取組みを検討すべきではないだろうか。
 前者は、今でも個人がそれぞれ行っているものである、とも考えることはできるので、その延長線上のものとして。
 後者は、何千分の一あるいは何千万分の一の割合の権限しか持っていないとしても、その事業者は、その地域あるいは国の住民あるいは国民としての個人であり、議員や首長はその代行者であるものとして。

 誰も、どんなにつまらない、あるいはくだらない選択をしても、していても、実際には、それに人生すべてを懸けて生きていると言えるのだから。おそらく他の人においても。

(地方自治体の議員をされていて、落選したのち、移動スーパーの民間事業を起業された方の書籍、『買い物難民を救え! 移動スーパーとくし丸の挑戦』[緑風出版、2014年7月初版、鈴木稔著]を読んでいて。)
 


20140825
 認知症化及び老衰化にどのように取り組んでいくかは、特に後者については、運命との戦いそのもの。戦争(大規模な人間同士の殺し合い)に対してもそうだと考えられるが、こちらの問題の方は、より先になくしあるいは減少化すことができるものであるように思える。
 自らの死は、体験としては、他者の死の現実又はその残像の、再構成把握された残像としてでしか把握できないもの。
 そうだとすれば、他者の死のその現実や残像が、体験できないものである自分自身の死に関しても同様に−あるいは同じことそのものとして−、それをいかにして受け入れられるものにできるかの取組みの、その課題にもなる。
 「みんな大好き」というキュリー夫人のお母さんの臨終の言葉(「キュリー夫人伝」という本の中にあった言葉。現在も、たぶん同じ著者・翻訳者で、新装版が出版されているよう。)とその生き方、などが印象に残っており、参照したりして。
 (同級生の無尽会での話題に関して)



20140824
 ジャン・ポール サルトルの、『ポール・ニザン』という、ニザンへのオマージュになる作品(白水社、鈴木道彦氏訳、「シチュアシオンW」の中の作品)の中に、「ニザンにとって朝から晩まで一日中愛し得るのでなければ愛は考えられなかったし・・」との言葉があったが、この愛は結局「限りなく愛情に近い友情」ないしは愛であるにしても「限りなく友情に近い愛情」。
 そうでない限り有り得ないものなので。

 「ポール・ニザン著作集」(晶文社)の中に、「妻への手紙」という一冊があって、少しでも読み直してみて、やはりそうなのだと思える。



20140823-1
 大規模な殺人対戦(殺し合い)と言える戦争における核兵器を筆頭とする効率性の高い殺人機器の使用も、それぞれの生き方に何よりかかわる、50億人位と考えられる各「個人」を単位としてなされ−あるいは、その使用の選択を廃除されて−いるものであり、また、そのようになされていくものである。
 また、戦争の現実を含むこの世界の体験は、やはり、各「個人」をその単位として、体験されているものであると考えられる。
 今の自分の立場により即して言えば、わずかでもできれば束の間だけではないような幸福の中に生きるために生きる、そしてそのように生きてもらいたいためにも生きる、その術(すべ)の選択である「生き方」に何よりかかわる、まず自分自身を含みうるその対象である各「個人」を単位として、なされていくものである。



20140823-2
 法令集はほとんど電子(書籍)化されてきていると思いますが、特に論文形式での書籍は、電子書籍化されれば有償でも使用したい人は沢山いるのではないか、と思うのですが、現状、なかなか手に入りません。
 新刊はほぼ紙書籍になっていると考えていましたが、私にとっては肝心の法律関係書籍は、やはり、まだまだそのようです。(日本語のweb情報。)



20140823-3
 『ボヴァリー夫人』(伊吹武彦日本語訳)を読み返してみて、同人も、夫のシャルル氏も、 身の回り品販売業兼貸金業者である(と言ってよいと思われる)ルウルウ氏も、すべて、作者のフローベールの分身−少なくとも、フローベールによって再構成(リフォーム)されて把握されたフローベールの体験の中の世界の、特に19世紀半ばのフランス社会の、残像−であるもの。おそらく他の小説でも。これも、当たり前なのかもしれませんが。(言いたいのは、そのように把握して読む、ということが考えられるということです。さらには、それによって、体験しているこの世界の見方や感じ方がわずかでも変わるのではないかということ。他の小説についても。)



20140813-2
 『ニューホライズン和英辞書』(2011年12月1日版)の裏表紙から、英語でHAIKU!の中の二つの俳句の引用をさせていただきます。この英語のHAIKUは、さらに、「出典:日航財団編『地球歳時記 Vol.11がっこうのうた (ブロンズ新社,2011年発行)」のものです。

(この辞書の「はじめに」の頁に、「中学生のみなさんが日本語で頭に浮(う)かぶことをどのように英語で言い表せばよいのか迷うときに役立ててもらえるように作られています。」との記載があります。)

 Leaves fall from small trees
 Sad war means no school for some
 No skills to lead life
 (13才のイギリスの女子作。)

 小さな木から葉が落ちる
 戦争は学校をなくし
 生きる術(すべ)もうばいとる
 (私自身では何よりも、この中から(少しでもより幸福に−小谷付記−)「生きる術(すべ)」という言葉を、学びました。この術という言葉は、「(・・について)なす術がない」という時にも使います。)

 Schools of the future
 Strive to improve life on earth
 Seek progress for man
 (11才のシンガポールの男子作)

 未来の学校は
 地球の暮らしをよくするためにがんばる
 人類の(−人間の−小谷付記)進歩を求めて


20140813-1
 まず、2005年年1月8日に引用した言葉の、そのままの再引用ですが、「『エピクロスは愛には厳しいが、友情はこれを賛美している。愛他主義はまったくない。友情はある必要を充足させてくれるのである。ひとはそれぞれ己れ自身の快楽のために友情を培うべきである。友情はさらに他の人間たちの関係で安全を確保する手段である。友人はわれわれを保護してくれるからである。』(ポール・ニザン『古代の唯物論者たち』加藤晴久氏訳でのニザンのエピクロス解釈。)
 戦争とテロリズムなどから生活を守ることに関しても、
 それは、他者を抑圧することのない愛情は、これを生の中で現実化させようとするときには、少なくとも自身などの場合基本的に、すべてを (すべての判断力や意志や努力などを) そこに集中させるほどの判断力や意思や努力を集中していくことが要求され、そうしていかない限り対象的に現実化させられないものだからだ。」

 今の時点で、自分の考えとして言おうとしていることがやはり分かりにくいので言い換えてみると、人間としての愛情ないし友情豊かな生活をしていくには−これは、幸福に生きていくにはというのとほぼ同じことだと思いますが−、障害になるものが(体験しているこの−自分自身を含む−世界の中に)ありすぎる位にあって、それらとほとんど全力で戦っていかないとならない、というようなことです。

 そしてここでの課題は、この愛(あるいは愛情)について、この−上記の文章での−友情との違いは、どこに有るかという点。

 友情は、基本的には人間である他者との関係で、その他者から基本的に危害を受けないことについて−さらには自身の第三者から受ける危害についてその他者からの保護の行動を受けうる場合があることについてさえ−信頼できる中で、それぞれが互いの相手方の幸福を分け持つことができる、あるいはできている、という感情だと言えると考えます。

   愛あるいは愛情は、普通の−一般的な−意味では、広く、性的な要素によるそれを目的的実践的に含む場合も含まない場合も含めて、また宗教的なあるいはそれぞれの宗教的な観点からのものを含めて、体験の対象にしているもの(それが他者である場合を含む)や、体験の状況から受ける快さあるいは美しさあるいは幸福感のような感情だと言えると考えます。

 そして、その対象あるいは状況から、さらにはそれらの残像からさえ受ける−その結果として自分自身が持つ、と言てもよい−愛あるいは愛情の強さは、その障害となるものと戦っていくためにも必要であり、また有効でもあるものだと考えますが、
 
 エピクロスが、この愛に対して厳しい態度を取っているのは、やはり、それが、束縛を含めて他者を抑圧し、他者に危害を加えてしまう要素を、恒常的に含みうる(含むことのある)ものだからである・・、あるいは少なくとも私自身ではそのように把握することができる。(できます。)
 そしてさらに、他者の感情を再構成把握しての残像を、自分自身の現実の感情やその残像と同一化してしまう要素を、 恒常的に含みうるものであるからである。(こちらの方がより基本的な要素かもしれない。)

 愛あるいは愛情の中から、それをまず始めに廃除したものが、友情であると言ってよい、と考えます。



20140811-3
 すばらしく(目立って、際立って、優れて)美しいものを、現実やその残像の中に把握していくことによって、体験してしまうつらさやその衝撃を埋め合わせていくというような取組みと、その取組みの立ち位置(座り位置を含む)を変える、あるいは調えるというような取組みについて、後者は、前者のためのものであっても、相対的に独立した取組みであることを認識しておくだけでも、意味があると思われる。



20140811-2
 人は誰も、少なくとも相対的には、他の人と比べても優れた所(目立って、際立って、人の−自分自身のでも良いと思いますが−喜びや幸福のために力になれる所)があると言えるので、それ(その部分、その所)を育て、あるいは磨いてより大きな力にしていくような取組みは、経営の取組みにおいても、恒常的に(ほとんどいつも)有効なのものではないかと思われる。

 自分自身についても。



20140811-1
 山本美香さんの、『戦争を取材する−子供たちは何を体験したのか』という本(講談社-2011年8月11日第2刷)の中に、「医者には医者の、ジャーナリストにはジャーナリストとしての役目がある。」という言葉がありました。目の前の仕事などへの対応に追いかけられている現状ですが、司法書士・行政書士としての仕事でも、また、それ以外の部分での取組みでも、そのような認識に近づいて取り組んでいけるように、していきたいと思います。
 (本の中の子供たちの写真を見ていて、そのような戦争の中においても、みんな、特に瞳が−眼差しが−、そして姿勢も、本当に美しい。)



20140809
 いつも肝心なのは、体験の中の世界のすべて。

 そして、基本的にと言ってよいと思われるが、自分自身の死以外のもの。自分自身の死は、体験の中で、他者の死の再構成把握された残像類似のものとして再構成把握されたものでしかありえない、と考えられる。

 経験(experoence)という言葉で言い表されるものの中のというより、造語ですが、"midperience" と言ってもよいのではないかと思われる、"体験"という言葉で言い表されるものの中の。

 自分自身の身体、感情、感覚、(再構成把握されているものを含む)残像、思い、幸福感、他者の姿形、その姿勢や表情からおそらく自分自身の感情や残像に類似したもののその残像のようなものとして把握している他者の感情や感覚や残像や思いや幸福感、美しいと感じる対象や状況、快いと感じる対象や状況、人間のそのような作品、つらい対象や状況、他者の死、無残な死、殺人機器すなわち兵器、大量殺人機器すなわち核兵器、殺人機器の一部にさせられる兵士、戦争、さらに宇宙、草花、などの。
 


20140806
 仕事と、勉強(学習と研究)について、子供に対する相対的な高齢者である大人では、後者は前者の一部。なぜなら、仕事は、(それが遊びであるような人もいるかもしれないにしても)生涯を懸けて(体験の中の世界の)現実の課題に−言い換えるとその現実の試練に−取り組むことそのものであり、それは幸福に生きるために恒常的にまずなすべき取り組みだから。

 後者の勉強については、その人自身にとっての古典的・亀鑑的作品の勉強を、まず当然に含めてのものだろう。

 子供では、遊びと勉強について、逆。前者は、それがたとえ幸福のための直接的取り組みであるとしても、なお後者の一部。遊びは、相対的に自立して現実の課題への取り組みを行っていくことの有効性のための、勉強の一部と把握されるべき、だから。

 しかし、仕事が−その子の生涯(人生)を懸けた−まずなすべき取り組みになっている子供もいるのだろう。この点では相対的なものだと思われる。

 勉強については、「生きる術(すべ)」を勉強する勉強である。それも何よりも、束の間であっても、さらには、束の間だけではないような幸福(の中)に生きる術を勉強する・・。



20140805
 仕事は、体験の中の(体験しているこの)世界に対して、こうあったらいいという(漠然としてであってもたぶん再構成して把握している現実の残像としての)思いの(その実現への)蓋然性への働きかけの取組みであり、かつ、それ自体体験の幸福の「度合い」を直接的に高めるための取組みでもある。特にやりがいのある仕事に取り組んでいる時。



20140804-2
 「眼差しと声の残像」という言葉を手掛りにしての、おそらくその代替的な感覚によるものを含めての「眼差しと声」の残像を再構成把握し、幸福の「度合い」に関わらせていくことはできそうである。それが、その人の(自分自身でも良いのかもしれないが)幸福の度合いを読み取るのに必要で有効な、人生の表情と姿勢を何よりも表現しているものであることに関わって。

 少なくとも自分の場合。



20140804-1
 物心付く頃−おそらく言葉の意味を把握して使うようになる頃−の子供の場合でも、相対的高齢者としての大人の場合でも、実践的には、その人の実践や行動は、その人がそれまでに把握しているその実践的な目的に関わる(基本的にはそれに関係する事象の法則性についての)認識の総体に基づいて−それも、それまでに直線的にというより螺旋的(らせんてき)にあるいは結果的にかならずしも有効ではないようなものを含めたジグザグ状の在りようで把握されてきて蓄積されているものであるような認識の総体に基づいて−選択されて実行されるものだ、と言えるのではないか?

 それらの認識が、その人自身の体験の中(の事象)にその根拠が見い出せる認識であれ、その人自身の体験の中(の事象)にその根拠が見い出せるわけではないような認識であれ。

 もちろん、大抵の場合、それほど意識的・目的的にそのような認識の総体に基づいて選択されるというわけではないにしても。

 自分の場合ではそうだと考えられる。

 この認識の帰結として受け入れられることは、それによって、自分自身のそれに関しても、また他者のそれに関しても、その状況下での、またその時点での行動や選択の蓋然性が、わずかでも把握しやすくなる、ということだ。
 


20140802
 「・・・
 (『秘密の花園』での−私の付記)この鳥の夫婦が味わっているすばらしさ−この庭にみちている、時にはやさしく、時には激しく心を打つ、たぐいない美しさや卵の大切さを、この庭に入る者はみんな同じように理解しているのだ、ということがわかったのでした。もしたったひとつの卵でもぬすんだり、割ったりする者が、ひとりでもあったら、この世界全体がひっくりかえり、音をたてて崩れて終わるでしょう。−もしただのひとりでもそのことの大切さを感じとらず、はめをはずしたふるまいをするようなことがあったら、たとえあたりに黄金色の春がみちていようとも、幸福は失われてしまうのだ、ということを肝に銘じていなければなりませんでした。でも子どもたちは、三人ともそのことを知っていましたし、その大切さを感じてもいました。そしてコマドリも、その奥さんも、子どもたちがそれを知っていることを知っていました。」(F・H・バーネット作、猪熊葉子訳、福音館文庫、『秘密の花園』397-398頁から。)

 「魔法は(物語の登場者の一人、コリンの−私の付記)賛美歌を聞いたともね。坊やが歌ったら何でも聞くでしょうよ。坊やが喜んでいる、ってことが大事なんだから。ほんとにまあよかった−その『よろこびのもと』はどんな名で(たとえ「魔法」という名前で−私の付記)よんでもいいんですよ。」(F・H・バーネット作、猪熊葉子訳、福音館文庫、『秘密の花園』423頁から。)

 バーネットはキリスト教信仰者が多数である文化圏で生活してきていて、それを背景にしての物語になっていると思いますが、他の宗教の信仰者が多数である文化圏に生活している人にとっても、このような物語の中の、−私の言葉で言えば−有効な、螺旋(らせん)的に向上(ないし逆の場合では劣化)していくものである「認識」の一つ一つの有効性(逆では反有効性)は、共通的なものなのではないかと思います。

 さらに私の言葉を付記すれば、それぞれの人が、自分自身の体験の中に−その記憶の中にであっても−その根拠(証拠)があるかどうか確かめてみると、その有効性の当否について、より明らかになるのではないか、と。



20140801-2
 Home−左下欄の「幸福への素材の一つ−事務所業務外のリンク」−「クオレ(心)」(「愛の学校」という表題に直した日本語訳本が出版されていました。現在も、この副題が付いたものが出版されています。)−の物語の、1日目の日記から。

FIRST DAY OF SCHOOL.
Monday, 17th.
・・・

Near the door, I felt myself touched on the shoulder: it was my master of the second class, cheerful, as usual, and with his red hair ruffled, and he said to me:
“So we are separated forever, Enrico?”
I knew it perfectly well, yet these words pained me.
・・・

Ladies, gentlemen, women of the people, workmen, officials, nuns, servants, all leading boys with one hand, and holding the promotion books in the other, filled the anteroom and the stairs, making such a buzzing, thatit seemed as though one were entering a theatre.
・・・

My schoolmistress of the first upper class greeted me from the door of the class-room, and said:
“Enrico, you are going to the floor above this year. I shall never see you pass by any more!” and she gazed sadly at me.
・・・

What toil, what monthly examinations, what fatigue!” I really needed to see my mother when I came out, and I ran to kiss her hand. She said to me:
“Courage, Enrico! we will study together.” And I returned home content. But I no longer have my master, with his kind, merry smile, and school does not seem pleasant to me as it did before.

この、お母さんの約束は、この物語の中で守られたのだと言えるでしょう。おりに触れて、お母さんの言葉も、この物語の日記の中に書き込まれていることを考えても。



20140801-1
 体験の中で、その幸福の質の観点から、「体験の中のすべての対象」と把握できるものを一つの対象として含めてよいものとして、体験の中のさまざまな対象に対して、自分自身もその対象の一つでありうるその自分自身に関わっての、あるいは自分自身は忘れるようにしての、その対象から得られる幸福の質を、その(幸福の質の)「度合い」の観点からその対象となるようなものの把握をしていくことを通して、より良いあるいはより高いあるいはより強い(「度合い」の)ものの方にその体験を選択していく、という(ような)取組みは、可能だと思われる。
(少しテストしてみても。追記として、この「体験」という言葉を、私の造語ですが、"midperience" という英語的な言葉で表現してみます。経験、すなわち experience という言葉ではなく。それが、恒常的には、trial、すなわち試練の要素を含んでいることも含めて。たぶん、多くの人にとっても。)



20140731
 憎しみは、再構成把握してのものを含む怒りの残像、あるいは体験の中にそれの在ることによる感情。怒りのように見えても、それが怒りを再構成把握してのものを含むその残像にすぎず、憎しみにすぎないことに気付いていないことが、ある。そして、その怒りの再構成把握しているものを含む残像への対応に、人生(の時)を費やしてしまっていることも。人生そのものを賭けてしまうことも。
(怒りは、実践的には、それに駆られるものである、と言える。)

 裏腹のこととしての、人生を懸けて愛や幸福についての取組みの方に人生(の時)を使うよう働きかけ、実現できた例としてのアン・サリバンとヘレン・ケラーの物語、だと言ってよいと思われるテキストへの一つ目のリンク(外部リンク−www.perkins.orgのサイト内)と、二つ目のリンク(外部リンク−www. gutenberg.orgのサイト内)を、取りあえずここでノート。後者は、左欄(Home−プロフィール 連絡先等−)「幸福への素材の一つ−事務所業務外のリンク」に登録しました。
(「google翻訳」で、一つ目のリンクページについてはアドレスを入力すると機械翻訳された文章がでてきますが、二つ目のリンクページは、翻訳されたページが表示されません。リンクページのテキストを、「google翻訳」の翻訳元の枠内に張り付けて、機械翻訳を表示させることは、できます。)



20140727
 他者の、その人自身にとっての幸福の質は、自身にとっては、体験の中のその人自身やその残像の表情などから把握している残像的なものだと思うが−少なくともそれがどんなにかすかなものであったとしてもそれに関わって存在しているものだと思うが−、そうだとしても、肝心なのは、いつも、他者のその人自身の幸福の質と切り離し得ない自身の幸福の質。(これも、ほとんど自分自身のためのノートですが。)



20140712
 幸福に向かって近づいていく、そして束の間のだけではないような幸福に向かって近づいていく−自分自身をそのような幸福に向けて近づけていく−、さらにその一部としての世界を平和(戦争またはそれに近い紛争のない状態)に向けて近づけていく「取り組み」(取組み・取組)は、なぜ、「取り組み」という言葉で把握して行って(して)いくのが適切なのか。「実践」をしていく・「行動」をしていく・「活動」をしていく、などの言葉で、ではなく。

 この言葉が、「全身」的(動作・行動・)活動であることを意味し、精神的にもそのような活動であることのイメージ(再構成把握するその残像)をも含めて意味している言葉であり、しかも、その活動の際の、感覚やその残像の、「対象」を伴ってなされている活動であることが、より適切に把握されることになるから。

 ここで、「意味」とは、その言葉(を心の中でイメージするなど)によって心(意識・体験)の中で把握されることになる、感情や感覚や感覚の対象をその中に含む再構成把握される残像、のことである。(一つの定義として。)

 さらに、ここでの「定義」とは、意味を、その言葉の意味の中にはさまざまな意味がありうる中で、実践的目的(取り組みの際の目標として把握されている残像)の達成・実現の観点からそれを限定する言葉のことである。(これも一つの定義として。)

 そのような幸福に向かって近づいていく、その「取り組み」の、継続的な対象は、「運命」。それと戦うにせよ、それを受け入れるにせよ。



20140705
 1.それぞれの−パターン化されて把握される性格ではなく−さまざまな性質を持っているまるごとの人間が、自分自身を含めて、最も幸福への取り組みにおける影響力を持っている、と言える。少なくとも自分の場合。

 2.幸福の残像の再構成把握は、それがどんなにかすかなものであっても、持続していくべきものである。同じく。



20140704
 1.「外部リンク2(事務所業務外)」のリンク先の、自分の好きないくつかの小説作品に対して、「さらに、時間が取れれば、合わせて、自分自身で好きなことなので、ほかの物語と同様、物語に沿って再構成把握する取り組みを進め、その結果のノートメッセージなどをこのページの中で記載していきたい、とも考えています。」とのコメントを追加しました。(ほぼ自分自身のための覚え書きですが。)

 2.さらに、同じく「外部リンク2(事務所業務外)」のリンク先の、「日本国憲法の誕生ウェブサイト」の紹介の末尾に、最近の日本のテーマになっている、憲法・戦争・軍事侵略などに関しての私の意見を、追加記載しました。
 ここにも引用します。

 「戦争と軍事侵略などについては、より強力と考えられる軍事力(「殺人機器力」と私は呼んでいます。)を保有し使用できるようにすることによってではなく、戦争や軍事侵略の実際の有無やその発生蓋然性確率のできる限り正確な認識(上記の−「日本国憲法誕生ウェブサイト」の中で述べられている−「真理」と言ってもよいと思われるもの)を必須の前提にしての、その実際の戦争や軍事侵略やそれらの発生蓋然性確率を減少させていくための、殺人機器は極力使用しないですむようにするための取り組みをしていくことによって抑止し、減少させていくべきだと考えています。
 戦争や軍事侵略の実際の有無やその発生蓋然性確率のできる限り正確な認識を抜きにして、たとえば、最強の殺人機器力となる核兵器を大量に保有し行使できるようにしていること、そしてしていくことが、実際の戦争や軍事侵略の抑止になっており、今後も予防抑止力となって戦争や軍事侵略の発生の減少に役立っていく、とは、世界の現在の実際を見ても、また、たとえば殺人行為の実際の有無やその発生蓋然性確率の−自然災害のそれを認識するのと同様にの−できる限り正確な認識を抜きにして、個人としては強力な殺人機器力となる機関銃のような武器を大量に保有し使用できるようにすることが、殺人行為の実際の抑止になり、さらには予防抑止力になって殺人事件の発生の減少に役立っていくとは考えられないのと同様に、考えられません。(20140705書換後。)」



20140702
 錯覚(幻覚と呼ばれるものを含む)は、相対的にごく偶然的な条件上でのみ、通常の感覚として、あるいは通常の感覚のように体験される、幸福の獲得の観点からは基本的に−その錯覚の一瞬を除いては−マイナスの感覚。それら通常の感覚や、錯覚の、残像とも異なるものである。(その意味の定義として。)

 妄想は、錯覚の再構成把握残像。(その意味の定義として。20140705追記。)



20140701
 1.できる限り語りかけるように仕事をしていくこと。なぜかというと、その過程や結果の残像を、少しでもより良く(再構成)把握していく結果になるから。好きな人たちに向けて。言葉だけでなく姿勢や表情でも。

 2.当たり前のような認識の再確認、再把握としての認識であっても、螺旋(らせん)的により高い段階で把握されるものとしての意味はあると考えられる。

 当たり前のような認識の再把握としての認識であっても、それらの認識の全体(総体)そのものが、幸福に向かって近づいていく取り組みのための手段として、より高度な(有効な)ものになっていく、その、(比喩的な表現なのだろうが)螺旋(らせん)的な高度化の一過程ずつに、該当することが、ありうる。
 (この段、20140712追記。)



20140629
 事務所の地域の、「甲府市統計書2013年版」へのリンクを、Home − メインメニューへ − 現在の業務関連特記情報(1)〜(6) − (6)経営計画作成実行上での経営連関表の作成活用方法と、関連する産業連関表(国・地域等)・国民経済計算(表) − 8-1-1- と 8-1-2 に掲載。

 また、経済産業省の、「延長産業連関表からみた我が国経済構造の概要(2012年簡易延長産業連関表、2011年延長産業連関表)−2014年4月25日公表」と、2012年簡易延長産業連関表80部門取引額表と、2011年延長産業連関表80部門取引額表へのリンクを、それぞれ、Home − メインメニューへ − 現在の業務関連特記情報(1)〜(6) − (6)経営計画作成実行上での経営連関表の作成活用方法と、関連する産業連関表(国・地域等)・国民経済計算(表) − 3-0、3-0-1、3-0-2 に掲載。
  (これらの統計表の、参考にしたい個々のデータの検索の仕方については、当事務所Home−「サイト内全文検索」のページ内の「参考1〜4」も参考になると思います。)



20140628
 「幸福は、過去の試練をもはや勘定に入れないもの」であること(その意味の定義として)。

 そして、「身体と感覚と精神(体験の残像をおそらく基本的に意思的に把握している部分)との、そのそれぞれの集合」という、体験の中の事象と、「幸福」という体験の中の事象とは、関係しているが、後者は、前者の存在を前提として(それが在ることに基づいて)把握されるもの。前者が存在しなければ、後者は存在し得ないもの。

 さらにその関係は、前者の存在が、後者の存在を、精神(的な要素)によってでも把握できている限りにおいて−たとえば、うっすらとでも把握できている、その限りにおいて−把握されるもの。

 さらに、前者が−前者自身が、と言うべきかもしれないが−、後者の存在を、より確かによく強く把握できている限りにおいて、のみ、そのように−より確かにより強く−把握しているもの。それ以外ではない、もの。常に、すなわち、四六時中。

 以上、自分には大事だと思える、当たり前のような、獲得できた認識として。

 できれば、すべての取り組みを、そのような幸福の把握をより確かなより強いものにしていく取り組みとして、していくべきだろう。



20140618
 自分が受けた怒りの原因と思えるものへの自分が怒りを向けるその怒りの強さの度合いと、自分が受けた怒りの原因と思えるものから受けたその怒りの強さの度合いとの、その、落差は、各自が、体験的に「測る」ことが可能だと思える。言い換えると、その差異を、数量的な度合いのものとして判断することは、体験的に可能である、と。時間の経過に伴ってすべての人にとって共通的にそれがより困難になっていくにしても。

 自分が受けた怒りの原因と思えるものへ自分が怒りを向ける場合の、その落差の度合いについての場合以外にも、自分に向けられた場合のその相手の落差の、その度合いの場合についても。−なぜなら、その度合いの判断基準が、自分自身についての場合の判断の際のそれらの落差の残像であるのと同様に、それと類似的な残像として、その相手の落差の残像を把握することは、可能だから。そして、たぶんその限度で。

 その落差があると感じられる場合、そしてそれも納得できないような度合いの落差のある強い怒りを向けられた場合、その事実ないし体験に対してどのように対処するかは、場合により−多分少なからず−、幸福の獲得に向けての人生の−人間の命の−生き方の根本に関わる。

 その事実ないし体験に対して、同じような落差のある怒りを向けることは、その落差の度合いによっては、それに−怒りを向けることそれ自体というより、そのために、怒りに駆られてであっても取る行動に、−人生を−命を−賭けることになる。

 怒りは、少なくない人々にとってそのような強度性を持つ性質のものだからだ。
 
 その落差がないと感じられる場合はどうか。これは、「やむを得ない」と判断すること、そのものだろう。もちろんこの場合でも、取るべき行動については、幸福の獲得に向けての人生の−命の−生き方の根本に関わるが、この場合には、その行動は、その「やむを得ない」との判断に基づくものになる、ことになる。つまり、承知して人生の幸福の獲得への取組みを放棄するか、諦めないか、の。



20140610
 「幸福は過去の試練をもはや勘定に入れないものだ。」(ロマン・ロランの『ピエールとリュース』−角川文庫・翻訳渡辺淳−の中の文章。一部アレンジしてるかもしれない。記憶に基づいて検索して確認して、2009年8月にもこのノートで同じ文章の引用をしていた。少し異なる捉え方。)

 予測できるものであれ、できないものであれ、衝撃から少しでも回復できた時には、その一点に向けて、忘れてしまうようにすることと合わせて、幸福を手に入れること、現体験として獲得すること、が、最良の方法。いつも。時間はかかるにしても。

 その一点だけを目指して、更に可能ならその一点の在りようの継続だけを目指して生きていくことも、常に、意識の残っている限り可能である。



20140607
 かすかな、また束の間の幸福の輝きのようなものの残像−意思的に再構成して把握するそのような残像を含めての、残像−は、現体験においては残像にすぎないとしても、それを現体験の一部として強く印象付けようとすれば、それなりに現体験の一部として、現体験の感情そのものなども伴って把握されるものだ。これ自体、そのような想像力の貧弱な−また大人になってそのような想像力の減退してきた人間には−特に、一つの有効な認識だと思われる。
 そして、その認識は、現実に、そのようなかすかな束の間の幸福の輝きのようなものにすぎないものであっても、その体験を把握出来る時の獲得への取組みの動機にもなりうる。

 追加的に、意識は、身体的感覚の体験(身体に−それ自身に主体的にも−関わる感覚の体験)と、その(或る何らかの言葉をイメージすることにより把握される残像や、意思的に残像を再構成把握しようとして得られる残像を含めての)残像(但し、視覚的なものに限られないその残像)との境界的に存在するものであって、主にその残像に関わっている部分を精神(的)体験ないし心での体験と呼んで把握し、身体的感覚に関わる部分を身体(的)体験と呼んで把握することが、とりあえず可能だと思える。

 意思は、これも、同様に境界的に存在するもののようだ。

 以上の−この−文脈で、心で把握されるかすかなまた束の間の幸福の輝きのようなものであっても、その残像は、心で意思的に再構成して把握するそのような残像である場合を含めて、それを、身体(的)体験にする−ないし転化する−取り組みというものが実践的に可能であり、「現体験の一部として強く印象付けよう」とする取り組みとほぼ等価で、かつ実践的に有効なものでありうる、と考えられる。

 印象は、身体的体験として把握している残像(ないしそれに伴う身体的体験自体の内容・要素)と、とりあえず把握できる。

 また、特に人間として共通的によりよいものと再構成把握できる幸福の輝きのようなものの残像は、それを身体的体験にするための取り組みの機会を増やす結果となるものであって、より有効な成果を上げる確率が高いものになるものである、と言える。



20140525
 人間にとって各自自身のその幸福への欲求は共通的に基本的なものだと思われるが、それは、生物的・動物的な欲求のようなものが基盤にあるものであって、人間のそれとしては、継続的にそれが各自自身のさまざまな−すべての−活動の中で再構成されて形成されていくものなのだろう。今後(の時代において)も。
 (これも、今日ほとんど当たり前な認識と言えると思われるものだが。)



20140524-2
 一番信頼できると思える人たちへのものからであってもよいと思うが、人間たちへの信頼よりも、人間たちとの戦闘力(比喩的には経済的なそれを含めて)への信頼の方を優先して、日々、そして四六時中生きていく?−これは、何を言いたいの?(か、というと−)生き方。

 戦闘力=戦力=武力。というより、より適切には殺傷機器力。さらに端的に、殺人機器力と言い換えての、それ。


20140524
 一番信頼できる人たちへの人間としての信頼をまず第一の前提として(ないし、その信頼への残像でできる限り体験の残像を満たしていくことをまず第一の前提として)、よりかすかなだけのものではない、また、より束の間のものだけではないような幸福の輝きを、体験の中に充実させていく取組みは、各自の身体や精神の(相対的なものだとも言いうる)外部的なものと内部的なものが交錯的に(入り交じって)体験されるもののうち、外部的なものよりは、さまざまな(種類の)欲求や衝動に関わっている−それらさまざまな欲求や衝動が存在している部分であると言える−内部的なものの方から、それらを、よりかすかなだけのものではない、また、より束の間のものだけではないような幸福の輝きの充実のために上手にないし適切に「意思化」し、さらに「実践化」していく取組みの方から、成されていくべきではないか?



20140523
 いわゆる科学の言葉や法令の言葉は、より共通的な要素が大きいものになっているのだろうが、科学や、法令や、小説や、日常の中の言葉を、聞いたり、話したり、読んだり、書いたりすることによって、各自に把握される各自の体験の中の出来事の残像(イメージ)の、その把握を通して、各自自身において、各自自己のそれら把握されるないし把握された残像と類似的な −言い換えると、各自自己のそれら把握されるないし把握された残像と共通的な− 精神の −この文脈では、この精神とは何より残像(イメージ)の把握に関わっている(それに伴う情動面でのものを当然含めての)体験ないし意識の意味であるが、その− 把握が、よりよく成されうる。そして成されていく。
(これも、当たり前な認識なのだろうが。)



20140522
 世界の、暗い所を感じている部分が体験の中にあれば、その分余計に、幸福の輝きのようなものが、かすかなものでしかそして束の間のものでしかないとしても、かすかなものではない、束の間のものだけのものではないようなものにしていく取組みをしていかなくてはならない。(生きている限り、あるいは少なくともその意識の残されている限り、どんなにかすかなものであってもそれがまったく消滅することはないと思われるので。)

 そのような取組みとの関係で、意思は、精神と身体との対比で区分する場合に基本的に精神に属すると言うべきだとしても、それは、実践的には、体験(したこと)の残像との関係で意識されている意思の部分であって、単に体験されている衝動や欲求としての意思は、むしろ身体に属しているものだと言うべきなのではないか?それは、もちろん意思であるかぎり、意識されている、ないし意識の中に在ると思われるものであって、物質的なものとは言えないだろうが。

 さらに、幸福の輝きのようなものの対象として把握できるものに対しての、かすかなものではない、束の間のものだけのものではないようなものにしていく取組みは、それが生きているものである場合には基本的に、生きているもののそのような体験とその残像に関わっている精神とを、対象として把握する自分自身の体験やその精神との類似的なものとして把握するという取組みと切り離せないものであるように思われる。

 小説ないし物語作品のその取組みの中で占めるべき位置については、そのようなものとして把握できると思われる。



20140518
 すごく厳しい状況でつらい思いをして生きてきた人たちには、余計その人自身にとっての質の高い幸福が要るのであり、それは、他者からは、その他者自身の質の高い−ないし強い−幸福の、類似のものの思い(残像)のようなものとしてでしか把握できないのではないか?



20140517
 厳密に言えば「世界」、ということになると思いますが、環境のすべて、特にその中のインパクトの強い部分をメインに考えて、そこで束の間のだけではないような幸福でいられるような環境に近づく取組み、が考えられます。

 身体と共に、精神も含めて近づく取組み。

 ここで考えている精神とは、身体のさまざまな感覚で、直接にさまざまなことを体験する、というときのような現実の体験の、残像、さらにはその残像を思い起こす力を誰もが基本的に持っていると思われるので、その、残像を思い起こすことに関することに主に関わっているもののことを考えています。

 思い起こす際には、類似のものを、というのではなく、同じものを思い起こそうとしても、基本的に元の残像とはわずかずつでも異なっていくものではないかと思います。仕事や日常生活のうえではそのわずかずつでも異なっていくその差異は問題にしなくてもよいことが多いでしょうが、たとえば、紙や磁気ディスクなどに記録したデータを見て思い起こすのであれば、基本的な部分は元の残像と同じものを思い起こすことができますが、そうでなく、記憶だけをたよりに思い起こした結果のいくつかを考えてみると、かなり異なった、間違ったことを思い起こしてしまっていたということで、問題になることもあります。

 上に述べた、「思い起こす際には、類似のものを、というのではなく、同じものを思い起こそうとしても、基本的に元の残像とはわずかずつでも異なっていくもの」ということが、想像力というものに関わってもいる、とも思います。(当たり前だ、と言えるのかもしれませんが。)

 そして、「想像」や「空想」での物語を読んだり、またそのような物語を考えていくことができる人にとってそれを考えていくことは、楽しいことでありえますが、読んだり考えたりするだけでなく、そのような物語として想像・空想されるような環境に、現実に近づく取組みというものも、繰り返しの言葉になりますが、考えられます。(芸術作品や、小説作品などを作ることも、その一つ一つでありうる、とも。)

 現実の環境からは、厳しい現実を突きつけられることは、予期できるものや予期できないものを含めて、ありえますが、そうだとすれば、余計に。



20140429
 角野栄子さん(「魔女の宅急便」の作者)の新聞記事を読んで、インターネットで検索して関係リンクをみて、角野栄子さんの自伝的作品を読んだ方からの投稿記事の中の一つに、「『そうなったらいいな』『そうなったらどうしよう』を繋げて繋げて」想像ないし空想を紡いで物語を作る、というような趣旨の言葉がありました。

 この言葉に関して、とりあえず自分の場合のことですが、現実の体験が貧弱なら、『そう成ったらいいな』『そう成ったらどうしよう』を想像ないし空想した結果も、それに比例的に貧弱なのではないか、と思います。

 つまり、『こう在ったらいいな』の現実の体験がごくわずかなのであれば、『そう成ったらいいな』を想像ないし空想することは、とても困難な、また可能だとしても貧弱なものにならざるを得ない、と。

 しかし、特に子供の頃にですが大人でも共通的に、絵本や(口頭での)お話しや物語の本(さらには小説などの本)や、絵画や音楽作品などを読み、見、聞く体験は、この中の後ろの二つ(絵画や音楽作品などを見、聞くこと)ではそのことは明らかですが、話を聞き、本を読むことも、(それまでの現実の体験を基盤として)言葉の意味内容を通して体験される、それぞれ一つ一つの−ここでの文脈での−現実の体験である、と思います。

 そのように本を読み、話を聞いていくことを手掛りないし機会にして、その意味内容から学んで、現状の貧弱な想像ないし空想での『そう成ったらいいな』の内容も、豊かにしていくこと、高めていくこと、あるいは、想像や空想もいらないくらいに現実の体験の世界の方を変えていくこと、が、取組みの選択の方向性として把握できます。

 『(いつも)こう在ったらいい(な)』は人生の幸福の質を豊かにし高める素材の一つ一つで、『そう成ったらいい(な)』は人生の幸福の質を豊かにし高める素材の一つ一つでもあり、かつ現実のそれを得るための機会・チャンスの一つ一つだ、とも。



20140426
 「悪夢の中に自分を見る−『アクト・オブ・キリングによせて』」の表題の、昨日付の山梨日日新聞の投稿記事。本当に?という思いが残るが、死刑実行や戦争での実行と同様に「適法」とされていたのだろうか。(「アクト・オブ・キリング」によせて−新聞投稿記事)



20140423
 「その人の性格」と呼んでいるもののほとんどすべては、「その人の性質」と呼んだ方が、より適切である。

 基本的にはすべて「自分から見て」との条件の元で、「多くのことに慎重」・「怒りが表に出やすい」・「多くのことに大雑把」・「多くのことに−あるいは重要と感じられることに−鈍感」・「多くの事に又はつまらない事に敏感、ないし過敏」・「いつも優しい」・「いつも親切」・「八つ当たりしやすい」・「愚痴っぽい」・「いつも本当に明るい」などなどについてだが、(なお、「いつも本当に暗い」という性質は表には出にくく、そういう人はいるのだろうかと思えるくらいだが)、より、自分自身の情動からは離して評価できることになるため、だ。

 それらの様々な「その人の性質」の総体を、「その人の性格」と呼んで把握してもよいかもしれないが、この場合でさえも−その総体をそのような言葉で把握した場合でさえも−多面的なその人の様々な性質の、たいていは一部である。
 いくつか振り返って見てみて。
   


20140419-2
 家族などのためにも、であっても、そのためにも、自分自身ができる限り質の高い−ないし強い−幸福を得て生きることが必要とされており、また、有効である。



20140419-1
 中でも一番素敵な人たち(一人でもいいけれど、一人では大抵実現しがたい)は現実にも居て、できればできる限りいつも近くに居たいという思いないし意思は、それを実践化する方向で取り組んでいってよい。(そのように実践化することになるため)。



20140417
 相対的なものではあっても、人生の中でお金を優先させるか−この文脈ではそれは結局、経済及び経営を優先させるかということだが−、友人たち(一人でもよい)への人間としての−自分自身が保持する−信頼を優先させるかの選択の場面は、恒常的なものなのだろう。最後まで。



20140412
 「思いは実現する。」あるいは「物事は、ないし人生は、心に描いたとおりのものになる。」という言葉の(認識の)実践的な意味(つまり、幸福の質の高低ないし強弱に関わるその言葉の内容の要素)は、その言葉の前段は、実践的には、「どのように(何の様に)」の(再構成把握)残像の再構成把握に基本的に基づいてその思いないし心の意思化と実践化に取り組んでいくと、ということを意味していると把握でき、そうであれば、その意思化と実践化の取り組みに伴いその実現確率は高まる−逆に、その取り組みがなく、できるだけであっても自然のままにまかせているのではその実現確率は高まらない−と言えるので、その意味で、正しいと思える。



20140404-3
 2014年3月31日ノートの続きとして、自分自身に関わるその差異の意識の意思化は、皆が素敵(である)というような現実やその再構成把握された残像を、その意思化の焦点を宛てていくべきべき中軸として取り組んでいくべきものなのではないか?なぜなら、その意識は、おそらく人生の中で関わる人間を中軸とする他者との、おそらくその差異の等価交換的なものとして存在しているものだから。
 一瞬的な、ないし束の間的な場合を除いては(持続的なものとしては)、実際には、ないし現実には実現できないのかもしれないが。

 (「素敵(である)」というより、より適切な言葉を使いたいのですが、見当たらず、他よりましとしてやむを得ず使用しています。会話で使ったこともありますが、同様な印象が残ります。この言葉の意味の中に、尊大さの要素が含まれておらず、対等な−こちらからの尊敬の意味は在っても−友情の要素が含まれているので積極的に使いたいのですが、現状では使いにくい印象が残ってしまいます。『類語国語辞典』[角川学芸出版]ではその意味を−「心が引かれるほど非常に優れている」と述べています。この意味で間違いはなく、多くの人にはそう受け取られているはずだと思うのですが、使いにくいのは、テレビショッピングやカタログ雑誌などでよく使われていて、それで、とも思います。)



20140404-2
 Cuore (Heart), by Ednondo De Amicis
 (「クオレ(心)」−イタリア語からの英語訳版)

 FRIENDS AMONG THE WORKINGMEN. APRIL.Thursday, 20th.
 (・・・)
 から、何回読み返しても本当に美しいと思える言葉と、「本当に?そう、なの?それでいいの?」と感じてしまう部分について。

(Let it be your firm resolve, then, from this day forth, that you will keep these good friends even after you shall be separated, and from this time forth,cultivate precisely these by preference because they are the sons of workingmen.)

 You see, men of the upper classes are the officers, and men of the lower classes are the soldiers of toil; and thus in society as in the army, not only is the soldier no less noble than the officer, since nobility consists in work and not in wages, in valor and not in rank; but if there is also a superiority of merit, it is on the side of the soldier, of the workmen, who draw the lesser profit from the work.

 (Therefore love and respect above all others, among your companions, the sons of the soldiers of labor; honor in them the toil and the sacrifices of their parents; disregard the differences of fortune and of class, upon which the base alone regulate their sentiments and courtesy; reflect that from the veins of laborers in the shops and in the country issued nearly all that blessed blood which has redeemed your country; love Garrone, love Coretti, love Precossi, love your little mason, who, in their little workingmen’s breasts, possess the hearts of princes; and take an oath to yourself that no change of fortune shall ever eradicate these friendships of childhood from your soul. Swear to yourself that forty years hence, if, while passing through a railway station, you recognize your old Garrone in the garments of an engineer, with a black face,?ah! I cannot think what to tell you to swear. I am sure that you will jump upon the engine and fling your arms round his neck, though you were even a senator of the kingdom.)
--page218-219.

 上記の、nobility consists in work and not in wages, in valor and not in rank(・・・)は、そうだと思う。しかし、下記のように、限定的ないし相対的なのではないか?

 上記を含む、in society as in the army, not only is the soldier no less noble than the officer, since nobility consists in work and not in wages, in valor and not in rank; but if there is also a superiority of merit, it is on the side of the soldier, of the workmen, who draw the lesser profit from the work.(・・・)については、

 in society as in the army, において、who draw the lesser profit from the work(・・・)である限りにおいては、profitが経済的価値のことであれば、そうだと思う。

 しかし、on the side of the soldier, of the workmen, who draw the lesser profit from the work(・・・)と言えない場合もあるのではないか?

 しかし私のこのような受け止め方も、さらに、in society as in the army, not only is the soldier no less noble than the officer, since nobility consists in work and not in wages, in valor and not in rank(・・・)を、その nobility consists in work,in valor(・・・)の部分について、より consists not in wages,and not in rank の部分より優先させて実践化していく限りにおいて受け入れられるべきものである、と把握できる。

 なぜなら、(一個の経営組織としてのその)職の仕事の成果の、社会−他者−への供給は、基本的に等価的なものとして、他者−他の経営組織−との間で、今日基本的にお金(即時的交換可能な資産と言ってもよい)をその価値量として対価交換的になされていっていると把握できるが、その供給する−そしてしていく−職の仕事の成果の他者−の幸福の質の高さ(幸福の輝きというような言葉でよりよく把握できるそれ)−への価値をより高いものとして供給できていくことができれば、その経営組織であるその人自身のより質の高い幸福を把握していくことが、できていくことになる、と把握できるから。

 職の−各自の、経済的な要件の関わっている−仕事の取組での実践化においてだけでなく、すべての取組みにおける実践化において、そうだとも思われる。

 さらに、少なくとも自分自身の場合、他者の仕事の取組みの成果である作品から受けて把握できる幸福の質の高さ−幸福の輝き−は、基本的に瞬間的ないしせいぜい束の間的なものであるが、その幸福の輝きを把握し摂取することの実践化とともに、そのような幸福の輝きを摂取していくことができる、そしてできていく、基本的には現に生きている(社会といってもよい)他者に、−職の仕事の取組みを含むすべての−仕事の取組みの成果を、基本的には創造して、供給していくことの実践化によって、よりよく自分自身でもその直接の効果としての幸福の輝きを把握していくことができるように思われる。

 「批判的摂取」という言葉があるが、「摂取と創造」というような言葉で要約して。

 

20140404-1
 経営計画の中に、また、認識と技術としての経営技術の中に、「相対的に安定的で大規模な(国や多国籍企業などを筆頭とする)経営組織に属して、(物質的な強制力をも伴うありようでのその全体の、あるいは大多数者の取決めを形成するための取組みという−大雑把な−意味での)「政治」的に多数者に属し、(率先してその行動をしているという意味での)その、政治的多数者に属するようになるように「リーダーシップ」を取れるという方向に、よりシフト(選択)していくように、そのすべてを進めていく」という要素が、有効なものとして含まれるべきであるようであり、このことの検討と、取り入れをていくことが有効である、と考えられる。目標達成に向けて有効供給契約獲得をしていく取組みの観点から、総合的・確率的な把握として、そのように判断できる。経営計画の数値実現確保のためには。




20140331
 3月10日付ノートへの追記的に、幸福の質の高さの観点からの、より良いものとの「差異の意識の意思化」(現実を、その差異が意識できるより良いもの−現実であれ、再構成把握された現実の残像であれ−に近づけようという意思にする、というようなこと)、は、それ自体が実践であると共に、その−結果の−意思の実践化への指標にすることができるもの、だろう・・。



20140310
 「意思の実践化」という言葉を使うことによって、その過程が−そのような言葉で言い表せる過程が−、場合によってはとても大きな力や時間を要することにもなる、怒りその他いろんなつらいことや下らない快適さなどとの戦いを含みうる取組みの過程なのだということも−つまり、当たり前のようなことですが、意思を実践−に移−していくということは、その中の感情的ないし情動的な要素への取組みも含まれるものとして行っていくことなのである、ということも−、より有効に把握できると思います。



20140309
意思と実践との間には、「意思の実践化」という(ような言葉で言い表せるような)取組みが要ることが、ようやく、分かってきました。

 意思決定などの言葉は広く一般的に使われている言葉ですが、意思の実践化というような言葉は、インターネットで引いても(調べても)出てこないので、ごく個人的な課題にすぎないのかもしれません。それでも、いずれにしても重要なことだと思われるので、取り上げて記載しておきたいと思います。

 なぜ、意思の実践という言葉だけでは足りないのか。具体的な実践の段階で、その実践とは関わりのない、さまざまな課題が生じてくるのが基本的なその実践のありようであり、その生じてくる当初の実践とは関わりのない課題への対応を、当初の意思の実践として取組むのでは、その課題の解決にはならず−なっていかず−・・・、言わば当初の意思の実践との関係での、一つの相対的に独立した取組みが、基本的には次から次へと必要になってくる、それらを、当初の実践に振り向けていくような取組みを、「実践化」と呼ぶことができ、それ−そのように把握して取り組むこと−が必要であり、また有効だから。



20140308
  Cuore (Heart), by Ednondo De Amicis への外部リンクを、Home −左フレーム欄・「外部リンク2」の中に掲示させていただきました。

 何度読んでも本当に美しいと強く感じられる部分の詰まった作品だと思うのですが、「本当に?」との疑問が出てくる部分も少なくないことが、ずっと気になっている作品でした。この、本当に?との疑問が生じてしまう部分については、自分自身で物語として作り直して−作り出して−いくことが有効なのだろうと考え始めています。

 上記リンク先の作品は、原著書のイタリア語からの英語への翻訳文のものです。日本語への翻訳は、文庫本などで3種類位は出版されていますが、インターネットで著作権フリーで読むことができるのが上記のリンク先なので、ここに掲示させていただいたものです。

 この、本当に?との疑問が生じてしまう部分については、自分自身で物語として作り直して−作り出して−いくことを、このサイトの中にも登載していくことができればよいのですが・・。

 生活の−人生の−中の、幸福の観点からの質の向上のためには−多くは自分自身にとっての最良の人間の古典的作品の中にある−本当に美しいと感じられるものをその中に取り込んでいくことが何よりも有効だと考えていますが、本当に美しいと感じられるものは、少なくとも自分自身の場合には、体験的・経験的に、一瞬ないし束の間のものであることが基本的であり、継続的に取り込んでいくためには、言葉による生活の中の−出来事の−物語として、−子供の頃なら遊びや学ぶことをメインとして、大人では職の仕事−自分自身にも社会の中で共に生きている人々にも共通的に有益な成果を生み出していく仕事−をメインとして、読んだり、聞いたり、話したり、作ったりしていくことが、それ自体がその具体的な実践化としても、また、その具体的な実践化の方法を学ぶ手段としても、有効ではないかと、これもまた−あらためて−考え始めています。




20140302
 この日本の現在についての認識で、重要なことと思われるため、過去のこの運営ノートの記事への追加事項ですが、20140201付けの記事に、「我が国の資産保有の実態と資産活用プラン」という外部サイトの記事 (2008年の調査報告書) へのリンクを表示させていただきました。
 同じく関係する世界の現実についての認識でやはり重要なことと思われることとして、過去のこの運営ノートの記事への追加事項ですが、20140202付けの記事に、「世界の資産格差拡大−富裕層85人で35億人分」という新聞記事 (2014年1月22日付) へのリンクを表示させていただきました。




20140211
 (実践的に) 人間の身体の"存在"と"行動"はそれぞれ相対的なものと把握できる。人間の心の"存在"と"行動"もそれぞれ相対的なものと把握できる。

 "束の間の幸福の輝き" と "持続する幸福の輝き" も、それぞれ相対的なものと把握可能である。そのように把握して、"束の間の幸福の輝き" を、少しでも"持続する幸福の輝き"として持続させる取り組みが、自分にとっての人間の古典的作品を素材として、有効なものとして、可能になるのではないか?

 さらに、感受性の中の感情は特に、直接それを変えることは困難であるが、残像的なものを含めての感覚的な対象の把握に基づいてそれを変える−その質を高める−ことは有効に可能なことでありうる、という点からも。




20140202
 とても、とても、とても困難なことなのだけれど、下層の人々自身の直接的経済的取組への支援を通してその人々の取組が有効なものになることを通してでしか−そのような取組を通して以外には−有効な取組としてその人々の意見が政治的多数者になることはないのではないか。政治的多数者になるようにとの直接的政治的取組は有効でないとは言えないにしても。

 下層の人々自身の直接的経済的取組が有効なものになる−言い換えるとその取組の効果が「認識の成果に基づく取組の結果として偶然的な要素が主なものではない」ようなものになる−限りにおいて、その人々が−2014年1月22日、山梨日日新聞、「富裕層85人で35億人分」の資産格差」との趣旨の新聞記事のような−富裕層に、属するようになることはない(これも、さらに付記すれば、経済的取組におけるその成果の有効供給におけるその交換価値はその質の高低の要素を含めて考えても基本的に等価的なものであると考えられるため)−逆に、下層の人々自身の経済的取組が有効なものにならない限りにおいて富裕層に属する人々が富裕層に属していられる(これも、経済的取組におけるその成果の有効供給での交換価値はその質の高低の要素を含めて考えても基本的に等価的なものであると考えられるため)−と考えられるので。

 とても、とても、とても困難だというのは、自立した大人の全員が−少なくとも多数の人々が−自ら経営組織の社長にな(り、同時に中央政府や地方政府の議員にな)る力を、偶然的な要素が主なものではないようなありようで持つようになる、というような取組のことだから。夢の中の−そのような残像の中の−その先の夢のような取組のことだから。(世界の資産格差拡大−富裕層85人で35億人分−新聞記事[小谷行雄コメント付PDF])




20140201
 Home − メインメニュー −現在の業務関連特記情報(1)〜(6) − (6)「経営計画作成実行上での経営連関表の作成活用方法と、関連する産業連関表(国・地域等)・国民経済計算(表)」 − 「1-1 経営連関表作成方法基本メモ」の中に、『数値の表として見るだけでなく、取引先各産業種や自らの経営組織の各供給品目種などの項目の数値を適切に集計計算して−パソコンソフトで作り、また計算させて− "グラフ"に表すことにより、分かりやすく把握できる』 ことの記載を追加しました。また、そのリンク先に、 『1-2 経営連関表の具体的な作成方法と具体的な活用方法メモ』 のページを追加しました。

 さらに、これらとの関係で自らの経営組織の "取引先産業種" の一つであると把握すべき、「家計消費支出」 の重要性がよく分かる、「中央三井トラスト・ホールディングス」(現在では、「三井住友トラスト・ホールディングス」となっている)が公開している、 『我が国の資産保有の実態と資産活用化プラン』 という、2008年の調査報告書へのリンクを張らせていただきました。問題提起としても、そのとおりの結果になってきていると考えられます。
 ここにも、そのリンクを表示させていただきます。「我が国の資産保有の実態と資産活用化プラン」(外部サイト)

 合わせて、Home − メインメニュー − U 当事務所で提供可能な業務の内容/業務の報酬額基準(希望価格表)− (5)を、「財産・事業の全体的な相続承継・遺言・信託等関係」 から 「財産・事業運営の部分的な又は全般的な管理委託の管理監督・信託・承継・相続・遺言等関係業務」 とし、その業務の内容をそのリンク先ページに追加記載しました。




20140125
 自分自身にとっての古典的・亀鑑的な作品と把握できる小説作品は、すべて、"幸福についての物語" であると言える。この言葉−「幸福についての物語」−は、1938年、「アンテラリエ賞」を受けた『陰謀』という小説の、続編として構想ないし創作していた作品の内容についてインタピューを受けた作家本人の言葉として、ポール・ニザンが回答した言葉として−晶文社版のポール・ニザン著作集の或る巻の中などに−残されている。

 小説(ないし物語)作品は、当然に、固定的・一瞬的なものとしてではなく、"束の間の幸福の輝き" (−これも、『陰謀』からの引用−)でしかない場合であってさえも、変動的な、時間経過的要素を含むものとして把握されるものである。

 但し、それは、現実に、又は(心の中で)残像としてその作品を読む(あるいは暗誦する)ことを通して再構成把握されることによる残像を、必ず伴って把握される "物語" であり、感受性である。

 つまり、それを通して再構成把握される残像(−おそらくその作品の言葉の意味と言えるもの−)を把握しながら、そして、場合によっては−特に外国語での作品の場合などでは−、その把握が作家本人が本当に言おうとしてたことと異なって把握していないかについても辞書などで確認しながら読む(あるいは暗誦する)ことが有効な取り組みになると思われるが、時間と労力を要する取り組みとなりうるもので、その取り組みの価値については、合わせて検討していかなくてはならないものだろう。




20140124
 現実の作品で、固定的でまた一瞬的なもの−絵・写真・彫像・(人間の作品とは言えないのかもしれない)身近な植物、など−と、これに対して、現実の作品で、変動的で−variationalで−また時間経過要素が把握されやすいもの−音楽・アニメ・芝居・映画・(数学も、医学も、経営学も、また共通的に幸福な人生のためにいかに有効かの観点からのものとすれば倫理学ないし哲学や法律学や政治学などを含む)科学・(人間の作品とは言えないのかもしれないが)生活の中にいる−生きている−人間や動物、など−と、がある、と言える。

 前者はその、自分自身への感受性への影響効果の価値(それの影響を受ける自分自身の人生のないし幸福の観点からの、体験の、質の高さ)は一応固定的であり、たとえば自分自身にとっての古典的・亀鑑的作品の場合などでは一応固定的に高いものであるという場合があるが、後者は、その時間経過要素を含めて把握しても、その全体的なものの、自分自身の感受性への影響効果の価値は、その多くが、その価値の高低の変動要素が大きい、と言える。

 後者の、現実の作品で、変動的でまた時間経過要素が把握されやすいものであって自分自身にとっての古典的・亀鑑的作品であるような作品が、身近に、密度高くあれば、その、自分自身への感受性への影響効果の価値はとても高いものになるのは、明らかである、と考えられる。

 しかし、そうでない場合でも−現実の作品で、変動的でまた時間経過要素が把握されやすいものであってかつ自分自身にとっての古典的・亀鑑的作品であるような作品が身近に密度高くあるとは言えない、むしろその逆であるような場合でも−、現実の作品で、固定的でまた一瞬的なものではあるが自分自身にとっての古典的・亀鑑的作品であるような作品が身近に−おそらく−一つでもあれば、さらには、時間的(そしておそらくそれを含めて生物学的)限度があるにせよそれさえ身近にまったくない状況下でさえも、その−固定的・一瞬的な−現実の作品の再構成把握残像の再構成把握−の取り組み−として、変動的でまた時間経過要素が把握されやすいものとして再構成把握をしていくことは可能であり、このような取組方法は−ないしこのような取組方法も−、方法として有効なものであるといえるのではないか?

 参考:人生の、感受性の−幸福の質の−総体とでも言うことができるものは、それぞれの一瞬的な時間ないし時のその感受性の総体の、そのさらに総体として変動的でまた時間経過要素とともに把握される、おそらく過去のそれぞれの一瞬的な時間ないし時のその感受性の総体の、(再構成把握している、さらにその総体の)残像を含むものなのだろう。そして、それは、自分自身の身体全体の中になんらかの蓄積をしてきているものなのだろう。



20140108
 以下を要約して書くと、「実践的に、継続的に(つまり、常に)肝心なのは、状況そのものの選択よりも、衰えやその意識をも含む自身の感覚や感受性の豊かさへの選択の方である。−あるいは、前者と後者は基本的に、同時的になされるべきものである。−状況そのものへの取組のためにさえ。−さらに、合わせて、 "余分なものは要らない" という選択をしていくことも、休息を取るということも、その系(つながりを持った一まとまりのこと)として含めて。 」と言えるのではないか?

 実践的に、継続的に肝心なのは、対象としての状況そのものよりも、自身の感覚や感受性(ないしその意識、というようなもの)の豊かさの方であって、その衰えというものも−疲れで容易に生じるし、またその衰えは(就寝を含む)休息で、かつ、その感覚や感受性が意識されている限り、かつ生きている限り、基本的に回復するものであるが、その衰えを休息によって回復させることを一過程として含めて、自身の感覚や感受性の豊かさへの選択に基づいてのその実践的対象の選択による体験の−幸福の−質の高さの獲得に取り組んでいくべきである。あるいは、−状況そのものを対象とする取組と自身の感覚や感受性の豊かさへの取組とを−基本的に(時間的な多少のずれはありうるにしても)同時的に取り組んでいくべきである、と言えるのではないか?。

 さらに、合わせて、 "余分なものは要らない" という選択をしていくことも、その系(つながりを持った一まとまりのこと)として含めて。

 なお、疲れとは、実践的に、自身の感覚や感受性の−上記のような−衰えの意識である、と言える。

 これも、あたりまえと言えることかもしれないが、少なくとも自分自身のこととして、やはりあらためて認識しておきたい。

 合わせて、休息するのに一番良い方法は、そのために良いと思われ、感じられることを全てすること−その時間の思い(再構成把握残像など)をも含めて−ということも。たぶん。

 ・・・と記載していた、この(ような)認識は、それぞれその時点で何よりも実現させるべきその再構成把握残像の再構成把握をしたものを含むものへの意思の実践化の取り組みの、従属的なものとして、位置づけるべきものであることを考えると、誤りだろう(20140426追記)。



20131231
 政治 (すなわち社会を治める取組) は、今日何より立法 (法律を作り、また、変えること) が最も基本的な課題である、と把握できる。特に、資産格差の拡大化が顕著な社会の中での子供たちへの貧困の連鎖と、それを原因とする戦争とテロリズムなどについて。

 この文脈の中では少なくとも、戦争は、何よりそのための−最低限度、配給できる武器、食料、衣服などの−資産保有を要素として他国者又は他民族者と名付けられた者などの資産や労働力の収奪の手段になり戦争従事以外に有効な職のない人たちの就職手段になる組織的な−必ず複数の、基本的に前線に出ない者と前線に出される者とがいた−そのような手段の達成自体を−基本的に黙示的に−目的として、その他国者又は他民族者と名付けられた者などを、結果としてのものを含めて殺傷し又はその殺傷の威嚇をする国家的規模における取組であったし、今後もそのような組織的な取組であるものとして、把握(認識)できるのではないか。

 同じくこの文脈の中では少なくとも、テロリズムは、何よりそのための資産保有を要素として他国者又は他民族者と名付けられた者などの資産や労働力の収奪の手段になり戦争従事以外に有効な職のない人たちの就職手段になる組織的な−必ず複数の、基本的に前線に出ない者と前線に出される者とがいた−そのような手段の達成自体を基本的に黙示的に目的として、その他国者又は他民族者などと名付けられた者を、殺傷し又はその殺傷の威嚇をする国家的規模に達しない規模の取組であったし、今後もそのような組織的な取組であるものとして、把握(認識)できるのでないか。

 これらの立法の取組や、戦争やテロリズムの減少化の取組において、日本国憲法は、日本国民が最上位のものとしている法律一つだが、今のところ、共通的に世界でも最良の憲法の一つである、とも。

 (Home− *メインメニュー − V 現在の業務関連特記情報(1)〜(6) のリンクの中の、(5)「生活を守るために現在知っておきたい幾つかの基本的な法律名とその要点」を開いたページで、「憲法(日本国憲法)」の、私には最も肝心な部分と思われる定めを掲載しています。これらの条文は少なくとも当分は変わらないし、変えない方がよい、と私は考えています。(該当ページへのリンク − その(5))



20131230
 最も高い幸福の質は、そこにマイナスの要素が在っても、その残像を含めて、生身の人間の姿形や声をしている(そのために世界が−たとえばバラの花とか、食べるものなどが−要るにしても)。少なくとも私の場合には。
 そしておそらく多くの人にとっても、幸福のために一番有効な薬は、人間の意思や行動を含めた−可能な−美しさなんだ。−自分自身を含めた人間の。本当の、全面的な親切さと言っても−あるいは言った方が−良いかもしれない。

 この認識は、エピクロスの、「四つの薬」として伝わってきた、「神々は何ら恐るるに足りない(エピクロスは、神が怒りにかられた行動を取ることはないという認識を持っていたようです。後記引用文献。)、死は何ら恐るるに足りない、苦痛は耐えることができる、幸福は手に入れることができる。」という教説(上記引用した根拠の他、それぞれ根拠が述べられている認識。岩波文庫−ディオゲネス・ラエルティオス著−加来彰俊訳−『ギリシャ哲学者列伝』−下巻−末尾第10巻−エピクロス、から。)の形式の借用です。
(上記引用した翻訳文は、少なくとも本旨は間違っていないと思いますが、他の翻訳からの引用かもしれません。)



20131228-2
  Home − 「サイト内全情報の概要」のリンク先ページの中に、「参考:*2)」として、次の言葉を加入しました。

 『以上の、「なぜ?」と「本当に?」との、−私にはとても重要と思われる−問いに関わって、私の職業上の仕事の基本的分野の一つである裁判手続で、ある裁判官の言葉として雑誌の記事に紹介されていた印象深い言葉をここに引用してみたいと思います。

 「証拠は有限、主張(裁判当事者の言い分)は無限、主張は証拠に制約される。」−という言葉(すなわち認識)ですが、裁判と、科学(それも、科学的法則性の正しさあるいは確かさを検証する部分)とが、共通的な認識を持っている、という点が強く印象に残ります。

 この−裁判と科学とがそのような共通的な認識を持っているという−場合に、その「証拠」は、人間に共通的に確認できるものでなければならない、はずです。』



20131228-1
 実践的意識(ここでは、なんらかの実践・取組によって幸福の質の観点からの体験の質をできればその全体的なものをよりよいものにしたい、という意識)は、意識の中に基本的に常に含まれていて、すべての実践・取組は基本的にそれから出発しており、することになるが、体験の質をよりよいものにするという、その質は、少なくとも私自身の場合にはその中の感受性の質に何よりも掛かっていて、その感受性の質は、さらにその最も深い、源泉と言ってもいい部分である、自分自身の身体全体に最も近い部分あるいは自分自身の身体全体そのものに何よりも掛かっている、ように把握できる。

 さらに、その感受性の源泉部分に対する働きかけの取組・実践は、体験の中の最良のものたちや、それら体験の中の最良のものたちの(再構成把握するものを含む)残像に導かれてなされていくべきものだ、とも把握できる。

 このような認識も、あたりまえとも言えることかもしれないが、この時点では、また私自身には、重要であるように思える。

 以上の認識については、20140424現在、必ずしもそう把握できない。自分自身とその対象との同時的な、あるいは・・・。



20131208-2
  自分では、フェイスブック(facebook)の活用方法は、ほとんどまったく分からないのですが、フェイスブックでの五つの最も重要なこと(Facebook's Five Core Values)、と述べられているものは、実践のうえでとても役に立つので、記しておきたいと思います。順序も、そのとおりで。一まとまりの認識結果とも言えるように思います。

 " Focus on (most)Impact, Move Fast, Be Bold, Be Open, Build Social Value "
 ("(most)" の部分は、加入してしまいましたが。)

 『ザッカーバーグストーリィ』(IBMパブリッシング株式会社,2012年版)から引用。



20131208-1
 話すこと・語ること(一まとまりの話をすること)によって、その人の感受性を表現しているものでもあるその人の体験の(再構成把握しているものを含む)残像の内容を把握できることが少なくなく、逆に、話すこと・語ることがないと、再構成しての場合を含めてその−その人の体験の、再構成把握しているものを含む残像の内容を−把握できない部分が、少なくない。(本当は、声だけでも把握できるのかもしれないが、より深く、についてはそう言えるだろう。)

 "その人" は、相手−他者−である場合はもちろん、自分自身である場合を含めて、だと言える。

 この文脈の中で、"感受性" とは、感覚と感情の総体的なもの、の意味であり、"表現" とは、体験的に(ないし、体験として、ないしさらには、心で−つまり精神的に−、基本的に感受性を伴っているものとして)把握できるようにすること、というような意味。

 話すこと・語ることの、その内容と、その話しをしている時の体験は、(感受性を伴って)話す対象の残像を再構成把握すること・していくこと、そのものでもある、と言えると考えられる。

 話すこと・語ることの、その内容と、その話しをしている時の体験は、言い換えれば、"感受性" を、自分自身や、まわりの人に表現していくことになる、その体験の内容であると同時に実践でもある。

 考えたり、話すことを、"書くこと" は、文字でそのように表現することである、と言えるが、その、考えたり、話したりしていることの、その内容ないし対象である残像などを、見失わないためのよい方法だと言える。

 書かないで、口頭で話すだけでは(口頭で話すことは、感受性の表現が基本的により直接的なものにはなるが)、その内容ないし対象を見失ってしまってそうしている−話している−ことが少なくない、と言える。



20131124-2
 「学びと感動が人を変える−塀の中の中学校 桐分校」の新聞記事を読んで、
 学ぶことは何より、その最初の動機は何であれ、生きていることの中の感動を (今の自分の言葉で言えば、生きているその体験の−幸福の−質の高さを) 学ぶことになる、そのようなものとして、取り組まれるべきもの。(塀の中の中学校 桐分校−新聞記事)



20131124-1
 「再構成把握残像の再構成把握」からそれだけでなくさらに「再構成把握残像の再構成現実化把握」への取り組みの選択を、おそらく何よりそれに適う自分の精神ないし心 (という言葉で把握できるもの) と身体への取り組みの選択を通して、していくこと。
 自分の精神も身体もいずれも、有効な−自身の実践的な意識の−取り組みの対象でありえ、又、まず第一の取り組みの対象でありうべきものであると把握できるため。



20131122
 おそらく一番簡単な経営連関表(造語)は、自社会計の1年間の決算書数値から、自社(経営組織)の供給商品(とういべきもの。言い換えると供給する仕事)の、「有効供給(というべきもの)=有効需要」となる取引(契約)が成立した(つまり売上が計上された)対象地域の、その供給した商品種毎の、供給先の経営組織の産業種(この種類の中には、産業連関表で示される「家計消費」を含める。家計消費は経営組織の活動とは言えないが、経営組織の最小単位である各個人の必要経費的消費支出として把握でき、つまりはその合計額は[対象地域内の]その総量として把握できると思われる。また、この種類の中には、その有効性に応じて産業連関表で示される「国内[地域内]総固定資本形成」や「輸出」を含めるものとして。)の種類(簡単なものでは日本標準産業分類表での大分類)毎の売上高(すなわち、有効供給=有効需要となる取引契約成立高)の行列表として作成でき、この1年での、また時系列での数値を、経営の取組に活用していくことができる、と思われる。

 そして、経営の取組の中での広告・宣伝・広報の取組においても、その対象地域の、自社(経営組織)の供給商品(供給する仕事)の「有効供給(というべきもの)=有効需要」となる取引成立のための情報が、その相手方にどのように取り組めば有効に届くか、に関して、また、その情報の内容に関してもどのような内容にすればその情報の発信が有効に働くか、に関しても、それぞれ有益な認識を得るための情報として把握していけるのではないか。

 この把握は、可能なら国際、そして国内各産業連関表の数値の中の一部として。また、(逆に)個別取引契約の内容の検討も不可欠的なものとして。

 さらに、ここでも、なぜ?及び本当に?の検討を不可欠的なものとして。



20131117
 美しいという対象や体験と、愛せるという対象や体験について、あらためて検討して、美しいとは、その体験や対象が−残像としてであっても−感覚に快く訴えかけてくるということ(「類語国語辞典−角川学芸出版」)、と把握できるが、言ってみれば−とても美しいという対象や体験であっても−それ以上でも以下でもないものであって、愛せるとは、その体験や対象を−再構成把握残像としてであっても、実践的に、感覚に−それも、視覚的・聴覚的・香覚的・・・などの感覚に−快く訴えかけてくるように選択すること−さらには恒常的に選択していくこと−ができる可能性が高いと感じられること、と把握できる。さらに、愛するとはその愛せる対象や体験の方への選択の取組であると。実際には恒常的な取組としてはなぜかとても困難な取組なのだけれど。

 再構成把握残像の再構成把握、それも、何よりも、その中に感じることができる(基本的にはそれを創っている)人間を感じることが、中心的なものになるように思われる。言葉でも、絵でも、写真でも、音楽でも。愛せるか、に関わって。恒常的に。

 そして、体験しているこの世界の中に、自身の実践的意識のある限り、美しい対象や体験や、愛せる対象や体験が、恒常的に存在していることは、少なくとも自分自身にとっては間違いないと言える。

 恒常的な取組としては困難であるのは、その受け入れうる(愛せる)対象や体験のその訴えかけてくる要素を妨げる要素(というべきもの)が、恒常的にと言ってよいほど多くあり、また強くあることが少なくないためであり、それら妨げる要素と闘ってそれを消失させていかなくては(少なく)ならないためだ、と把握できる。



20131111
 「日本標準産業分類−中・・小・細分類」のある外部リンクページを、サイトマップ−V(6)「経営連関表・産業連関表・国民経済計算(表)等」に関係する項目−「6−5」に掲載。その最小単位が就業者各個人である各経営組織の付加価値供給額=確保額を、なるべく具体的に把握していくのに有効な情報として。なお、サービス業以外の産業の場合、とりあえず、平均原価率などによってその付加価値計算をしていくことになる。(外部リンク)



20131031
 物語又は言葉を近似値とする、感覚や感情やそれら感覚・感情の対象や、それらの再構成把握残像(イメージ)などの体験の全体が、物語又は言葉を読んだり、書いたり、聞いたり、話したり、思い描いたりすることによる体験それ自体よりも、より肝心なのではないのか。少なくとも自身の場合。



20130928
 質の高い幸福の体験と、残像と、予見、幸運と悲運

 あくまでも自身のこととしてであるが、それらの予見は、(再構成把握)残像の再構成把握である。なぜなら、これまでの体験の中に(その残像の中にといってもよいと思うが)(再構成把握)残像の再構成把握として把握できる予見以外の、体験そのものの予見(の残像)は、見い出すことができないから。

 質の高い幸福の体験の予見は、したがって、その(ような)体験の(再構成把握)残像の再構成把握としてのみ、把握できるものである。

 フランシス・ホジソン・バーネットの『白い人びと』の翻訳を読んで。また、山梨ダルク(DARC−drug addiction rehabilitation center−薬物・アルコール依存症回復施設)の5周年記念感謝フォーラムに参加して。

 「美しいとは、自身の感覚に快く訴えかけてくるということ。」(『類似国語辞典』の意味定義、ないし、そのアレンジ。)(という言葉で言い表される体験の、近似値-である体験-のこと。)

 自身にとっての「愛」とは、自身と共生しうると把握されているものとの間にある、自身にとっても相互的であると把握されている、その共生に関係する美しいと把握される(その共生に関係する美しさの)体験のこと。

 幸福の質の高さとは、実践的に取り組んで得られる幸運の質の高さ。

 それを更に高めるとは、実践的・体験的なその取組み(実践)自体のこと。

 そして、多くの人の幸福の質(実践的に幸運の質)を高める結果になるような取組みの方向性の選択は、その確率を高める。

 悲運に対しては、幸運を受け入れ、選択していくように、そのように、それを避ける取組みをしていくこと、という選択の方法が考えられる。そのような(再構成把握)残像を再構成把握しうる。(言い換えると、それらのように予見しうる。)



20130816
 『自衛隊の行く道に熟慮を』- 「国際貢献はサンダーバードのように」 をテーマにした新聞記事が、山梨日日新聞、本日号、暮らし欄に載っていた。投稿者は、水島朝穂早稲田大学教授。

 最初は、「サンダーバードと自衛隊」?という印象。

 しかし、「防衛予算で消防レスキューと同じ装備をそろえる国は、世界でも日本だけだろう。(東日本大震災では、このシステムが活用された。)」というコメントもあり、興味を引かれた。
 「サンダーバード」というテレビ番組は、見た記憶がある。西暦2065年頃の物語とされている(Wikipedia)。「驚いたことに、その自衛隊が今春、隊員募集と活動啓発のポスターにサンダーバードを起用した。サンダーバードは人命救助第一で、いかなる国家にも所属しない。援助も受けない。・・・自衛隊を国防軍にするのか、それともサンダーバードに近づけていくか。周辺諸国との関係を含め、憲法9条をめぐる冷静で熟慮ある各論的議論が求められる。」(新聞記事)



20130526
  人の話しを、その内容だけでなく、その人の行動としての話しである、としてその話しを聞くようにしていくことは、有益でまた必要ではないかと思われる。
 自分が自分自身に話すその話しについても?おそらく。



20130430
 人間として成長するということ−全面的に人間らしい人間になるということ−と、みんなのより幸福な質の人生のために役立つということと、自分自身のより幸福な質の人生のために役立つということとは、それぞれ、比例的な関係にあるということ、について。

 さらに、それぞれの経営目標の確保のためにも、それらの取組が、すべて、広報、広告、宣伝、マーケティングなどの中にも有効に位置付けることが可能であること、について。

 なぜか、について再考察してみる。

 人間として成長するということ、言い換えると、全面的に人間らしい人間になるということは、一人一人が、これから、他の一人一人との関係の中で、作っていくものとして実現されていくものである。人間として成長するということのイメージ、言い換えると、全面的に人間らしい人間になるということのそのイメージは、少なくとも自分自身では、基本的に、さまざまな、人間らしいと体験された現実の、その残像を、再構成して(可能な限り全面的にそうであるようなものとして)把握することによって、そのようにして再構成把握する残像として、把握されるものである。

 自分自身にとっての人間の古典的な作品(と言ってよい作品)は、たとえば一人一人の具体的な人間のさまざまな人間らしい面をもその中に含めて把握して、その最良の素材になるものである。

 その人間らしいということの中には、みんなのより幸福な質の人生のために役立つということ(要素)が含まれている、としか考えられないのではないか。

 経営の観点からも、悪いことで評判になり有名になるのではなく良いことで(基本的には、みんなのより幸福な質の人生のために役立つということが含まれていることで)評判になり有名になることは、自らの経営上の仕事の成果の内容を人間社会の中で広く認知してもらうためにも、−ことによると何よりも−有効な方法である。

 従って、上記の結論は、そうだと言えるのではないか。



20130406
 人生と、経済について。さらに、経営について。

 経済は、すべての人にとってのその人生の幸福の質の高さの確保をしていくために、基本的に恒常的に必要なものであ る。

 すなわち、経済とは、(食物、衣服、住居、水道火力電力などの、個々人でその充足度が少なくとも現状で大きく異なってい るが)人々の取組によってすべての人に対して共通的に確保していくことができると認識されている条件であって、各人の 人生にとってその人生が (快いと感じて生きていくことができるために、または)少なくとも苦痛ではないと感じて生きて いくことができるために基本的に恒常的に必要な条件を確保していくための、人々の取組である。

 従って、各自自分自身でも、経済は (経済の取組は)、自分自身のためにもその幸福の質の高さの確保のために、基本的 に恒常的に取り組まれていくべきものである。

 経済と経営との関係について。

 経営は、、経済の (経済によって確保していくべき条件を確保していくその)取組の主体である個人と、その個人が組織し、また組織されてその取組をしていっている−そしてしていく−、その主体である個人そのものと、その個人がつくっている組織そのものを維持していくための取組である。

 経営も、経済との関係を一瞥してみても明らかだと思われるが、基本的に恒常的に取り組まれていくべきものである。

 なお、各個人個人に固有的なその人生の幸福の質の高さ (の確保をしていくための条件)を確保していくためのその取組は、経営及び経済の取組と、基本的に並行的に取り組まれていくべきものであると考えられるが、その固有的な取組も (その固有的な条件の確保のための取組も)、多くの人々に共通的なその人生の幸福の質の高さの確保をしていくための条件の確保のための取組と、その成果とを、活用することが可能になるものであり、かつ活用することが確率的にも有益なものになりうる。

 そして活用するためには「学ぶ」ことが必要であるとともに、それぞれ自己に固有的な条件に照らして学ぶということが必要である。

 創意工夫は、それぞれ自己に固有的な条件に照らしてという点で、学ぶ上でも基本的に恒常的に必要である。



20130330-2
 経済的取組(つまり経営)の出発点の認識について。

 共通的な出発点の認識であり、さらに、現在の日本での、なんらかの程度で継続的なそれが可能な人のそれであるようなものについて。

 これは、自分で個人事業又は会社企業又は組合的事業を経営している、あるいはそうしようという段階に居るのでなければ、就職勤務先を見つけることから。

 これについては、生活していくのに継続的に一定額の金銭が必要だから、そして、就職し勤務しての仕事をしていくことによってその金銭を稼いでいくことができうるから、と考えられるからである。

 しかし、一人一人について見ると、安定的にそれが可能になる就職勤務先を見つけて就職勤務できる人と、それがなかなかできずに居る人と、必要とするあるいは目標とする金額を稼げずに居る人とが居る。障害を持っている人、ある程度以上の高齢者、若年者で学歴や就業技術習得が不足している人などに、現状では当然、多い。

 金銭を一定額継続的に稼いでいくことが、必要なのは、他の動植物などとの対比として見てという観点を加えてみて特に、他の人の、その所有又は借用土地と所有又は借用種苗や家畜と所有技術とを使用しての取組に基づく食物と、他の人の、所有又は借用土地と所有又は借用機械器具と所有技術とを使用しての取組に基づく建物や衣服や水や電気や生活上の機械器具の生産成果を、それによって継続的に得ていくことが必要だから。そして、金銭なしにそれらの成果を得ていくことができないからである。

 それらの、就職できずに居る、また、必要であり、目標とすべき金額稼げずに居る人たちのできるかぎり多くの人たちが、安定的にそれが可能になる就職勤務先を見つけて就職勤務できるようにするためには、その就職勤務先の経営組織も安定的にその就職勤務者を雇いかつその経営組織の経営者自身の経済的必要目標金額を稼げていくことができていく必要もあるとともに、その就職勤務先を探している人たち自身がその就職勤務先の経営組織が安定的にその就職者勤務を雇ってかつその経営組織の経営者自身の経済的必要目標金額を継続的に稼ぐことができていくことに対して、取組可能な限り有益な、自己所有能力または自己所有技術に磨きを掛ける取組をしていく必要性がある。

 それらの必要性は、それらの経営組織のそのそれぞれの時に置かれている経営環境(経営に関わるさまざまな変動しながら存在している条件)の中で、 それらの経営組織が、その経営組織が供給していくその経営組織の基本的なその仕事の成果を-この仕事の成果は、サービスを含むものとして一般に商品と呼ばれているが、公共的サービスも間接的にその性質を持つためこれに含めるべきものであるが、それを-、支払可能な金銭の支払を受けて、その顧客である相手方に供給していくことによってその経営組織が稼いでいく継続的な金銭の一定の必要目標額を確保していくことに対して、どの程度必要又は有益に寄与できうるかによって、測ることができる。

 その測る基準となるものは、その就職勤務者自身についてはこれを一つの経営組織と把握して、その顧客である相手方をその就職勤務先であると把握して、そのそれぞれの経営組織と、その同一及び類似業種の経営組織の、自らの場合以外は業界資料また関連業界資料とし公開されていて把握可能な決算書又はその一部数値の集合の(求人情報はその一部である)統計値であり、さらに、政府作成の「産業連関表」「産業別就業人口表」を含む、基本的に決算書の集合の統計値である。

 一人一人にとって、基本的にものすごく困難なことではあるが、このような認識(把握)とこのような認識に基づいてその経営組織の経営のそれぞれの時点以降の一定期間の金銭収支利益の計測を継続的にし直していくこと、そして、その目標値に向けて-状況によっては最大限に厳しい-取組を継続していくことは、必要又は有益な取組である。

この認識に基づいて、このホームページの本文テキストも、さらに勉強を進めての書き換えが要請されている。



20130330-01
 美しいという性質、 また、やさしいという性質は、それぞれ、生まれつきのものであるとともに、取り組んで磨きを掛けてのその成果としての性質でもある。

 できるのは、取り組んで磨きを掛けるということである。他者のそれについても。取り組んでだめにしてしまうということもないわけではないにしても、基本的には、経験的には、成果は上がる。

 世界あるいは人々と、自分あるいは自分たち、世界の中の人間の作品、その作品は、自然の性質を持ったものであるとともに取り組んで磨きをかけてのその成果としての性質を持っている作品である。

 人間の身体も、またその身体に在り、その身体とその行動の成果を通して感じることのできる精神も、作品でもある。

 実践的に、言い換えると、取組において、肝心なのは、その取組みの成果と、その予測と、である。

 予測は、体験の中の或る体験、ないし体験の中の或る部分の、再構成把握残像の再構成把握である。

 その予測において、体験の中の、或る、その取組みの成果として達成されるべき体験に近い体験の再構成把握残像の再構成把握の継続、言い換えると、創意工夫の継続と、取組みの成果としての、或る、その取組みの成果に近い体験の再構成把握残像に近い現実の体験が獲得できたその体験と、それらの獲得できた再構成把握残像に近い現実の体験が獲得できたその体験とその再構成把握残像の、統計的成果の把握は、その予測を活用しての実践の成果の実践的確率を高める。

 獲得すべき体験に近い体験であるものとしての取組の成果として、数量で把握できる、経営利益などの取組の成果は、それ自体では(予測としては)把握しやすいが、質が問題になるものの把握は、困難である。しかし、絵画、映画、写真、実物の人間、実物の情景、文学作品の中の人間を把握している言葉、音楽作品の演奏記録、などを活用して、より把握しやすいものとして把握していくべきものである。 



20130309
 認識(それも、基本的には有益と考えられる法則性の認識)に基づいて実践(取り組み)はなされるべきだが、その認識は、人間に共通的なものとしての(言葉や文章の共通の意味の中に含まれるような認識の水準を前提としての)それである。実践は、個々の人間に個別的な条件の元でなされるものであるので、このことからだけでも、それがなされるうえでの有益と考えられる法則性の認識に基づいてなされる場合でも、必ずしも望むようには(目標が達成されるようには)その結果は出ないと言える。しかし、その実践における有益と考えられる法則性の認識を持ち続ける必要性は、なくなるわけでもなく、ただ、個々の人間に個別的な条件(運命と言ってもよいもの)に対決していく中でしか、その実践での目標達成はできないということである。認識は重要だけれども、さらに重要なのは実践である、と言える。経営についても、人間関係についても、人生そのものについても。



20121230
 体験の中の感情の部分を、分かち合えるように取り組んでいくこと(celebrateしていくこと)、−それも何よりも、(声に出して話すことや歌うことや演奏することなどを含む)振る舞いや、言葉に書くことや、わずかでも美術や音楽作品に書くことなどの物質的なものの中に取り込むことによってそうしていくことは、共通的にその実践的な操作可能性の高まることによって−おそらく何よりもこの点で−有益な取組みになりうる。

 それも、自分自身にとってのでよいので、少しでも人間の(これから作られるべきものを含むそのような)古典的作成に近づけられるよう取り組んでいくこと。これは、確率が高まると思われる−直観される、ないし、これまでの全体験的にそのように判断される−からである。

 感情の中のつらい否定的な部分については、それをどのように−創意工夫をしていって−克服し得たか−また克服し得るだろうか−について、分かち合えるように取り組んでいくべきだろう。

 なお、分かち合えるように取り組むことは、自分の中に含まれる他者−自分の中で対話するときのその、おそらく実際の他者(たち)の再構成把握残像を再構成把握したものから自分の基本的に別の時点での状況下での体験として把握されているような、そのような相手方−とも分かち合えるように、ということも含むものである。



20121202
 「人は生涯に稼いだ所得にほぼ近い消費をするので、消費税はおおむね所得に比例的だ。消費税収は社会保障給付に充てるから、大きな所得再分配効果も生まれる。」(日本経済新聞2012年12月1日−「2012年衆議院選−政治は何をすべきか」−財政制度等審議会会長、エール大経済学博士、東大教授、吉川洋氏)
 
 この判断について、「人は生涯に稼いだ所得にほぼ近い消費をする。」とは考えられないが、仮に「そう」であるとすれば、「消費税はおおむね所得に比例的だ。」というのは、そうだろうと思われる。

 しかしこの判断は、この判断で問題にしていない、その消費税率(の増加)が、その消費税を負担する人の人間としての最低生活費の部分と、そうではないいわば生活余裕費の部分の両方に対して同じ税率(の増加)でしか負担されない、という問題を前提問題として取り上げていない。

 私には、この、人間としての最低生活費の消費支出がたとえば年間120万円とした場合に10%での消費税負担率での負担額が年間約12万円に−も−なり(その限度の所得収入しかない場合には、人間として生きていくことができなくなり)、そして、余裕生活費の消費支出がたとえば年間1200万円とした場合にも同じく10%での消費税負担率での負担額が年間約120万円で−この場合には−済む(仮に、年間1億2000万円の消費支出があったとして、この場合にも、年間1200万円の負担で済み、仮に、同じく年間1億2000万円の消費支出能力を持つ人が年間120万円の最低生活費の支出だけをした−としてその−場合にも、年間12万円の負担で済む)ということになる、という、人間としての、たとえば120万円の最低生活費の消費能力しか持たない人への−この場合に相対的なと言っていいのかどうか疑問もある−負担増加の集中の問題が、何よりも肝心な問題だと思われる。

 さらに、「消費税収は社会保障給付に充てるから」との判断は、その証拠が何なのか、見いだしがたく、仮にその証拠があったとしても、その人間としての最低生活費部分の税負担率(の増加)の全額補填にはなりえない(それをすれば消費税[率増加]の意味が大半なくなる)から、消費税率は最低生活費の部分と余裕生活費の部分の税負担率が同じであるということの結果を前提にして、消費税(率の増加)は、これまでと同様に(さらに)、「大きな所得格差増加効果を生んでいく」のではないかと私には考えられる。



20121122
 日本維新の会代表、石原慎太郎氏の、11月20日日本外国人特派員協会講演での発言−「日本は核兵器に関するシミュレーションぐらいやったらいい。これが一つの抑止力になるだろう。持つ、持たないは先の話しだ。」
 −たとえば、東京都の真ん中に、落とした場合などの?

 なぜ、そして本当に、「日本が核兵器を持つと、この世界で核戦争が行なわれることへの、また、この世界で核兵器が使用されることへの、一つの抑止力になる。」と言えるのだろうか。



20121019
 経営組織と政府メモ

 『"経営"とは、少し長くなりますが、また、今日、という条件付きでですが、次のようなものだと考えることが可能です。
 経営とは、「人々が、各自自分の人生の経済的要件(生きて生活していくために必要な−衣食住など必須の物質的要素を中軸とした−要件)をよりよく確保していくためにさまざまな産業に組織立てられつつ分化してきて行なっている活動(経済的活動)の中で、自分自身が従事していない(他の一つ一つの)産業部分(職業ないし職)の仕事の成果を取得していくために、自分自身が従事している職の仕事の成果を他の職に従事している人々に対して、(そのための基本的な媒介手段としての金銭を介在させて)交換的に供給していく活動を、組織立てて行なっている、その組織を維持していく活動部分のことを指す言葉である。」

 そしてその組織は、一般的に経営組織といってよいと言えるので、経営とは、「経営組織を維持していく、さらには必要に応じて拡幅していくための活動である」と言ってもよいと考えます。

 そして、今日、人々のあらゆる経済活動と、経営と、経営組織との関係については、要約して、次のように言うことができると考えます。
「あらゆる経済活動は、今日、経営が継続的に行われている大小の人々の組織、すなわち経営組織を一旦経由することを通して、それぞれの経営組織の仕事の成果が、金銭を媒介物として介在させて、交換的に取得されていくことを中軸として行われている。」

 自分がその経営組織の中で仕事をして、そのなんらかの成果が、その適切さの程度はともかく経営組織に供給されてその経営組織で活用され、その、自分がその経営組織に対して供給した仕事の成果を含めて、その経営組織は、社会に対してその経営組織の仕事の成果を−いわゆる(サービスという商品を含む)商品として、あるいは公的サービスとして−供給していき、かつ、それと引き換えに−公的サービスの場合には間接的に公租公課負担というかたちの場合を含めて−一定額の金額の金銭を取得していっているという、このようなありようについては、今日、基本的にどの人間社会でも共通していると考えられます。

 * ちなみに、公的病院の医療サービスなどの場合、独立行政法人などにおいては、上に述べた「公的サービス」というより「商品としてのサービス」の範疇に近いものを供給していっていると把握できます。経営組織として見た中央又は地方政府が公租公課として確保する金銭を、間接的にその予算配分としてその政府各部門に交換的給付をしていくその配分予算に相応するサービスとして、他の経営組織や国民に供給されていっているのでなく、サービスとその料金とが、直接的に交換給付されていっているものだからです。』

 政府(中央政府及び地方政府)は、今日ではそれを構成する地域の人々の、一人一票の代表者選任権限を有するという点で一人一人が平等な権限を持って、目標として掲げている限りでの、そのすべての人々にとっての幸福な生活を確保していくための仕事を、その地域の人々が選任した代表者によって定められる予算とその実行指示等の法規設定(一種の経営計画の設定)に基づいて、その地域のからの公租公課というかたちでの供給物(基本的には金銭)と(間接的にではあっても)引き換えに、供給をしていく経営組織である、と把握することができる。

『* (大雑把な言い方ですが)昔は、そして今日でも少なからず、他の経営組織の仕事の成果を、交換的に、ではなく、戦争を含めて暴力的に取得するということが、かなり頻繁に行なわれてきていたようです。蜂の社会で、他の蜂の集団(人間で言えば他国に該当する経営組織のようなもの)を襲ってその仕事の成果を−幼虫などを含めて−取得することがあると言われているように。
 今日では、人間がより人間らしくなってきて、そのような取得は少なくなってきています。いずれ無くしていくことができるかもしれません。




20120921
 「人間がどのような死に方をするかには意味がある。」(2012年8月20日シリアでの取材中銃撃されて殺されたジャーナリスト、山本美香さんの認識。NHKのテレビ番組「クローズアップ現代」の中で山本さんが繰り返して述べていた言葉として紹介されたもの。)
 当然、人間がどのような生き方をするかにも意味がある。同じように。
 人間がどのような死に方をするかは、人間がどのような生き方をするかの−取組みによる体験の最後の−一つだろう。



20120902
 すべての個人を判断するのに、何よりも、「何よりも人間という運命に対して弱い人間に対して、どんなにわずかでも実際には何の力にもなれなくてもできればかばえるように」と思って生きていこうとしているのか、「何よりも人間という運命に対して弱い人間に対して、弱い人間は餌食になればいい、それに対してできれば何の感情も感じないように」と思って生きていこうとしているのか、を見ていくこと?

 戦争・戦闘で殺される一般市民(非戦闘員)について。オスプレイその他の戦闘機配備及び飛行地域の住民について。原発設置及びその廃棄物貯蔵地域の住民について。被派遣(非正規)労働者の生活の恒常的な不安定さとその貧困化と消費税率増加割合の負担増加について。生活保護受給者の消費税率増加割合の負担増加について。

 戦争や暴力の連鎖に関して。政治に関して。経済に関して。自分に関して。他人に関して。



20120805
 認識とは、常にその時現在把握されている法則性の記憶(すなわち、再構成把握されいてる残像、ないしされるべき残像)である、そして意味も、基本的に認識である、という認識に基づいて、それぞれの人にとっての基本的な有効な認識を保持していくことの、その、おそらくその人自身の体験の幸福の質をも高めるという有効性の普及への取り組みを、基本的なものと位置づけて、進めていくべきだろう。



20120701
 消費税税制は、事業経営活動の取組の観点から、

 被雇用者は被雇用契約にもとづいて代価(給与)を得て雇用先に対して自己の労務を供給していくという自己の事業経営活動を営んでいる事業経営組織だということができ、その被雇用者を含めて、
 その事業経営組織が代価を得てその顧客に供給していくもののその代価に消費税相当額を加算する力のない事業経営組織(被雇用者がその典型だが多くの零細中小事業経営組織もこれに含まれる)に属する人々に対して、

 その負担割合としてはすべて同一消費税率で、つまりその給与ないし所得収入の生活費余裕度いかんにかかわらず、全く余裕のない(100%無い)人にも、
 余裕が有り余っている(数千%、数万%有る)ように見える人にも、すべての人に同一の税率で、

 その負担が実質的に集中する結果となる税制と言えるのではないか。

 後者のような人にとっては、仮に消費税率が50%、100%になっても、その受ける給与等所得収入の100%の生活費がかかるわけではないので(その受ける給与等所得収入の数千分の1から数万分の1の生活費支出なので)ほとんど全く影響がないように思われる。

 また被雇用者には、自身が顧客として代価を払って購入するものの代価の中に含まれる消費税相当額の金額の加算を自己の給与に加算する力はほぼ100%ないといえるので、住居家賃保険医療費費等を除くほぼ100%のその購入するものの代価の中に含まれる消費税相当額の金額の負担を実質的に負わざるを得ず(この場合、被雇用者が生み出した付加価値[所得]から生活費分の消費税額が実質的に減額される[ことによって納税したものと見なされて−というより仮想されて−いる])、

 また、その事業経営組織が課税事業者である場合には、代価を得てその顧客に供給していくもののその代価の中に消費税相当額の金額を加算する力のない多くの個人事業主を含む零細中小事業経営組織も同様に、その供給していくもののその代価に加算することのできない消費税相当額の金額の負担を実質的に負わざるを得ず(この場合、その個人事業主を含む事業経営組織が生み出した付加価値[所得]全体から消費税額の金額が[その支払義務があることに基づいて]減額される)、

 さらにその事業経営組織が非課税事業者の場合には、代価を得てその顧客に供給していくもののその代価の中に消費税相当額の金額を加算する力のない多くの個人事業主を含む零細中小事業経営組織である場合には、非課税事業者として自己が代価を払って購入するものの代価[諸経費]の中に含まれる消費税相当額の金額の負担をやはり実質的に負わざるを得ない(この場合には、その個人事業主を含む事業経営組織が生み出した付加価値[所得]から、仕入額その他の諸経費の中に含まれる消費税相当額の金額が減額される[ことによって納税したものと見なされて、ないし仮想されている])結果になるが、

 逆に(といってよい)、その事業経営組織が、代価を得てその顧客に供給していくもののその代価の中に消費税相当額を100%加算する力のある事業経営組織(仕入金額等諸経費の中に含まれる消費税相当額の金額の減額をその相手方にさせる力のある事業経営組織である場合を含む)においては、自ら消費税相当額の金額のを負担をすることは実質的にも100%ないと考えられるので。
 なお、ここに属する人々が、被雇用者である限りは前段落部分の判断が該当することになるが。



20120612
   「当面、とりあえず国内のものであっても、またその国内のものという限定が現在の限界としてあるうえにさらにその中での地域差での統計結果を取り込むこともより一層困難であってその限界もあるにしても、

 標準産業分類表と産業連関表(5年毎の時系列のものを含む)とそれらの中の各人口の統計などに基づく、

 各事業経営組織(個人自身をその中軸とする個人事業経営組織を含めて複数の個人が構成する、雇用・被雇用の在りようを含んでの組織としての事業経営組織は、入れ子的にまた交錯的に、何よりも事業経営組織間の、交易を含む交換という分業活動そのものによるものもその付加価値成果に含む分業による付加価値成果の、金銭を媒介物とする交換による経済活動をしているが、その最小単位は、その個人が扶養する個人は平均値として把握すべき稼働可能な個人だと考えられる、その意味での各個人を含む。)にとっての、

 産業分類毎の、何よりその事業経営の安定性の確保に関わる有効需要予測にも役立つような各限定的期間における共通的に有効な法則性の把握と、その質(この場合には何よりもその精度ないし確率)の高度化」という共通的な課題が考えられないか。

 但し、おそらく、共通的には各事業経営組織の事業経営の有効な基準的目標値は、その事業経営組織を構成する各個人の、(少なくとも選択的な在りようとしては人間として幸福な)生活に必要な諸条件のミニマム(最小限度)を確保できる値である、というような認識がその前提になる。

 そして、その分業による付加価値成果の媒介物としての金銭は、それを供給してその交換の相手側からの付加価値成果を取得する側では、その付加価値成果の質(であるもの)との、(個々の交換−取引契約−で儲かったと判断したり、損をしたと判断したりする結果を含めての)幅はあるにしても、基本的に等価と判断されて交換に供されていると把握でき、逆に、その分業による付加価値成果を供給する側では、その取得する金銭を、供給するその付加価値成果と、やはり幅はありうるにしても、基本的に等価の質であると判断して、その付加価値成果を交換に供している、とも把握できる。
 この場合に、社会的・経済的に、自由にその交換が行われているか否かの問題は、重要でありうるが、別主題となるべきものである。

 基本的に等価の質であると判断してその付加価値成果を金銭を媒介物として交換に供している以上のような経済活動の在りようについては、金銭そのものの保有に伴う以上のような交換によってのその相手方からの付加価値成果の経済的・社会的な即時的取得力を供給する(つまり、その即時的取得力の元本である金銭を利息付きで貸し渡す)という分業活動による付加価値成果についても、また、雇用・被雇用という交換(取引契約、すなわち雇用契約)でも、同じである。

 前者の、元本の経済的・社会的な即時的取得力を貸し渡す側の相手方がその交換に供するものが、利息という(借りて保有するその時点でのその一部を含む前払いになるかあるいは後払いになるかの、基本的には)金銭であり、後者の、雇用する側の供給するものが、給与手当という(今日基本的にはやはり)金銭であり、その相手方の供給するものが、被雇用労働による(雇用する側に与える)付加価値成果である、と言える。

 なお、公務という分業上の付加価値成果は、公租公課という在りようでの金銭を媒介物として、その交換がなされている、と把握可能である。

 追記すれば、分業活動による、何よりも個々の事業経営組織の付加価値成果の源泉は、基本的に、社会の中での等価交換を前提にした有効需要に対する専門的技術力の高度化(これは基本的には単位時間当たりの分業活動成果のその質の高度化)への取組(これも基本的には、創意工夫とその結果の試験的なものを含むないし試験的なものを兼ねての実践)だと言えるだろう。

 さらに、事業経営組織の活動として交換に供されるべき金銭に関していえば、等価として供給されるのは、その金銭(貨幣)の額面金額としての即時的取得力−言い換えるとその事業経営組織のその時期におけるその額面金額の市場価格(購買力平価のようなもの)としての即時的取得力−として把握されているものというよりは、より個別的な、その事業経営組織のその時期におけるその社会的・経済的環境下での、他の事業経営組織の総体から供給されるべき活動成果の総体に対する即時的取得力として把握されている、そのような質のものとして、共通的にその供給がなされているのだろう。



20120418
   質とは、差異のこと。質の高さ低さも、質の一つであり、差異の一つ。幸福ないし喜びの質の高さの観点から、肝心なのは明らかな、決定的な差異なのだろうが、その獲得のためには、わずかな差異を蓄積していく必要がある、というのが、基本的な法則性といえるのではないだろうか。



20120408
   認識も記憶の一種かもしれないが (ここでの「記憶」とは、現在の体験の中に把握できている、過去の体験の中の出来事[ないし過去の体験における意識ないし感覚の対象]の、再構成[把握]残像だと言いうるもののことだが)、そうだとしても、実践的に (すなわち、目的意識的に)、対象の (在りようを含む)変動の法則性を把握している記憶であって、より実践的に活用頻度が高い記憶であるもののことだと言える。言いかえると、実践的により肝心なのは、認識としての記憶だと。

 認識のうち、言葉によって把握できるものは、より活用有効度が高いものになるし、さらに、数式データとして計算可能なものとして把握できるものは(言葉や数式データは、物質的なものとして把握できるという点でも)、より確実性の高いものになるにしても、数式データによっても、また言葉によっても把握できてはいないが、再構成(把握)できる認識の重要性も(おそらく、繰り返し体験の中にその残像を[その重要性の意識に基づいて]再構成把握していくことを通して)、意識していくべきものだ。

 逆に、そのためにも(言葉や、さらには数式データによって把握できてはいないそのような認識の獲得とその意識的な活用のためにも)言葉や数式データも活用されるべきものであるし、言葉や、さらには数式データによって把握できてはいないそのような認識も、科学的認識(共通的に体験の中で検証可能な法則性の認識)の一種であると把握するか、少なくとも、科学的認識への過程的認識だと把握して、活用されていくべきものであると思われる。



20120204
   「行動によって把握される心・精神、を中軸とした人間の美しさの、欠如・欠乏からの保護の取り組み(体験の中の高い質の幸福の充実のためには何よりもそのような人間の美しさが要るので。また、現状ではそのような人間の美しさは弱いものと言わざるをえないので、保護、の取り組み。)」を。



20120101
   できる限り最良の「思い」は、できる限り最良の体験の再構成把握残像の、再構成把握という実践であって、体験の中で−同じことだが体験において−充実している幸福の質を獲得できているのでないかぎり、その思いなしに幸福の観点からの体験の質が高まることはない。



20111210
   楽しいとは、幸福とはと言ってもいい、体験の身近なものの中にすごく美しいと感じるものが密度濃く在ること。沢山の金銭よりも。再構成把握残像を含めて。その最も肝心なものが人間のすごく美しい部分。そのような、すごく(とびきり、飛び抜けて)美しいと感じる部分が体験の身近なものの中に密度濃くあることは、少なくともこれまでの経験的に、基本的・恒常的ではなく、むしろ束の間のものであることが基本的・恒常的である。とりあえず、自身の場合には。



20111203
   この体験の中の、人間のすごく美しい部分だけから構成されるような作品の世界(そうではない部分、その逆の部分が、ないわけではないにしても)を、この体験の中に構築するよう取り組むことは、何よりそれによって初めて、その体験の中の、振幅が基本的に恒常的にある体験の中の感情の質の、その総体の、わずかでも向上が可能になるものであること、と言える。そして、その取り組みは何より、その取り組みそのものがそのようなものになるように、なされるべきものである、とも言える。
 美しいとは、感覚に快く訴えかけてくる(「角川類語国語辞典」)ということ。
 感情は、恒常的な快・不快の観点からの、無味なものをも含む体験の質のこと。



20111018
   自分にとってのすべての時をその質の向上のための取組みにすべきであるくらいの、視覚に関わる「最初夏」の光を感じているような体験の質と、少なくとも一見幸福とは言えない体験の質(身体的なまた精神的な苦痛という質も含む)に対する、可能な限りでのそれをおそらく和らげるための取組みであるやさしさという一種の幸福の質の重要性は、認識として、また合わせて把握していくべきものだ。

 エピクロスの、『主要教説』のうちの「四つの薬」(「神々はなんら恐るるに足りない。死はなんら恐るるに足りない。幸福は手に入れることができる。苦痛は耐えることができる。」[ポール・ニザン、加藤晴久訳『古代の唯物論者たち』、晶文社、1974年版、55頁。また、ディオゲネス・ラエルティオス、加来彰俊訳『ギリシャ哲学者列伝(下)』、岩波文庫、1994年版、312頁、313頁。])のうちの、「苦痛は耐えることができる。」ことに関して、自身にとってのその実践的に有効な認識としては、前段後者の質に関わる認識のように把握することができるようである。前段前者の質に関わる認識もその一部だとも言えるかもしれない。さらにこの前段前者の質は、「幸福は手に入れることができる。」ことにも関わるものだが、それら前段後者及び前段前者の認識は、連続的ないし交錯的なものとして把握されていくべきものである。

 さらに、前段後者の、たとえば束の間の幸福の輝きのようなものさえの欠如感を和らげるためのできる限りでの取組みのその中には、それに適うまなざし−基本的に地球上のいのちのそれぞれの身体の旬の、つまり生き生きとしたという言葉の意味で把握されるような時ないし部分を含む光への視覚(その再構成把握残像を把握しているそれを含めての)を反映しているそれ−をも基本的に含ませるべきである。

 さらに、その時に現実の中に価値ある視覚的対象を見いだせないなら、再構成把握残像の方を見ていくくらいの取組で。これには、その結果でその再構成把握残像がより生き生きとしたものになってくる、という効果もあるようでもある。いずれも、少なくとも自身の場合には。



20110817
 作品の把握などによる質の向上化への取り組みと、その中での生の幸福感そのものの中に存在してるかのように感じられる息苦しさや疲労感や不快感などの減少化への取り組みとは、可能な限り等価的なものとして取り組まれていくべきものだ。

 この、変化のスピードの時代の延長線上でも、100年経ても(一人の人間の一生の時間を超えても?)人の心を深く動かす−つまりそのような質の高い生の幸福感を与えうる−作品は、1000年経ても、たぶん、よほどの根本的な変化が人間に起きるのでない限り、人の心を深く動かす作品であり続けるように思われる。

 但し、その年数は、その時現在の生の幸福感の質をより高いものにするための選択における確率的意味しか持たないものであるはずである。あたりまえのことのように思えても。



20110717
   全面的・全点的に人間らしい人間に成長するように恒常的に努力の選択などの取組を継続していくことは、可能だと思われる。そして、束の間のそれ--幸福の輝きの体験--を除き(あるいはそれを含めても)、全面的に人間らしい人間に向けて自身を成長させていくという取組は、恒常的な取組としては、最も幸福の輝きの--そのような質の幸福の--体験の確率--密度--を高める取組の一つだと把握することができるようである。

 全面的に人間らしい人間の--たぶん体験や既得の認識から再構成把握された残像としてのそれの--構成要素としては、疲れや苦痛や嫌悪などに関わる要素が体験の中にあるとしても--恒常的にあるとしても--、それにも関わらず、可能な輝きや美しさや快活さなどが主要なものとなるように恒常的な努力の選択などを継続していくこと--その恒常的な取組--が、必要的に有効なものとして含まれる。

 経営の取組も、交際的なものを含む公務的な取組も、そのような快活さなどをそれが主要なものとなるように自分たち自身の環境を整えていく取組の、その一部だと把握することも可能である。



20110625-2
   自らの死は、他者の死の再構成把握残像の再構成把握のありようとしてでしか把握できないものだ。死の、特に愛する他者の死の厳粛さは、把握している幸福感の最も重要な源泉が消失するということによるものだ。それ以上のものである、としても。
 その消失の把握を含めて、忘れることで済めばそれでよいものは別として、再構成把握残像としてのものでさえあっても、心に(ないし体験の意識の中に)痛みのようなものとして残っているものについては、さらにそれへのそれを消失させる取り組みをしていく、そしてしているのでない限り、幸福の質の高まりは相対的にでも困難である、人間関係上のことでも、お金に関わることでも、身体に関わることでも。そして、この取り組みはまた、これを含むさまざまな仕事に対して、どのように取り組んでいくか、によって、自らの人生が決まる(つまりその基本的なものが構成される結果となる)、その一つの取り組みである。このことも言えるように思われる。



20110625
   それをできなくさせる障害を持っているのではないすべての人が、自分の人生の数十年にわたる意識的な(その再構成把握残像の再構成把握の繰り返しないし持続を伴う、休息はあってもその必要はない取り組みなので逃げたり、投げ出したりしない) 経営者としての (自分の言葉で言えば「就職勤務−権限を得ての経営参画又は起業-経営」への取り組みの) 努力と能力を持てるようになるのでないと、人間間のゆるぎない幸福と平和は、−その少しでも、のものも−実現できないのではないか? それがとてつもなく困難な取組課題だとしても。



20110501-2
   新しい言葉の意味を一つ把握することは、基本的に、体験の中に存在した (現に存在することを含む) ほんの少しのないしごくかすかなでもの幸福感を相対的に一つ高め、強める、それは、新しい有効な法則性の認識を獲得したということでもある、母国語でも外国語でも、また、自分が心の中で発する言葉の意味であっても、と言えるか。世界の酷さあるいは優しさあるいは美しさというそれ、などでも。



20110501-1
   経済的な側面に限ってみれば、経営は、経営組織を通じての個々人の (税務で規定しているような意味での) 所得への取組活動 (但し、より正確にはその中での経営組織そのものを維持させていくことを中軸とした取組活動) であり、政治は、多数者意思の形成を通しての個々人の所得の調整への取組活動であり (なお、公的な裁判所の事務は、この意味での政治に属するものであり)、 寄付(ないし贈与)は、所得の個々人での再配分への取組活動である、と把握できるかもしれない。



20110320
   経営は、その出発点は、各自の生活の糧(衣食住等が可能になる-またできればより質高く、でのそれの-ための物質的対象)の確保のための活動であるが、そのための活動そのものを、より、社会に貢献していくように(より、多くの人々の幸福の質の高まりうるように)進めていくという取組みの有りようを選択していくように進めていくことは、その経営を確保していくための有用な方法選択となるものである。

 なぜなら、基本的に、そのような貢献への志を含む(相互的な)協力関係があるところに、経営上でもより有用な成果が達成していくものだから。(着想的なものにすぎない、まったくこなれていない、認識だが。)



20110103
 いつでも、そのそれぞれの時点からの時間において、「何かをじっと見ていると、非常に美しいものに見えてくる」ようにすると決めてそうしていると、物語のような有りようで非常に美しいものは、たいてい見えてくるようである。(この認識は、スタジオジブリの高畑勲さんの言葉からのアレンジ。) - 但し、最低限度そのような取組の時間を持てることを条件にして。



20101201
    「人間の旬」と名付けることができるような、共通的な状態は、可能な最も質の高い幸福を確保できている状態のこと、と言うことができる。

 優しさとは、それが可能な場合に、美しいもの(「感覚に快く訴え掛けてくる」[『類語新辞典』]もの)で、可能なすべてのものを置き換えていくこと、と言うことができる。

 経済的な豊かさへの各人自身の取組み(経営)は、各人の(また可能な限りすべての人の)人間の旬といえるような状態に向けての取組みを進める場合においても、共通的にとても重要な取組みであるが、同じく共通的に、100パーセントのものではなく、常に他の重要な取組みと並行的に追求されるべきものである、ということも、言える。



20100920
   「当サイト内言葉の索引」のテキスト中に、経営についての実践的な意味での定義を追加記入。



20100829-2
   記憶は、体験の中の(再構成して把握される)残像を、体験の中へ再構成して把握できる可能性であり、情報は、記憶の可能性を高める有益な手段となりうるものである、そして、その残像は、感情や、余韻や、別の残像や、再構成把握された残像を含みうる体験の中の実在の残像である、という認識の有効性のテストを。



20100829
   各人から見て、人間のいいところで取り入れ可能なものの取り入れが、全面的・全点的人間らしさの実現の一つ一つ。

 人間として出発点の基準であり、最後の基準でもありうる、「それが人間として正しいか、また、その時その場所で何が人間として正しいか」は、各自が、人間のいいところを可能な限り全面的・全点的に取り入れて実現されるその人間と照らし合わせてなされるべきものだろう。
 さらに言えば、「昨日よりは今日、今日よりは明日、明日よりは明後日」というありようでより実現されていくその人間と。

 人間としての成長の目標を、そのようにより具体的に設定すると、経営目標や、C/F改善目標などと同じように、「そのために貢献できる取り組みを極力増やし、貢献しない取り組みを極力減らす取り組みを進めていく」という方法が人間としての成長について、活用できるかもしれない。
 

 
20100501
   会社、つまり経営組織を経営する人の、その経営組織を大きくするということの、各自の人生の中での位置付けについて検討して。

 現在の把握として、何より、(各自自分自身のそれを含めて) 雇用の拡大という役割がある。それだけでもとても、肝心な役割である。

 さらに、自立経営組織の拡大の機会を、被雇用者各人に対して、自己の専門的技術を含む経営技術の研修等 (現在の認識では、フィロソフィ、ないし心や考え方のありようについての認識、の選択やその継続や向上化も、経営理念の策定や認識も、実践的には、技術として把握すべきものだと考えられる。) の機会と、そのための時間の猶予を与えることを通して、増やすという役割もある。これも、今日、きわめて肝心な役割である。

 「マイクロソフト社」についても、その他すべての会社についても、そう言えるか。少なくとも以上の役割を果たしている限り (そのための、最低賃金の給付をおそらく肝心な要件として)、そう言える。



20100430
   束の間のものだけではないような、恒常的な生、ないし体験の、幸福の観点からの質の把握という点で、生、ないし体験の、その環境の質のありようは肝心な要素であるが、その環境の中には、各自自身の身体的環境も、たとえば、手とか、目とか、相対的に各自自身の体験の中で対象化して把握することのできる身体的器官などとして、少なくとも相対的なものとして、含まれるものである。

 また、各自自身が再構成して把握することが可能な、体験の中の、ある対象、あるいはさまざまな対象に基づいて、常に幾分かは創造的なものとして、再構成して把握されうるそれらの残像もまた、 その環境のなかに含まれるものである、と把握すべきだ。 (なお、体験の中の対象に関して生じうる直接的な残像は、環境というよりは、体験の中に含まれるもの、と、実践的には把握されるべきものだろう。)

 視覚的に明らかな、花や芽吹きの時期の植物などを含む生物の生のありようという対象や、それらの生物のありようの対象から常に幾分かは創造的なものとして再構成把握されるさまざまな生物の生のありようの残像や、人間一人一人の視覚的な姿形や表情を含むその生のありようという対象や、それら人間一人一人のありようについての体験に基づいて、やはり常に幾分かは創造的なものとして再構成把握されうるそれらの残像もまた、もちろん、その環境の中に、やはり、肝心な要素として含まれる。

 それらの、環境、ないしその環境の質として把握されるべきものの中の、「再構成把握可能残像」、付記すると、再構成して把握することが可能な、余韻とか名残などの情緒的、ないし情動的なものを含む体験の諸対象についての残像、の中には、さまざまな人生の取組課題 (取り組むべき、ないし取り組みたい課題) も、また、さらには、その取組課題の達成ないし解決のために有効な、さまざまな法則性の認識も、含まれる。

 それらの、さまざまな人生の取組課題への取り組みの結果としての (一つの対象として把握される) 現実の体験、にかかわるものとしての、さまざまな人生の取組課題への取り組みの中でさらに再構成して把握可能になりうる、その取り組みの結果としての現実の体験の、再構成残像もまた、その、「再構成把握可能残像」の中に含まれる。

 そして、ひとつの取組課題への取り組みの結果として達成され、解決される現実の体験、ないし、ある取組課題への取り組みの結果として達成され、解決される現実の体験にかかわって再構成把握されうる残像、などに連なる、「連関的取組課題」とでもいうべき取組課題もまた、その、「再構成把握可能残像」の中に含まれる。

 以上のような認識が、当面、実践的に肝心なものとして、把握されているべきだろう。



20100203
   「『人間として正しいかどうか(あるいは人間として--その時、その場所で--何が正しいか)』という基準は、経営上の重要な、あるいは経営上の少なからぬ課題の判断基準としても、重要な要素」だとの趣旨の言葉を、稲盛和夫さんが折に触れて述べ、それを昔から現在まで言葉通りに実践してきて、とても多くの雇用を維持し、かつその経営組織の都合でその被雇用者の解雇をするようなことの基本的にはない、おそらくさらなる成長をしている経営組織を先頭に立って経営してきたことは、実績として証明されていると思われる。

(「正しい」とは、何より、「まさにそれ」あるいは「丁度」あるいは「きっかり」というような意味で、その一点を判断することだろう。)

 そして、体験の検証結果としてもこのことの重要性に気づいてきた、とともに、経営上の課題の判断基準としてもという以上に、生きること--より少しでも質の高いありようで幸福に、そしてその充実に向けてこの生を生きること--の中での多くの課題の判断基準としても、このことは重要な要素だと気づいてきた、と言える。

 できればさらに、人間としてとても美しい--立派な、尊敬できる--人間のより密度多く居る体験として把握される世界を獲得することができるのであれば、少しでもより質の高いありようでの幸福と、その充実に近づいた生を生きることになる、と思われる。

 これらの、「人間として正しいかどうか(何が人間として正しいか)」、そして「人間としてとても美しい」との言葉によって把握されるものは、これらの言葉に対応させての、自分自身の、体験の中の(人間の作品を含む)対象やその部分や、それらの残像(余韻、名残・・)から再構成して把握される、「再構成残像(余韻、名残・・)」だと言える。

 他の人々についても、この、「人間として正しいか」、そして「人間としてとても美しい」との言葉によって把握されるものは、各自にとっての同様なものではないか。



20100130
  創意工夫の具体的な進め方の一つ

 「どのようなことへの取組であれ、創意工夫は大事だと言われ、確かにそのように思われますが、では、具体的に、どのようにそれを進めたらよいのか。

 一つの考え方ですが、具体的な有効な成果を出そうとするのであれば、自分が体験したこと、あるいは学んできたこと (但し、それらは、後者を含めて基本的に、現在と過去の体験の中の、対象ないし部分として在ったもの、あるいはそれら「在ったもの」の残像に基づいて把握できるものだと思える。) から、有効と思えるもの (基本的にはそれは、取組課題の解決に有効でありうる関連するさまざまな--科学的な--法則性の認識だと思うのですが。 さらには、科学は、私は、実践的目的に有効でありうるさまざまな事象の法則性の認識と、その検証を伴いつつ進められるその法則性の活用だといってもよいと思うのですが。) を、

 イメージとか残像などの言葉で言い表しているもの (その、イメージや残像は、afterimageというような意味でのものであり、かつ、余韻-after-sound-imageとか、名残-after-mental-remainsなどを含む意味でのもの) に再構成して把握し、

 その有効性を、その再構成して把握されたイメージないし残像で確認することを、いくつか、あるいはいくつも可能なのであればそれらをいくつも、やはり再構成するイメージないし残像の中で検討することを試みていくという進め方(方法)が考えられます。

 試行錯誤を、再構成イメージないし再構成残像の把握の中で行っていくといってもよいかもしれません。有効と思えるイメージないし残像を再構成して把握することがまったくできないような時間が継続する場合でも、その場合でも、最後までその取組の中で実際の選択や行動はすべきなのだと思います。」

 追加すると、「連想」でも、単に「想像」でもなく、こなれていない言葉だが、今の時点では「再構成残像の再構成把握」と表現すべき取組が有効だと思える。

 どの時点での、また、どのような再構成残像の再構成把握であれ、体験の中の対象ないし部分として在ったもの、ないしそれらの残像と、まったく同じ再構成残像が(再構成)把握されることはありえず、あくまで再構成されて把握されるものなのであって、つまりは、創造性の要素が (よかれ悪しかれ) その中に必ず含まれることになると思われる。



20091121
   生きているこの世界の、いずれかに、とても--うっとりするくらいに、どうにもならないような苦痛やつらさも相対的にでも消失させるくらいに--美しい対象や環境が現実に存在している--そしてときどきはそれを「つかの間の幸福の輝き」のように現実に体験したりもする、そして、残像や再構成残像の体験ないし把握はそれ自体現実の体験の一つではあるにしても、残像や再構成残像とは少なくとも相対的に異なる現実として体験したりもする--という認識と、そのような対象ないし環境についての、残像や再構成残像 (創造的想像) の把握、ないし把握の体験との関係については、認識も再構成残像の一つといえるのかもしれないが、認識は、体験の中で、おそらく目的ないし実践の観点から--それも密度的な恒常性の把握という目的や実践の観点から--有効な法則性を持つものとして、把握されている再構成残像なのだ、といえるだろう。

 そして、その認識は、なにより、選択、ないし方向性設定ないし実践のうえで--それ (認識) に支えられて、ということを重要な要素として含めて--有効になるものだ、ともいえるように思われる。



20091120
   本屋さんに来る人たちは、相対的に、その時かぎりの--基本的には各自にとってたぶん質が高くはない--ものより、より恒常的(constantly)な、基本的により質の高い喜びないし幸福を求めている人たちといえるではないか。図書館に来る人たちの場合、これも相対的に、かならずしもそうではないような気もする。


 
20091109
 再構成残像 (視覚的なそれだけでなく、聴覚的な余韻とか、さまざまな感覚的な体験の質の複合体的なものでもあると考えられる感情ないし情動的な質の、その名残のようなものも、この言葉の意味に含めてのそれ) の把握は、現実の体験の質のためになされるべきであり、現実の体験の質は、現実の中に含まれていると考えられる、現実が望み、欲する、たぶん最良の、一番好きなものである、さらにはおそらく自身にとっての人間の最良の古典的作品の質に近接しているような再構成残像の方向に向けて、その把握をしていくべき、と考えられる。現実と再構成残像との関係は、そのように把握すべきものだ、と。



20090820
   残像・残映・余韻・名残やそれらの再構成などとしてはいくつでも把握できる、とも把握できる忘れてしまいたいことに直面した場合に、それを忘れることについては、基本的にはそれを相対的にでも消失させる−幸福とまではいえなくてもよい−快さ・快適さの把握、というような取組によって取り組まざるを得ないし、また取り組むべきものだろうが、その取組は、忘れていることができるところまで−その質のところまで−でよい?

 実際的にはすべてそのようにしてそのような場合を切り抜けて--ないし克服して--きている?

 忘れてはいけないこと、は、むしろ、それ−忘れたいこと−を相対的にでも消失させることのできる快ないし喜びないし幸福の把握という取組の方である?

 これらはなお−ことこまかく検討しての−試験・試行を要している課題。



20090818
   「喜びは(幸福は)過去の試練をもはや勘定に入れないものだ。」  (ロマン・ロラン著、渡辺淳訳、角川文庫 『ピエールとリュース』の中の言葉の、少しのアレンジ)。

 しかし、「いかなる快楽(喜び、幸福)も、それ自体は悪いものではないが、ある種の快楽(喜び、幸福)をつくり出すものは、それらの快楽(喜び、幸福)そのものよりも何倍(何千倍)も多くの煩い(つらさ)をもらたすのだ。」
 (ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、岩波文庫 『ギリシャ哲学者列伝・下(第10章、エピクロス)』の中の言葉の、少しのアレンジ)。


 
20090812
 『月が欲しくなっても(幸福が欲しくなっても)顔を赤らめてはいけない(恥ずかしがってはいけない)。我々には月が(幸福が)必要なのだ。』(ジャン・ポール・サルトルがポール・ニザンの『陰謀』(鈴木道彦訳、晶文社)[『アデン・アラビア』(海老坂武訳、晶文社?] 再刊時の序文で引用したニザンの言葉のアレンジ。日本語訳、晶文社、ボール・ニザン著作集の、この書籍出版時の帯にのみ記載されていたコピーだとすると翻訳者は未把握。)



20090809
   『人間は互いに--何がその人にとってより幸福なのかを--認識しあい、幸福を与え合うために生れてきた。・・・』(ポール・エリュアールの詩−嶋岡晨訳−のアレンジ。相対的に各自がより幸福に生きるためだとしても。)



20090719
   「“喜びは、自分を忘れることにあるのだ”と。」 [これについては当初、自分自身に関しては違う、と考えていたが、幸福--ある質の快さ--それは、『自らの苦痛の相対的な消失を含むそれ』であるが、『それ』---に在る・・090718---という点で、そのような意味で、以下引用部分へのコメントを含めたすべてに適用されるものとして、正しいと把握すべき。]

 「だから私は、人の目に入る光をわが太陽とし、」[幸福な時間の中に居る人の幸福なそれ(人の目に入る光)を、自分自身の体験の中の光の残像とし、]

 「人の耳に聞こえる音楽を私の華麗なシンフォニーにしよう。」[幸福な時間の中に居る人の幸福なそれ(人の耳に聞こえる音楽)を、自分自身の体験の中の音楽の残像とし、]

 「人の唇から漏れる微笑みを、自分の幸せと感じられる人間に」 [幸福な時間の中に居る人の幸福なそれ(人の唇から漏れる微笑み)を、自分自身の体験の中の幸福の残像とする人間に、]

 「私はなりたい。」[なることの選択と実現への取組を]

 「知識は愛であり光であり、未来を見通す力なのだ」 [幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関するその存在と変様(variation)---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識は、愛であり光であり、未来を見通す力なのだ]

 「すべてのものには名前があった。」[すべてのものは、名前を付けることでより正確にその存在と変様--の質の選択と実現090718---ついての有効な知識及び認識を把握しやすくなるし、その結果としてよりよく把握できる]

 「そして名前をひとつ知るたびに、新たな考えが浮かんでくる。」[幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関する存在と変様(さまざまなありよう)---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものになっていく]

 「家へ戻る途中、手で触れたものすべてが、いのちをもって震えているように思えた。」[たとえばこのように、幸福な時間の中にある人の幸福の体験に関する存在と変様(さまざまなありよう)---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものになっていく]

 「雲にさわることはできないでしょう?
それでも雨が降ってくるのはわかるし、
暑い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう?
それは愛と同じなのよ。
愛も手で触れることはできません。
だけど、愛が注がれる時のやさしさを感じることはできます。
愛があるから、喜びが湧いてくるし、
遊びたい気持ちも起きるのよ…」
byヘレンの家庭教師アン・サリバン
(ヘレンに「愛」を教えるときに語った言葉)

 「頂上へは楽な道などない。」[幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関する存在と変様---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものになっていく。としても、楽な道などない]

 「それなら私は自分なりにジグザグに登ればいい。」[楽な道などない、としても、まちがえているのでなければその道を。]

 「“知識は力なり”という。しかし私は、知識とは幸福だと思う。」幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関する存在と変様---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものに---というより、自らの場合では『自らの生が自身にとってのより最良の人間の古典的作品の選択と実現に近いもの』に090718---なっていく、という観点から、知識とは幸福だ。]

 「一人ひとりが、緑の地球とささやく水の記憶を潜在意識の中に持っている。」

 「だから、たとえ目と耳を失っても、
この過去からの贈り物を奪うことはできない。」

 「目の見えない人間が、手で触れただけで、
冷たい大理石の中に動き、感情、美を読み取れると聞いて、
不思議に思う人も多いだろう。
それでも、偉大な美術品に触れることで、
私が心からの喜びを得られることは事実なのである。」

 「すべては驚きに満ちている。暗闇と沈黙の世界も例外ではない。だから、私はどんな境遇にあっても、満足することを[---以上の前提ないし内容で---]学んだのだ。」[幸福な時間の中に居る人の幸福の体験に関する存在と変様---の質の選択と実現090718---についての有効な知識及び認識とその指標となっているその名前をひとつ知るたびに、より正確に有効にそれが、また結果として体験の中の幸福の質が、高いものに--というより、自らにとってのより最良の人間の古典的作品の選択と実現に近いものに090718---なっていく、という観点から、「すべては驚きに満ちている。暗闇と沈黙の世界も例外ではない。だから、私はどんな境遇にあっても、満足することを[---以上の前提ないし内容で---]学んだのだ。」との言葉がわかるような気がする。]

『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(同タイトルのホームページ)より引用したものに、コメントを付けたもの。
当初20090520。



20090420
 これまでに(残像にかかわるものだろうが)自分が学んだことを実践しつつ、自分にとって(また各自にとって)新しく学ぶことができる有効な(基本的には技術化可能な法則性の認識に関わるものだろうと思われる、自分にとっての、また各自にとっての新しい発見を含むものである)何かを学んでいくこととを、並行的に進めていくこと。



  20090329
 「多くの人にとって、さらにできればすべての人にとってわかりやすい」より高い質の幸福を獲得し体験していく、という限定をしての取り組みをしていくことは、その質の高上への確率やチャンスを、増やすことになると思われる。

 さらに、その質の向上は、主体とその環境との相互影響関係のもとでの、主体からの取り組みの成果でもあるものとしても獲得されていくもので、基本的に直線的なものではなく、時空の中で、らせん的な、ベクトル量的な結果としての高さ・位置・水準を占めていくことによって獲得されていくものだろう。

 それらの取り組みの中で出発点として重要な要素となると考えられる、素直さは、なにより主体自身の感受性への忠実さであり、同じくその結果的なものとして重要な要素となると考えられる洗練という取り組みは、何よりその素直さを、体験の質の向上へ向けて洗練していくという取り組みだ、とも思われる。

 取り組みの一つとしての仕事には、つらい現実の部分を癒し和らげたりする取り組みと、楽しい現実の残像や余韻や名残を創造的に再構成して現実化する取り組みとが、一応考えられ、質的相違は、もちろんありうるが、前者が後者でもあり、後者が前者でもあることは、ありうる。
 それらの取り組みとしての仕事の中で、稲盛和夫氏が折に触れ、『実学』、『高収益企業の作り方』などの書籍などに発表してきているような意味での、「人間として正しいかどうか」を基準とし、「社員一人一人が経営者」という考え方を土台にして経営上の数値をすべてガラス張りにした上での、「売上を最大にし、経費を最小にしていくことを通して企業の高収益を確保していくことを指標にして、その収益がすべて社員全員に帰属するものと考えての社員一人一人の時間当たり採算性を高めていく」という基本的な技術を中軸にしていると、現在時点で考えられる「経営」への取り組みは、多くの人にとってもわかりやすい、より高い質の幸福を獲得していくための有益な取り組みだと思われる。   自分にとっての人間の古典的・亀鑑的作品から学び、体験的・批判的・創造的に再構成していくということをとおして、多くの人にとって、さらにできればすべての人にとってわかりやすいより質の幸福を獲得し体験していくという取り組みと合わせて。

 また、経営の中で、その主体としての社員(構成員全て)がその属する企業をとおして、その環境である社会に対して供給・提供していく仕事とその成果は、経営の不可欠な一構成要素ではあるけれども、経営そのものとは一応区別される取り組みとその成果であるものであり(つまり、経営そのものは、その社員の属する企業の存続を直接の目的とする取り組みとその結果であるものだと思われ)、その仕事の成果は、それと「等価」だと判断されて支払を受けられる代金(といういわば物質的質面)によってだけでなく、その仕事の成果そのものがその環境である社会に対して供給・提供していくその影響効果そのものによっても(その精神的質面で)、その主体としての社員自身の幸福の質の向上が得られうる取り組みとその成果であるものである。

 公的な仕事の場合、その社会に対して供給・提供していく仕事の成果の代価は、その社員が属する企業である公的団体や、その団体をとおしてそこに属する社員に対して、個別対応をもって支払われるものではなく、その社員の属する企業である公的団体に属する社員全体からその社会に対して供給・提供される仕事の成果の「総体」に対して、その「総体の等価」であると評価される代金が、議会決定基準(法律他)に基づいて支払われているといってよいと思われる。但しこの公的仕事の場合、前段に記載した動的・相互関係的構造については、特別問題なく同じであると思われるが、前々段に記載した、時間当たり採算性については、考えうるのかどうか。

 検討してみると、その社員全体が、総体として社会に供給・提供した仕事の成果であるものの等価として、次期の予算に関する議会で評価されて決定される金額として(場合によっては年度内修正予算もありうるのかれしれないが)計算されるという条件でだが、同じだと言えるのではないか?
(このように考えられて、次期時間当たり支払受け代金が上昇する場合、今期社員にとっては、総体として受ける代金に対して、その社会に対して供給・提供する仕事の成果の方が高い価値のものということになるが、その供給・提供する仕事の成果そのものの効果による精神的質面での質的な向上については、公的仕事の特性として、その分高いものになっているということも言えるのではないか[逆もいえるだろうが。]?)

 但し、以上の企業が、会社である場合には、法律(会社法)上、株主が経営に携わる社員を選任する権限を持つことになるので、「その収益がすべて社員全員に帰属するものと考えての社員一人一人の時間当たり採算性」は、社員がその会社の全株式を所有することによってのみ実現されるものであり、そうでない限り、株主の意向を考慮した相対的なものとなるものである。さらに、以上の企業が会社であれ、公的団体であれ、個人企業であれ、そこに属する社員は、基本的に雇用−被雇用の法律関係上の地位をそれぞれ持っており、その制約を持ってのものである。

 (以上のメモも、下記20090222付メモと同じ勉強会に参加して学んだことと、さらに再構成したものとして。・・言葉もわかりやすく、は、難しい・・。)


20090316
   数量も質の一種なのだと、言えないか?

 体験の中の物質的なもの[物質的な質]に主に関わって認識される「数量」自体が、各自の全体験の諸法則性の認識の観点から数量的な法則性を持つと認識される、体験の中の事象に関する法則性という(ないしその認識という)、体験の中の事象の、質の一つなのだ、と言えないか? (あるいは、当然そのようなものとして一般的にも把握されているのだろうか。)

 そうだとするとさらに、
(意識や、その中の、過去の体験の残像や余韻や、その呼び起こしの要素を持つ想像や、他の生命体、特に動物やなかんずく人間の持つそれらに他ならないと思われるものとの共振・共鳴・共感などの、
精神的・心的なもの[精神的・心的な質]の事象に主に関わっている、生きているその時と時間の)
幸福のその質の度合い(ないしその質の高さ)を思い、考え、検討するという場合、
単に比喩的な意味としてだけではなく(相対的なものであっても)、
その度合いは、
そのような意味での、数量(という質)として、把握していくことは、
できるのではないか。
--物質的な質の数量の法則性に基づいて計算することはできないことはもちろん、物質的な質の数量の法則性の類推もできないものだ、と思われるにしても。

 もっと簡単に言って、実践的・体験的に、「よりよい(より高い質の)」人生、あるいは「よりよい(より高い質の)」世界は、体験しうる(逆もありうる)、さらには部分的なテストをして、計測することさえできる、と?

 具体的・実践的には、温かさや優しさを含む意味での質の高い(困難なことだが他者への自慢を含まない)美しさ、 立派さ、見事さなどがそこに在る街や森を、持ち場で作っていく取り組みを通して?



20090222-1
   「(就職勤務・起業・)経営技術」の、いつも中心的な要素として把握されて実践されるべきものは、一見技術とは矛盾しているように見えるが、共に幸福に生きるという要素を含む倫理。(少なくとも現在、倫理も技術の一つと把握できる。)

 少なくともこれによって、その経営組織が社会に供給していく(代価をその要素として含む)サービスに対する社会的信頼が高まりうるとともに、自己の経営判断においての自信をより確かなものにすることができる。さらに、従業員の信頼も、よりよく獲得して行くことができる。いずれも、大きな要素だと思える。

 (以上、ある勉強会[講演会と意見交換会]に参加して学んだことの適用の1として。)



20090222-2
   終局的に経営技術がその終着点として目指されるべきものである「就職勤務・起業・経営技術」での、経営とは、雇用の創出と維持と向上である、と言ってもよい。但し、長期的には、習得・修習期間としてのみ位置づけられるべき、被雇用労働としての雇用の、創出と維持である、と。

 個人事業主の場合(には雇用主である経営者と被雇用者とを兼ねているの)はもちろん、組合や法人事業者としての経営者の場合でも、そのように言える。この意味で、被雇用者も、自己の就職勤務技術の習得適用の成果としてさらに、被雇用者ではない経営者になることを目指すべきである、とも言える。

 (経営は、より一般的には、基本的に各人の人生のそれぞれその時間における現状での物質的質のありようの、再構成を含む構成のための活動であり、政治は、今日、基本的に被雇用労働法制を基軸とする法律システムの、再構成を含む構成のための、各人の、意思表示と選択の活動である、とのそれぞれの認識の、妥当性と射程のチェックも進めること。)

 (以上、ある勉強会[講演会と意見交換会]に参加して学んだことの適用の2として。)


20090222-3
   経営者が、社員を育てることは、(司法書士、行政書士の仕事の観点から特に)その経営組織の後継者を育てることと同時的に、ないし並列的なものとして、取り組まれるべきものだろう。

 (以上、ある勉強会[講演会と意見交換会]に参加して学んだことと、自分自身での適用の3として。)



20090118
   幸福に生きる(それもできる限り高い質のものを確保して生きる)という場合の、その幸福の質という観点から、体験の中の「精神的・心的な質」の高さ(質が高いと−また、低い、と−体験されること)は、体験の中の「物質的な質」の高さ(質が高いと体験されること)と、一応区分して把握することができて、しかもそれと不可分と言える(境界的なものもあるにしても)。さらに、体験の中の精神的・心的な質は、「他者(基本的に他の生命−特に動物たち、それもなかでも人間たち−)の体験の中の精神的・心的な質」として−自身において−体験される質と、共感・共鳴・さらには情動等々としてだけに限られず、基本的・恒常的に不可分的なもののようである。(構成要素となっているのかもしれない−アンリ・ワロンの著作に記載されていたように。)

 また、体験の中の物質的な質の高さを確保していくこと、また高めていくことは、体験の中の精神的・心的な質の高さを確保していくために、時間と場所によっては不可欠でもありえ(基本的・恒常的には、意識を持っての生存のための、体験の中の物質的な質の高さ−その一定水準−は不可欠だともいえるが)、さらに、体験の中の精神的・心的な質の高さを確保していくために、有効でもあり得る。

 具体的な取り組みとして、体験の中の物質的な質の高さを積み上げていくこと・高めていくことそれ自体は、過去の体験から大まかに見ても、一般的・共通的に可能であると思われる。さらに、これに伴う・その成果としてのありようでの、体験の中の精神的・心的な質の高さを積み上げていくこと・高めていくことも、同じく、可能であると思われる。(逆に、体験の中の物質的な質の高さを高めていく取り組みを伴わない体験の中の精神的・心的な質の高さを高めるための取り組みは、その成果において、零といえるような質のものになってしまうことが、体験的に見て、少なくなかったようにも、思われる。)

 数学は(算数であっても)、それが適用できる、体験の中の物質的な質の高さを高めること・積み上げていくことについての、そのために有効な法則性の、より正確な近似値を得る有効な手段になるものだ、ということができると思われる。その質の高さという差異そのものを含む、その質の高さを高めること・積み上げていくことについての有効な法則性の、さらにより正確な近似値を得る計算を、機械化してそれを操作できることによって得られうる、という観点からも。
 少なくとも、経営組織の中での被雇用者としての職の仕事を含む、また起業を含む「経営」において、その「会計」で使用する算数について、そのように把握することができる。



20090104
   少なくとも人の一生のうちで、同じ時間と状況は二度とない、ということは、一見、とてもよりよく変動させることなど不可能に見える部分であっても、少なくとも、よりよく変動させうるために有効な法則性を見出すことはできないと判断することは、できないということ。

 論理的法則性、数学的法則性、語学的法則性、物理学的法則性、医学的法則性、精神・心理学的法則性、経済学的法則性、その他、個々人の生活の中に見出しうる、その個々人の、幸福に(という言葉で共通的に把握できるように見える、そのありようで)生きていくことにとって有効な法則性についての認識、などが考えられる。たとえば、経済は、個々人の経営の総体だという法則性の認識の、有効性の当否についても、検討(ないし検証)不可能ということは、いえないだろう。(補足:「経済は、個々人の経営の総体だ」という認識は、「経営」に、個々人の生活消費の部分を含めない意味においては、正確ではないけれども。さらにこの点については、より明確に把握していく必要があるが。)

 さらに、それらの探索を含む、作品鑑賞そのものとはいえない一切の活動や取り組みが、実務的な実践であるときでさえも、同時的に鑑賞でもありうる、と思われる。意識を持って生きている限り、 (精神的なものも含めてさまざまなパリエーションで体験する)痛みなどが主な取り組み対象でしかありえないような、それしかできないような時間においてさえも・・。



20081230
   人生の根本的状況は、「二度と同じ場所には戻れない四つ辻に常に居る」という状況なのだが、幸福に生きている時間は、その認識は忘れていてもよいのものであり、そうでない時間においてのみ、その質の高さの度合いに応じて、相対的に有効な法則性を−生活全体を見渡していって−見出して、それに賭けて、生きて、生活していくべき、なのだろう。



20081220
   生活のできる限りすべてを、自身にとっての好みの、人間の古典的作品の部分に連ね、その部分を活かし、可能な選択をし、形成していく、ように。実践的にはその部分への取り組みからだとしても、生活全体の意識ないしイメージは、基本的・恒常的に必要で、それの欠けた実践は、間違いかもしれない。



20081130
 感情や感覚のすべてを含む刻々の体験の意識の、恒常的なありようの総体が、幸福の質の基本的な高度を表している、とは言えるだろう。

 その、恒常的なありように対して働きかける具体的な方法として、その質を高め得るような対象を、飽きるくらい、ないし疲れ切るくらい見聞きし、また思う、という取組が考えられ、これは、体験の意識で反証されないようである。

 その取組の中での体験の中の、時間という質及び取組の強度という質に関して、どうしても他に取り組まなければならない対象(基本的には身体的・経済的なものに係わると思われるそれら)がその体験の意識の中に出てきた時に、その課題に直ちに取り組むことは、選択可能な範囲でそれぞれへの強度を選択しつつ、一緒に、ないし同時的に、可能でもあり、これも、体験の意識で反証されないようである。

 

  20081124
 「探索」というよりむしろ「おさらい」だが、エピクロス(ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳、岩波文庫、『ギリシャ哲学者列伝・下・第10巻・「エピクロス」』など)などが生きた西暦紀元直前頃のギリシャの時代に哲学の主要テーマであったといわれる、「幸福に生きる」--alive in pleasantness (of high quality)--というような--意味でのそれの--ための「技術」というようなものも、個人的な観点からその有益な法則性を探索して、獲得していく、ということも、少なくとも不可能とは言えないと思う。

 --が、何を幸福と思うかなどの個人的質差(性質に基づく差異)が、個人的な観点から見聞きする限りにおいてでさえあまりに大きすぎて、人間のさまざまな古典的・亀鑑的作品に対して、それに加えられるような、共通的により有益であるような法則性の認識に基づく「技術」の獲得などというものは、それら個人的質差の刻々の情報のすべてを把握することが不可能に近い以上、不可能に近いものかもしれない。

 それに関してごく個人的により有益であるような法則性の認識に基づく技術の獲得と、それを生かした取り組みということさえ、個人的に極めて困難な、確実性のごく低い取り組みにすぎないものだが、それ自体経験ないし体験の全体から見ても必要なものであると思われるし、また、共通的なものとして何かの獲得が可能になる--かもしれない--とすれば、それもたぶん、このことを通してではないか、とも思われる。



20081115
   サイトマップ-V.-トピックス(当事務所選-日本での基本的に法制度に関するもの)-に、「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」、「公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律」の要点を加入し、その他、同法律施行による必要な事項を加入。また、会社法施行に伴う改正事項の加入を一応完了。



20081113
   出発点は、幸福、それもよりよい質の幸福、それを思い浮かべるところからだが、結局それは、よりよい質の世界と社会を思い浮かべるところから、ということになるようである。そして、その可能になるかもしれない実現に向けて試みていくこと、そして確かめていくこと、検証していくこと、が続くようになるように。職の仕事やその他一切を通して。今は少なくとも。こんなことがとても困難なのだけれど。
(一見、金儲けが全て、であるようなこの世界と社会で?あるいは、戦争がすべて、であるような人々が生活してるこの世界と社会で?)



20080504-2
   軍備で戦争を予防することはできておらず、また、同様に今後もできないと考えられる。

 戦争予防のためには軍備以外のよりよい社会的世界的な経営及び平和安全保障制度を形成していくことが要求されている。

 なお、経済とは個々人の経営の集積されたもの(語源的な意味での経営のコングロマリット)であると考えられる。

 既存の軍備は、国連のそれを含めて、現に生まれている戦争ないし武力紛争を、その戦争下で生活している人々の抵抗権の行使としてのみ、与えられ、使用されるべきものだろう。

 よりよい経営の社会的世界的保障制度は、たとえば、既存の、個別的国際的援助運動や、国連諸組織や、経営力の高い者が低い者を食いつぶしていくことないしその自由への規制の各国の制度、たとえば金利、賃金、労働時間、中間搾取の規制などの各国の制度、EU各国の年金制度や経営労働機会保障制度や医療保障制度、キューバのそれらの制度、グラミン銀行の制度、などを参考に、形成していくことになる。

 日本の場合、今後特に、高齢者や障害者の実質的に可能な経営労働機会保障制度のよりよいものの形成が要請されていると考えられる。

 各人の経営技術(勤務や起業を含むそれ)は、以上のような社会的世界的経営及び経営機会の保障制度を、また、それらとの相互的なものとしてそれぞれ前提してのものとなるべきものである。



  20080504-1
 現在の体験の意味を考えることは、一番幸福だった時ないし体験のイメージないし記憶などないしそれらの名残と照合することと把握できる。現在の実践ないし体験の実践の意味を考え、位置づけることもそうだ。そして、それに近いないしそれ以上の質の時ないし体験のために、実践的にも、何より人間として尊敬しうるという要素がそこに在ることが要ると考えられる。



20080312
 特に実践的に、想像的(想像し、またされ、またしようとする)イメージ環境過程は、現実的・物質的環境過程の、なんからのありようでの身体的(という現実的・物質的)な再構成環境過程なのではないか、とも思われる。その環境過程間の相互区分は相対的なものでありうるとしても。また契機は、残像とか余韻などの、反映と把握できるようなものである、またあったとしても。

 時と場所が全く同じことはありえないから、その再構成環境過程は、創造の要素が不可欠的に伴うもの、でもあるとも思われる。



20080226
 話され、示され、書かれる言葉も、同じく数も、同じく数式も、そのような機械化の一部といえるかもしれない。各自の身体からの相対的独立性の質は異なるにせよ。但し、これについては、「パソコン情報化」を含めて、「書かれた」質のもの(「作品化された」質のものといってもよいかもしれない)でないと、機械化とは、言うべきではないかもしれない。また、その言葉や数や数式のイメージを持ち、操作すること、それ自体は、同様に、「機械化」と言うべきではないかもしれない。いずれも、実践的に判断すべき問題かと思われる。


 
20080224
 ある事象に関する法則性の認識の高さないし深さは、その時点までの、その事象についての法則性の認識の高さないし深さを前提とする技術的手段を前提として、とくに機械化(同時に共有化)が可能な技術的手段を前提として、初めて、高めないし深めることが可能になるものだ、といってよいかもしれない。

   しかし、人間自身の(主体の)情感とか意欲とかに係わる部分の法則性の認識については、技術化することも、技術を端的に機械化することも(数式に表して計算することはもちろん,端的な言語化をすることさえも)困難だから、文学とか、絵画とか、映画とか、音楽とか、環境の観察表現記録とか、諸感覚さらには諸情感や意欲への可能な触発への働きかけの実践記録とか、さらには職の仕事や日常的生活のすべてを通して、その法則性の認識の技術化を行い、さらには、同様なものの延長としての可能な機械化を進めていくしかない、のだろうか。

 関連して、快さの高い質の中枢的な要素である(質である)美しさの質は、その対象の法則性とともに、主体自身の情感とか意欲とかの質のありようの法則性に、不可分的に関わっている法則性を有している、と言えるのであって、その有益な、法則性の高いないし深い認識の把握をしていくことは、より困難である、ともいえるのてはないか。(意識のコングロマリットの法則性は、その対象のコングロマリットの法則性と不可分的なものだ、とも。)

   とすれば、あるいは、としても、困難でも、その有益な法則性の把握と、可能な技術化と機械化と、それを活用しての実践とを試みていく、ことにすべきなのだろう。(経験的に、「束の間の幸福の輝き」というようなものは、ごくまれにであっても、体験されることもある以上。)

経済は、そしてその経営は、これももろろん上記の実践の中で、それ自体、想像力の働かせの結果としてのものを別にして情感はともかく、恒常的に端的に少なからぬ意欲は持てるものとして、体験的に判断できる位置づけで、取り組んでいくべきものだろう。 



20071213
 「つらさ(つらいそのありよう)」とは、実践的に、何より、期待しない肉体的苦痛が生じること、その他期待に添えないこと、のその度合いが、激しいものであるときの、その意識。
 「悲しみ」とは、実践的に、その中に含まれる喜びないし快さを、それを意識すればその喜びないし快さの貴重さを気づかせてくれるもののこと。  「寂しさ」とは、実践的に、喜びないし快さへの、諸感覚の触発による発動を、より強く意識に与えるもののこと。



20071125
 心ないし意識の人間的な豊かさ(複合体としての質の高さと、その高い質の密度の濃さ)は、意識的なその獲得への実践の成果でもあるけれど、そして、相互的なものでもあるけれど、その心の環境(身体的なそれを含む)の人間的な豊かさに、何よりその諸感覚が触発され、発動されて存続する、と言えるのではないか。



20071124
 今日の、山梨日日新聞に、フェルメール「牛乳を注ぐ女」に関しての、小林頼子さんという方(目白大教授)の解説記事があり、「写実とは、現実に基づいて、現実よりも現実的なものを作ること」というような趣旨の記述があった。

 しかし、その「現実的なもの」とは、何か。実践的に、と考えてみると、「幸福にとってよりよい諸感覚の発動の、触発(ないしそれが得られるもの)」として把握できるか。(記憶というものの、--意識に依存している、というよりはむしろ、身体におそらく大きく依存している--その働きに大きく依存している、「想像覚」というような感覚を含めての、諸感覚の・・。11月17日のノートを上書きして消してしまった! 書式を使って記述を! backupから下記回復。)



20071117
 人生の成果として獲得していくべきさまざまな、ないし可能な幸福の、源泉となる対象の本質的属性としての深い愛--目に見える、また耳に聴こえる、などだけではないような深い美しさを対象として獲得したときのような体験--の獲得について。

 その「獲得」とは何か。実践的には、それを獲得しようとする意識の、姿勢、ないし努力、ないしたたかい、そのものと、その成果との、その両方を統一的に、ないし複合体(コングロマリット)的に含むものだろう。特に前者が欠けてはならないものだろう。(「フォイエルバッハについてのテーゼ」(カール・マルクス)も参照。)



20071028
 「人生の根本的状況は、二度と同じ四つ辻には戻り得ない四つ辻に、常に立っているという状況だ。」(ポール・ニザン、鈴木道彦訳、『陰謀』(晶文社他)から。)苦痛と絶望のどん底に居る時にも。幸福の絶頂に居るときにも。

 この法則性の再確認、再認識を、常に見失わないように。かつ、体験と経験の記憶の、すべてを踏まえて、その選択ないしその取組を進めていくように。

 さらに、ささやかな美しさも、あたりまえのようなやさしさも、あたりまえのような命も、あたりまえのような意識も、あたりまえのようなちょっとした、ほんの少しの幸福も、すべて「この世界(宇宙)の奇蹟」のようなものでも、あることも。



20070922
 認識と記憶について、--特に体験の中の、幸福感の(その逆の方のものではないものの)認識と記憶--について。

 記憶の方は、時の経過と共に必ず薄れるものだと言えるだろう。体験の中の、幸福感の逆の方のものの記憶は、薄れてもかまわないものだろうが。

 体験の中の、幸福感とは逆の方のものが、現体験として不断に強く感じられてしまうとすれば、それ自体を、なんらかの手段や努力や活動で消滅させる努力や活動は不可避だが、その努力ないし活動は、現体験の中の、あるいは記憶の中の体験の中の幸福感の、なんらかの増強(質の増強)への努力ないし活動と合わせたものでなければならないはずのものであり、記憶が時の経過と共に薄れていくものだとすれば、それに抗する努力や活動も含むものでもなければならないはずのものだ。

 認識は、このような認識を含め、なぜか、薄れる度合いが低い、といえる。 おそらく、深められた認識についても。認識は、意味(たとえば幸福感という言葉の意味)の記憶に支えられていても、あるいはむしろ、意味そのものとして、現体験といえるのかもしれない。



20070623
 個人の経済的富裕度と、属する階層としての経済的富裕度について、「その(-いわゆる経済的な)」(「富裕度の高さ」の選択と体験と制作の上で有益な、共通的な)基本的法則性を把握し、表現すると、

 一定又は特定の階層に属させる結果とさせる基本的なその有益な法則性として、

 職業としてその人の継続的に供給するものの対価としての、その特定又は一定期間に得ていく金銭又はその代替物の金額について、目標とする特定又は一定期間、継続的にその金額を得ていくことを可能にさせることになる基本的な要素は、

 「その供給を受けた人がその金額が妥当であるとして、その直接の対象の個々人と、評判として認識されている個々人が、その供給者個(々)人が職業としてその総体として供給する本来的商品(物に定着されたものだけではない、その供給を受けることによって本来的に付帯してその供給者から受けることが可能になる役務を伴うものであって、「その供給者の存在とその本来的附帯役務を受けられるということを伴う意味でのその『本来的供給商品』」)への信頼度の深さ(という質)が、一定の水準になっており、その一定の水準になっている直接の対象の個々人と、評判として認識されている個々人の総体が、一定数量に達している、という要素」である。

 なお、職業としてその供給者個(々)人がその総体として供給する本来的商品は、何らかの経営組織を介して、他の個々人に供給されていることは、すでに、明らかにしている。

 人生の選択上での、当面の、また長期的な目標として、階層としての富裕層に(すなわち、年間平均所得収入と蓄積資本としての財産が富裕な水準となっている階層に)に属するものとしていくか、富裕層には属さないものとしていくか、の選択とは、別個のものとして、その基本的な法則性は存在する。

 それゆえ、富裕層に属することあるいは属さないことのいずれを目標とする場合にも、

 「その供給を受けた人がその金額が妥当であるとして供給を受けるところの、その直接の対象の個々人と、評判として認識されている個々人とが、職業としてその供給者個(々)人がその総体として供給する本来的商品(物に定着されたものだけではない、その供給を受けることによって本来的に付帯してその供給者から受けることが可能になる役務を伴うものであって、「その供給者の存在とその本来的附帯役務を受けられるということを伴う意味でのその『本来的供給商品』」)への信頼度の深さ(という質)が、一定の水準になっており、その一定の水準になっている直接の対象の個々人と、評判として認識されている個々人の総体が、一定数量に達している、という要素」を獲得していくべく、その職業としての学習及び実践をすすめていくべきである。

 その学習と実践の中で、専門的技術力の一定の高さと、会計技術力の一定の高さとの獲得も必要であることも、すでに明らかにしている。上記の段での「信頼度の深さ」を獲得するための技術(認識とその活用)と、この段の二つの力の獲得のための技術とを合わせて、「就職勤務起業経営技術」と呼ぶこともできないことはない。

 会計技術に基づく目標値は、実際の(資金収支管理の思惑などから調整記入した会計値などではできるだけないところの)会計値に裏付けられなくてはいけない。(この趣旨のことは、稲盛和夫氏が繰り返し語っている。)



20070422-3
 「偉い人」とは、(人間としての、と、ここで言っていいかどうか不明だが)地位や身分や能力が自分で高いないし優れていると思っている人、ないしそのように自分で感じている人のこと。「立派な人」とは、地位や身分などにかかわりなく、人間として尊敬できる人のこと。---一応の定義として。

 夏目漱石が、友人達と考えていた後輩達に、「偉い人」になるように、それも「花火を打ち上げるような仕方によっでなく、地道な仕方によって」(実際の言葉が思い出せないが)なるように強く進めていた手紙を書いていたという趣旨の記事を、実際の文面としても、これもおそらく新聞で、読んだことがあるが、上記の意味で、「偉い人」だったのかどうか。その意味も含まれていたような記憶もある。



20070422-2
 JANJANの記事--『ビデオが語る沖縄教科書検定問題の真実〜「集団自決」の軍関与否定の背景 2007/04/15 』から。

『集団自決のあったときのことを金城さんは次のように語りました。

 「米軍が座間味島に上陸したのが3月26日。その日に集団死を遂げた。渡嘉敷に米軍は27日に上陸。翌28日に集団死を遂げた。その経過を説明したい。

 米軍が上陸するとすぐ軍から米軍の陣地の近くに移動しろという命令が出た。日中は見つかるので夜間暗い中を住民がそこに足を運んだ。8kmぐらい歩いた。暗い夜道。悪天候で雨あられが降っていた。アメリカの軍艦に包囲されているので、艦砲射撃が激しく打ち込まれていた。雨あられと艦砲射撃の降る中で一夜を明かした。28日の朝はどんより曇っていた。雨雲が低くたれこめ、その日の悲劇を象徴するかのような天気だった。

・・・

 そのあと、衝撃的シーンに出遭う。日本軍と遭遇した。普通ならよかったと思うのに、そうではなかった。なぜ自分たちだけがこんな目に遭うのか。腹の底から日本軍に対する恨みがわいた。なぜ日本軍が生きていたのか。みんな死んだと思った。だから追い込まれたのだ。衝撃的場面だった。日本軍が、住民があっちに避難していると言った。第2の衝撃だった。生き延びてよかったとはいう考えは毛頭なかった。生きることが恐ろしかった。生きることが恐ろしかったということを知っている体験者は、本当に集団死がなんだったのか(わかる)。』



20070422
 「人生は、人が自らそれに意味(なんらかの喜びないし幸福の質)を課そうとしない限り、意味を持ちえません。」と語っていたニザンの言葉(括弧部分は自分での解釈部分)を含めて、体験と感性の質(ないしその質としてのその高さ)である幸福とは、少なくとも自身にとっての最良の、人間の古典的作品そのものなのではないか?



20070415
 体験と感性の質の、過去の最良のもの以上のものを獲得していくためには、今の時点で、特に子供たちとその親たちの心が−−熱い位に暖かいという部分をその一部であっても不可欠の要素として含めて−−暖かいことによって美しい世界への取組みを、その世界を想像し、ないしイメージし、ないし夢見て、現実の世界のすべてをないし世界の現実のすべてを、有効と思える限りでそれに近づけ、ないしかなうものにしていくというありようで進めていくことが、要る。



20070407
 「尊厳死ではなく、満足死、あるいは納得死との言葉を使うべきだろう。」(数日前の新聞記事から)。さらに、その数日前に、ALS患者のサポートに関するHPで(あるいはこれも新聞記事だったかもしれない)、重症患者自身の言葉で、「尊厳死という言葉には、なんらか外部からの強制を伴う要素が感じられる。」との趣旨(引用者自身の解釈で)の発言もあった。



20070330
 リンク情報に、「ひまわり(山梨県山梨市 社会福祉法人いずみ会 障害乳幼児通園施設)」へのリンク掲載。



20070217
 「隣人たちから煩わされる心配がないようにする力を最も多くそなえている人たちは誰もみな、そうすることで、最も確固とした(安心の)保証を得ているがゆえに、互いに他の者との最も楽しい生活を送ることになるのだ。そして彼らは、最も満ち足りた親交を享受したのちには、(親しかった)友の一人が自分よりも先に死んでも、そのことを哀れむべきことのようにして嘆き悲しんだりはしないのである。」(『ギリシャ哲学者列伝(下)』岩波文庫・第10卷・第1章「エピクロス」、ディオゲネス・ラエルティオス著、加来彰俊訳)

 自身の死は体験できない、ないし意識できないものであり、幸福は、ないし居心地のよさは、死の中にではなく、生の中に、その体験ないし意識の全対象の中に、求めるべきものである(から、でもある。)。生の対象の中の苦痛が極めて厳しく、また長く思えるものに感じられても。

 幸福な生活その他の希求を実現させるとは、希求それ自身ないしその対象が持つ、生の体験ないし意識の全対象に対する影響が、決定的なものとなるような活動を進めることによって、その成果を得ること、と言える。

 さらに具体的には(これは、その活動の実効性・有効性の高さのために、そのさらに基本的なありようの法則性を問うものだが)、その希求ないしその対象の、実物(感情も含む)とそのイメージ(残像の一種とも言えるのかもしれない)とを、消してしまわないように維持しつつ、機会を得られるその機会毎に、それが、決定的な影響を与えるようにすべく、強いものにしていく、というありようでなされていくべきものだろう。(一応、であっても。)

 もう一つ、具体的・基本的なありようとして、その対象が、体験の中に見いだしえる、そして見いだしえた、「相対的な」との対比の意味での「絶対的な」、生の体験の中の対象、であり、おそらくそのことによって、生の中のつらさに対抗しうるという対象であること、の認識(これも一つの---運動の---法則性なのだろうが)は、持ち続けるべきものだろう。

 さらに、その有効性のためにも、人間の古典的・亀鑑的作品としての人間自身、ないしその人間自身の生の幸福ないし居心地のよさを、その希求ないしその対象の、中心的なものとして含めていってそうすること。---生の体験(ないし意識)ないし感性の中で、希求する力の、ある限り。

 「美しい」とは、つらい思いをして生きている人のそのつらさを強く和らげることができる、その人自身の生の(体験ないし意識ないし感性の)対象の、本質的属性のことだ、とも言えるのではないか。心でも、身体でも、環境でも、つまりその人自身の--たぶん構想されていく--世界で。実践的に有効な法則性の認識としても。



20070108-1
 人間の古典的作品(一人一人にとっての人間の最良の作品)に接することによって得られる何よりその友情のような要素は、それ自体、現実上でのまた想像上での(それぞれ相対的なものでもありうる、また、再喚起であってさえも、さらに)、ほんのささやかなものであってさえも、この生の、そしてこの世界の、創造的変革のたぶん貴重な一つ。



20070107
 「赤は非常にやさしく、心を慰める色です。」という言葉について、

 『戸があいて、眼を紅くしたベッキイが現れました。彼女はアアミンガアドがいるのを知ると、気まり悪そうに前掛で顔を拭きはじめました。で、アアミンガアドはいいました。
「ちっともかまわないのよ、ベッキイ。」
「アアミンガアドさんのお招きなのよ。今いいものの入った箱を持って来て下さるんですって。」
「いいものって、何か食べるもの?」
「そうなの。これから、宴会のつもりを始めるの。」
「食べられるだけ食べていいのよ。私、すぐ行って来るわ。」
 アアミンガアドはあまり急いだので、出しなに赤いショオルを落しました。誰もそれには気がつかないほど、夢中でした。「お嬢様、すてきね。私を招くようにあの方に頼んで下すったのは、お嬢様でしょう? 私それを思うと、涙が出て来るわ。」
 その時セエラは、眼にいつもの輝きを湛(たた)えながら、辛かった一日のあとに、ふいにこんな愉快なことが起ったのを、不思議に思い返していました。何か救いが来るものだ、まるで魔法のようだと、彼女は思いました。
「さ、泣かないで、テエブルを整えることにしましょう。」
 セエラはうれしそうにベッキイの手を握りました。
「テエブルを整えるって? 何を乗せればいいの?」 セエラは部屋の中を見廻して笑いました。テエブル掛も何もあるはずはありません。ふと、セエラは赤いショオルが落ちているのを見つけて、それを古いテエブルの上に掛けました。 赤は非常にやさしく、心を慰める色です。テエブルに赤いショオルが掛ると、部屋の中は急にひきたって来ました。』

「非常にやさしく、心を慰める」とは、言い換えると、非常に深く、つらい心つまり体験を、動かすことができるということ。まわりの人々のそれをも、を、不可欠にして。

 A LITTLE PRINCESS−(「青空文庫」−当HPリンク頁参照−版、フランセス・ホッヂソン・バァネット−Frances Hodgeson Burnett−菊池寛訳、「十五 魔法」)より。



20070106-2
 残像と、残像及びその記憶の再起(再喚起)と、現実化しうる要素を持つ想像について、

 想像は、残像及びその記憶の再起の一種でもあり、実践的には、生の中の意味のある体験、特に体験としての情態や、生の中の意味ある法則性の認識の、それぞれ残像及びその記憶の再起でもある。

 実践的にはさらに、想像の中でも、現実化しうる(あるいは、させうる)要素を持つ想像が、重要な・肝心なものだ、と想定できる。

 思考も、当然に想像を、おそらくかなり中心的なものとして含む。

 実践的にはさらに、思考についても、想像と同様に、思考の中でも現実化しうる(あるいは、させうる)要素を持つ思考が重要で肝心なものだ、と想定できる。



20070106
 肝心なのは、武力はもちろん権力なのでさえもなく、個々人の権利 (さらにいえば何よりもその幸福追求権) と、その権利のための権限の委託なのだという認識。



20070101
 権利と権限と民主主義と法律、また、戦争・軍隊・武力と人間による人間の殺戮・抑圧について、

 権限は意志的な委託に基づく「(人間のあらゆる)活動の社会的許容範囲」であり、権利は、その社会的な立場になれば共通的に有すると認められる法的かつ基本的に倫理的な活動許容範囲、といえないだろうか。

 そして、法律は−憲法を含めて−、政府へのその権限の委託方法・基準と、その権限行使の方法・基準を定め、また、国民や地域住民自身の権利関係と権限委託関係の基準・方法を、国民や地域住民の委託に基づいて、(特に後者に関しては)直接的にも−すなわち、政府を介さないありようでも−定めるべきもの、といえる。

 政府−各国のそれ・国の中の地域のそれを含み、また、立法府・行政府・司法府を含むそれ−は、その国民や地域住民の委託に基づく権限に基づいて運営され経営され(つまりその活動がなされ)るべきもの。

 このように考えると、国際政府(立法府・行政府・司法府)というようなものも、あってよいものかもしれない。

 権利及び権限に基づく抵抗権の行使によって武力が使用されることがありうるにしても、武力によってでは、戦争や軍隊や人間による人間の殺戮・抑圧の存在という課題の解決・克服は、得られない。武力の使用は唯、抵抗権の行使としての範囲でのみ、認められるにすぎない。

 現在の日本の、憲法上の基本権も、労働基準法での労働者の権利も、生活保護法での国民の権利も、それぞれ、そこに規定された権利を明文で確保しようとする人たちが、その権利と権限の委託に基づいて確保した成果だといえる。
 


20061219
 人間の古典的作品にかかわるものとして、情態 (すなわち、生の体験を、一応、「思考のすべて」、「意志のすべて」、及び「情感のすべて」と区分して把握した場合の「情感のすべて」に注目しての、そ) の幸福の質における共感的・共鳴的・性格的要素は、その(質の高化の)中心的な位置を占めるものだろう。
 
 そして、その質の高度化は、生活 (すなわち、一見して最もありふれた人間の活動--たとえば、安定した呼吸を取ること、食事を取ること、安定した排泄を取ること、睡眠や休息を取ること、暖を取ること、それらにかかわる、職の、すなわち社会的・分業的な役割を持っているという意味での職の、仕事をしていくこと、などなど--) の中にこそ把握していくべきものだろう。

 さらに、運命(と呼ぶべきもの、つまり人間の幸福な生活を抑止する一切のもの)に対する反抗・抵抗の要素は、人間がそれに勝つことができるようになるまでは、各人が幸福な人生(生活のすべて)を獲得していくために、不可欠的なものだ。

 さらにそれは、共感的・性格的要素の、中心的な部分を (そのすべてではない場合でも) 占めるものだ、といってもいいのではないか。


20061111
 対象面と主体面でのそれ、というより、意匠と自然とに関わるそれと考えるべきなのではないか。

 意匠は、想像力そのもの(あるいは創造活動)と、自然との産物。物語はそのような意匠と自然との動的な把握、といえる。自然だけでなく、意匠も重要であることは、認識していくべきだ。

 身体の意匠を含み、明かりと色彩に関わる、そして、何より人間に関わる密度への意匠(デザイン)を創造し、それを生きていく、そのような日々の生活のヒントとして人間の古典的作品は活用できる。



20061105
 その時の一応の密度が、そしてそれまでの一応の密度の総体が、いわば絶対的な密度である。

 この世界を、あるいは何かの対象を愛せてるということは、どんなにわずかにであっても、あるいはどんなにかすかなものであっても、(到達点というよりはむしろ)出発点だ。

 何かを愛せてる時のその対象面及び主体面の双方には必ず美しいと感じられるものが入っているが、美しいと感じられるものは、必ずしも愛せてるものとして対象面又は主体面に存在すしているものではない・・・。

 物語(見通し)は、その時の状況ないし実践での、意味の把握であり、意味は、主体面での、主体的・意識的な、その対象に対する「法則性の把握」である・・・ないしは、「法則性の把握」を前提とした「法則性の想定」である・・・。

 質問と回答の思考は、これも物語の形成である・・・。立証の思考でさえ、確実性の高さの度合いは異なるにせよ、そうだ・・・。



20061103
 物語を紡ぐことと、見通しを持つことは同じことであるべきだと考えられ、実践してみると、・・同じことである。そして、物語を紡いでいくこと・見通しを維持していくことは、不断に要求される活動である。その物語の(見通しの)中のいずれかを実現させていくことと共に。

 もう一つの認識---対象面のありようと、その対象面でのありようと絶対的に切り離せないものだと判断される、主体面でのそのありようの、両方が要求される。これもいつも。


20061024
 方法としての倫理として肝心なのは、どういう人間だったかを確認することだけでなく、さらには、どういう人間であるかを確認するだけでなく、どういう人間として生きようとしているか、するか。どんな時にも。いくつになっても。

 その結果として、どのような「人間の生の幸福の」物語をつむぎ出せるか−−特に言葉を活用して−−、そして、並行してそのどれを選択して生きていくかも重要。学ぶことはその手段。



20060824
 人間の古典的作品を観賞すること(読むことほか)によって得られる幸福の質の獲得と、そのイメージの一つ一つは、生の獲得すべき質の幸福の獲得のための活動の、目標ないし目的の一つ一つになりうる。そしてそれらの作品の中には、何世代かあとになってはじめて実現可能になるようなもの、あるいはそのイメージが含まれる(ないし、含めなくてはならない)。


20060815
 一人一人が世の中の平和を実現させるそして一人一人の幸福を確保する力を持つ、そういう人間を実現させる過程に、一人一人の人生はそして生涯は--どんなに悲惨なものであっても--あるのだと考えることができる。

 人間自身がそうでもある人間の古典的作品とか、人間の友情の価値などを見てみて、でも。


20060717
 苦痛、喜び、生、死、倫理(ないし哲学)に関する、ニザンとエピクロスの言葉の再録

 「エピクロスは結石で死んだ。2週間続いた苦しみを、彼はその哲学にふさわしい態度で耐え抜いた。ディオゲネス・ラエルティオスはエピクロスの死を次のように語っている。  死期の近いことを悟った彼は、湯を満たした青銅づくりの浴槽に入れてもらい、葡萄酒の杯を求めて、これを飲み干した。弟子たちに自分の教えを思い出すことを勧めてから、彼は息をひき取った。私は彼に捧げる次のような詩をつくった。
 『さらば友たちよ、わが教えを忘るることなかれ。エピクロスはいまわのきわにこう語った。これが、彼が友たちに残した最後の言葉である。・・・』」

 「・・・イドメネウス宛の書簡の断片が残っている。『死の訪れの近いことを感じている、わが生涯のこの幸せな日に、私は君にこの手紙を書く。病は膀胱や胃の中で悪化し続けており、その苛烈さを少しも減じようとしない。にもかかわらず私は、君と交した対話の数々を思い出し、心からの喜びにひたっている。メトロドロスの子供たちの面倒を見てくれたまえ。私に対し、また哲学に対し、昔から君が示してくれた忠誠に期待して、そのことをお願いする。』」

 「喜びは金や政治権力に依存するのではなく、人間が本当の意味で所有しているもの、つまり自分の身体と、その身体の欲求と可能性の認識に依存するものであるからだ。エピクロスの倫理は要するに、自然の必要に属さぬ、人為的な快楽を排除することをその基礎にしている。・・・エピクロスは最大限の経済性を狙うのである・・・。」

 「彼は知っている。生は明日のためにあるのではなく、今日のために、今日の一秒一秒のためにあるのであることを。幸福の一瞬一瞬が言わば永遠の所有である。」

 「肉体的苦痛はいつまでも持続するものではない。もっとも激しい苦痛は非常に短い。肉体的快楽(快さ)を越える苦痛でさえ、いく日も続くわけではない。さらに、慢性的な病気の場合には、肉体的快楽が苦痛を凌駕している。」

 「大きな苦痛は一瞬のうちに生命そのものを絶つ。長く持続する苦痛は少しも激しくない。」(以上、ポール・ニザン・『古代の唯物論者たち』・晶文社・1974年・加藤晴久氏訳。以上のエピクロスの言葉についてはすべて、岩波文庫『ギリシャ哲学者列伝・下・』1994年・第10章に、加来彰俊氏による別の翻訳文が載っている。)



20060714
 苦痛、不快感などの身体的、精神的パリエーション、とくに、どうにもならない、どうにもできがたい苦しさ、それらを、「人間」の形成への行動、ないしたたかいにしていく、のには、それらの苦痛とたたかう身体的支点を確保していくようにしていくことがまず、必要だろう。自身の場合では、少なくともそうだろう。そしてそのたたかいの内容は、本当は、「人間」(とその存在が可能になる世界)の形成のさまたげになる一切のものを克服していく(ポール・ニザンなど)、というものだろう。ごくわずかなものであっても幸福のないし幸福への高揚をさまたげる、一切のものを克服していく、という。その結果が「ほんの少しの幸福」であったとしても、「つかのまの幸福の輝き」とさえいえないものであったとしても。ほんの少しでも快さを伴う、言葉かけ、食事の支度と確保、言葉を介しての新しい知識の勉強、新しい認識の確保であるとともにそれを通して経済的な収益収入も確保していきうる委託を受けた職の仕事、委託されたといえる公務、などなど。


20060712
 自身の身体と精神の中に恒常的に感じられる志向性を前提にして、ポール・ニザンなどの言ったように、愛であるものとしての(翻案して、幸福へのその体験の質の転化が可能であるものとしての)人間は、そして、その人間の存在が可能である世界は、形成過程にあるのだろう。そのように考えることができる。また、このような意味を自身の人生に持たせることができる。人間の古典的・亀鑑的作品も、このことを確認させてくれる・・・。


20060528
 可能性がないわけではないこと、また、絶対的な不可能性があるわけでもないことの確認のうえで、選択すべき行動は、「」(幸福にかかわるさまざまな想像をかきたてられるような生の行動の選択のありよう)。人間の古典的作品は、そのきっかけ、ないし指標としても有益である。


20060401
 (1) ひとつの認識として、精神は身体の実践的態様である。
   と思われる。その意味で、健全なないし溌剌とした身体は、実践的には、健全なないし溌剌とした精神に宿る、−−障害や病気の有無、程度にかかわらず。といってもよいのではないか。さらに、精神の実践的な目的は、健全なないし溌剌とした幸福ないしその充実。といってもよいのではないか。自身の場合。(エピクロス『ギリシャ哲学者列伝』下巻・岩波文庫、スピノザ『エチカ』・岩波文庫、など参照。)

(2) お金で買って得ることができないものーの獲得の方へむしろ比重を置いてやっていくべきではないか?
 なぜなら、経済的な面での活動の成果(すなわち、 経済的な富裕さ、それも、本質的に矛盾する言葉になるかもしれないが、多くの人々にとっての富裕さ) は、その獲得のための有効な基本的な法則性やその集合が認識可能だとしても、そして、その認識とその活用を前提しての活動を進めていくとしても、少なくとも今日の総体としての人間の認識と技術水準において、その活動の中での努力や工夫が報われない結果になる要素が大きい性質の活動のその成果だからであり、それゆえそれへの比重を副次的二次的なものとしていくことによってであっても、主要なものとしていくことによってでも、結果としての差がより出にくい、偶然的要素の影響が強い性質の活動の成果だ、という限界があるからだ。
 時と機会をよりよく生かすうえでも・・。



20060202
 職の仕事をとおして、その仕事の成果としての収入を得ていくことが必要である理由は、あたりまえのようだが、今日、何より他人の仕事の成果の力を借りなければ (---ほとんどの場合、これは、他人の仕事の成果を買わなければという意味になるが---)、生活を向上させることはもちろん、生活してしていくことそれ自体さえできないから、である。分業が、そしてその分業の成果を、力のある者が効率よく確保していくことを支えている、所有権を中軸とする法律制度が、あまりにも高度・広範囲になってしまっているからとも、いえるのだろうけれど。

 他人の仕事の成果を買う(購入する)ことによって得なければならないもの、あるいは、他人の仕事の成果を購入することによって得られるものは、とりあえず、そして基本的に、自分自身の物質的環境の確保・向上のためのものだ、といえる。食べる物・居住する場所・衣服・それらの一定の質と量などだ、といえる。

 サービス業務を「購入する」ことは、その最終目的をみてみれば、やはり、基本的に物質的環境の確保・向上のためのものだ、といえる。芸術作品・音楽作品・演劇作品・書籍などの場合、わかりにくいけれども、他人の仕事の成果であるその作品を、購入することによって得るもの、得られるものは、やはり、基本的に物質的環境に属するものである。精神的な環境を、---たとえば、友達とか、愛せる相手とか、それらの誰かのために役に立てているという心情などを、あるいは作品から受ける感動を、---「購入する」ことはできない、のではないか。(これについては、たとえば、誰かのために金銭を支払うことによって、購入することができるのは、やはり、その支払によって得られる物質的環境であって、精神的な環境は、その支払によって、---少なくともその支払の対価として---得られたわけ(成果)ではない、といえる。)

 そして、職の仕事をとおして、その仕事の成果としての収入を得ていくことをとおして、生活の物質的環境の質を向上させることは、生活の、精神的な面での度合いが、同じ度合いを保っているかぎり、生活の質を向上させていくためにプラスになるものである。職の仕事をとおして、その仕事の成果としての収入を得ていくことと、そのことをとおして、生活の物質的環境面の確保・向上を図っていくことについては、それ自体は、生活の精神的な面での質の低下をまねく効果を持つもの、ではない、といえる。(精神的な質の度合いは、職の仕事の成果としての収入を得ていく活動の前後において、基本的には等価だといえる。)

 精神的な環境は、自分自身の生き方によってでしか、獲得できず、確保していくことができないものなのだ。(物質的環境は、かならずしもそうではない。)


20051220
 幸福を獲得していくために私たちに可能なことは、思考も、物語りも、姿勢も、表情も含む意味での、そのために可能なできる限り有効な(その中に人間の古典的作品や科学や技術の活用を含めていくことになる)「ふるまい=行動」。

「よい時代に生まれてよかった」と皆が感じられるような時代の獲得のためにも。

12月8日(日本時間)のことについては、私にとっては何より「日本政府が戦争を始めた日(国民がそれを許した日)」だと思っています。

今日の政治・経済改革が目指し、すでにそのために「実現されている政府」は、「その中で各自ができるかぎり高い位置を占めるという条件付きで、富裕層(所有純資産と年間平均所得収入が富裕な階層) に属する人々の富裕度を、より高めることを基本的な動機としている人々によって構成される政府」であって、戦争も、そこに属する人々にとっては、特に遠い国で行われるのであれば、その動機のために否定すべきものでもないと考えられているのではないか、そんな気がします。



20051125
 それとたたかったりそれを活用したりして、運命から勝ち取るべきものは、何よりみんなあるいは多くの人の幸福にとっても役立つような、その人々の意識にとっての、相対的に外部の対象。

美味しさは、そのような美しさの一種ないし、そのような美しさによって獲得される幸福の一種。

 たとえば、「クオレ」の物語の中の幸福とか、クリスマスのさまざまな物語の中の幸福とか、一葉・ニザン・ドライサー・ブロンテ・アンネフランク・ロマンロランなどの物語の中の幸福とか・・・。

真率な愛情は、協力して運命とたたかう人々ないし命あるものたちの、それ自体一種の美しさである共通的なものでもありうる感情。友情は、運命とのたたかいにおいて共通的な条件を前提とした愛情。愛情は、運命とのたたかいにおいて、共通的な条件を前提としないそれ自体一種の美しさである共通的なものでもありうる感情。

運命とのたたかいにおいて豊かさとは、そのような美しさを、生の中に密度高く獲得し、そして生のその時点で密度高く獲得していること。



20050911
 より、最もつらい思いをして生きている人への必要な援助--なにもできないかもしれない、しかしできることがあれば、できるだけ有効なそれ--をしていく姿勢を、生身の自分自身の心と体の必要としているものへの援助としても、取り込んで、いくこと。友達甲斐という、主観的なものであってもひとつの幸福感の、共鳴・増幅・共振が、それがどんなにわずかなものであっても、よりよく得られうる、という点からも。


20050829
 情報としての人間、ないし情報の集積としての人間として、ではなく、生きている、生身の人間としての人間を相手として、生きる、ないし幸福を考えたり、追求したりする、こと。

 言葉は、話されたものはもちろん、書かれたものでも、そのような、その時生きていた生身の人間が話した、また、書いたものとしてとらえていくこと。
そして、そのような、その時生きている生身の人間が話すものとして、また、書くものとして、とらえていくこと。

 古典的な作品 (いわゆる、年月を経ても名作と判断される--生身の、生きている人間の心を動かす--作品) はもちろん、すべての日々の言葉 ---思考の言葉も含めての、日々の言葉--- についても。

 テレビも、インターネットも、週刊誌も、月刊誌も、その他すべて書物についても、そのように批判的に、それらすべてに対応していくこと。


20050828
  経営と、「生身の人間としての人生の中で他の意味のあること」との「関係ないし兼ね合い」を、どのように位置づけていくか、といえば、やはり、前者は後者のためのものとして、という回答。

 後者はたとえば、友達甲斐とか、愛情とか、あこがれとか、それらにかかわるような、ほんの少しでも幸福感とか、そしてさらにそれらが抑圧された時、及び抑圧されている時の抵抗とかを。


20050723
 学習と提起のための、課題テーマ(5) 「抵抗権の行使との関係での=『反暴力=反戦争=反人権抑圧法規』の活動としての」、軍隊を捨てた国を含む。



20050716
 学習と提起のための、課題テーマ(1) 「抵抗権の行使との関係での=『反暴力=反戦争=反人権抑圧法規』の活動としての」、スパルタクス団の活動の政治的意味・役割の批判的採用。  課題テーマ(2) 「抵抗権の行使との関係での=『反暴力=反戦争=反人権抑圧法規』の活動としての」、白パラ運動の政治的意味・役割の批判的採用。  課題テーマ(3) 「抵抗権の行使との関係での=『反暴力=反戦争=反人権抑圧法規』の活動としての」、キューパ革命の政治的意味・役割の批判的採用。  課題テーマ(4) 「抵抗権の行使との関係での=『反暴力=反戦争=反人権抑圧法規』の活動としての」、国連憲章を含む国際法の、学習と教育への働きかけと、各自が所属する経営組織の経営を担う(になう)力と経営する権利の獲得と行使の、認識と技術の練成と、その認識・技術教育への働きかけ。



20050714
 端的に幸福のあるいはその充実の獲得というような課題上で、それも結局は「精神的なもの=人間的なもの」に先導される結果だとしても、「判断=選択と忌避」の基準は、諸感覚の内容(contents of sense)であるべきではないか。エピクロスのいうように(「(古代)ギリシャ哲学者列伝・下」(岩波文庫・第10巻・エピクロス)参照)「感覚」が、判断の最終基準となっており、またなるべきだとの認識について、「その内容」という言葉を加えるべきではないだろうか。

 たとえば、この世界で、何かを、時によってはものすごく、愛せるないし愛せているというそれ。そしてたとえば、その諸感覚の内容の中にどうにもならないような苦しさがあるような「時=場合」でも。



20050703
 たとえば古典的な作品を最良の手がかりにして、心の中に常に「現に=実際に」この世界の中でともかく(できればとても) 愛せるないし愛せているものが在るということの認識が、いつも喚起されているべきだ。

 さらに、たとえば一見するとその作品中の生の中(何よりその心の中)に、「現に=実際には」それがないように見えるときであっても、やはりその作品中の生の中には現に実際にそれが在ることを認識するように、読んでいくべきだ。また、聞いたり、見たりしていくべきだ。

 たとえば、「樋口一葉」(ちくま日本文学全集、1996年第2刷) の中の歌、
「君とわがたヾ身二つのかくれざと隠れ果つべき里もなきかな」
「何事(なにごと)も語るとなしに玉くしげふたりある夜は物も思わず」
「ひだりにも右にも滝(たき)の音聞きてみ山がくれに行く旅路かな」
「日頃(ひごろ)へし憂(う)さとつらさをまれに逢(あ)ふ今宵一夜(こよいひとよ)に言ひもつくさん」
「書き交すこの玉章(たまずさ)のなかりせば何をか今日の命にはせん」
「わかれんと思ふばかりも恋いしきをいかにかせまし逢はぬ月日を」
「底深き心もしらでひたすらに怨みしことぞ恨みなりける」
「よそながらかげだに見んと幾度(いくたび)か君が門(かど)をばすぎてけるかな」
「うき名をば惜(を)しむあまりに今はたヾ逢由(あふよし)もなくなりにけるかな」
のそれぞれを、そして「たけくらべ」を、さらには「にごりえ」を、その玉章として、読むこと。「幸福についての物語」として読むこと。読んでいくこと。



20050624(1)
 「誰でも、錯覚から真に目覚める瞬間に(=可能な限り意識の奥底というようなところまで、体験や体験した出来事を検討すれば)、その時代の混乱や悲惨さや幸福の在りようの一切を、その意識の中に、或る在りようで見いだすことができるものだ。」(ポール・ニザン『アデン・アラビア』野沢協氏訳[新日本出版社「トロイの木馬」所収]の言葉のアレンジ)

 このような認識が有効であるのは、実際に際会するあらゆる体験や出来事の可能性がそこに含まれうることになるから、だ。

 追加していえば、その有効性の根拠の中には、出来事を、あらゆる「実際的=際会しうる」可能性の認識の中で受けとめ、把握することが、しやすくなるから(一般的にいえば、客観的に受けとめ、客観的に把握することがしやすくなるから)ということも、ある。

 出来事とは、ある程度の幸福の獲得や保持の観点からいえば、このような、「意識の=心の」奥底とよぶことのできるようなところにまで及ぶ、その時代を或る在りようで映している、想像や、際会された体験の記憶などの要素を重要な要素として含んでいるもの、だ。

 (以上、第1段で言ったことと同じことを、それぞれ角度を少し変えていっているだけなのかもしれない、が。?)



20050624(2)
 共通のたたかいは、各人の人生の中で求めるものの絶対値的な要素を含むべきものだ。少なくとも自身にとって。
(数学的な意味の絶対値ではなく、各人の人生の中での必要な、あるいはどうしても欲しいものに対する、その獲得や保持の度合の最低限度的な一定値というような意味での絶対値、的な。)



20050617
 サンテグジュペリの有名な作品『星の王子様』(内藤濯訳、岩波書店版)の中の、ではなく、同じ作者の'古典的な'といえる『人間の土地』(堀口大学訳、新潮文庫)の中の言葉---「また経験はわれわれに教えてくれる。愛するとは、互いに見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見ることだ。」について検討してみる。
 これを「[共通的な=共通するものとなっている]課題をたたかっていくことだ」と解してみると、(共通的な目的に向かって、ということは当然にその中に含まれるものとして)自分自身の場合でも意味があるものになってくると思われる。これは、むしろ友情をつちかうということについていえることなのだ、とも思う。友達甲斐ということについて。



20050615
 しかし、それも、それがなくては幸福とは感じられないようなもの、言いかえれば、それがあればどんなことでも耐えられる、ないし耐えてたたかっていけるというようなものを獲得することを中心にして、だろう。そして、そのようにして、現実と夢(想像)との両方とで、よりそれに接するくらいに近づくことの、その程度が一定のものに達するようにさせること。そのような観点からこそ、その力を強化していくうえでも、古典的作品に接していくこと、ないし古典的作品に触れる対話のようなものを継続していくことが、一般的にも有効な方法になるものだろう。自分にとっての、またそれぞれの人にとっての最良と思える部分のそれに。



20050614
 たとえば古典的作品としてのある詩句や俳句や短歌を「暗誦=あんしょう」できるように記憶できたことで、その力は一段階強くなったことになる、と言える。(その作品は、一つの、現実ないし世界に対して獲得した有益な認識である、とも言える。)



20050612
 ただし、人間の古典的作品ないしその中の人間にあるのは「モデル=例=亀鑑=きかん」であって、現実の個々人の実際の具体的な課題をそれが解決してくれるわけではない。どれほど美しいと感じられる、あるいは力のあるモデルであっても。

 そして、あるいは、また、現実の個々人の実際上の・具体的な・当面の・とりあえずの問題を解決すべく取り組んでいくという課題は、並行的に、常に・継続的になされていくべきであり、それによってより、現実の一部としての夢を現実として強く感受する力を強化させうる。



20050611
 人間の古典的作品は、それとの、あるいはその中の人間との対話を維持・継続していくことを通して、現実の一部としてのそのような夢を少しでも充実させうる。そして、そのような現実の一部としての夢を現実として強く感受する力を強化するのに有効である。さらに、認識の手段として現実への認識を深めるないし高めるということを通じても。



20050610
 そして、かすかなものでも、そのような「夢=ファンタジ-=幻=イリュージョン」あるいは可能性あるいは印象あるいは予感などへの、それらを--現実に--強く感受する力を、常に努力や工夫をして、育てあるいは鍛えていくことが。 ---"ありのままに=成り行きのままに" が、逆の方向に引かれていくことになるのであれば、特に。



20050609(2)
 現実の一部分としての「夢=幻」の部分はたぶん常に必要。



20050609(1)
 時は (生は) いつも、何より一人一人のそれぞれの特別の幸福のためのものといってよい。 どうにもならないような苦しさのある時 (生) であっても。 たとえばこの世界で本当に ・ とても ・ ものすごく愛せる対象の幸福そのもののような。



20050608
 私たちが新しく作っていく世界、ないしそのような世界を作っていこうとする意志あるいは努力の中でこそ、実現されるべき現実はおそらくよりよく実現されるもの・・。
 その世界は、一人の力だけで実現されるものでは、当然にない・・。



20050606
 「障害者自立支援法」の問題点について
 (「トピックス-当事務所選-日本での法制度に関するもの」に掲載分と同一内容を含みます。)

 何よりも、障害者や障害のある子どもとその家族への支援が、「所得に応じた負担を伴う」ものから、「契約に基づいてサービスを利用した度合に応じた負担 (1割負担) を伴う」制度に変更されようとしていること。(29条ないし35条で定められています。)

* 消費税制度の場合には、所得収入や純資産の少ない人の方が相対的に負担が重くなる公的 (税) 制度ですが、この障害者自立支援法の制度の場合、いわば絶対的に、障害が重い人やその家族の方が、その障害の重さに応じて、より負担も重くなる公的制度に変わることになると思います。

** 2005年度「障害者白書」では、在宅の身体障害者 (18歳以上) の就労月収は、3分の1が11万円未満、知的障害者 (同) の場合、半数以上が3万円以下、とのことです。また、白書は、国民のおよそ5パーセントが何らかの障害を有しており、障害への理解を深める必要性を強調している、としています。(2005年6月8日の新聞記事から。)

 特に、「障害のある子どもとその家族への支援には、契約に基づいた負担を伴う自立支援の制度はなじみません。
 児童福祉法では、『保護者と共に児童を心身ともに健やかに育成する責任』(第2条)を国と自治体に課しています。
 日本も「批准=ひじゅん」している子どもの権利条約では、障害のある子どもに対する必要な援助は、『父母又は当該児童を養護している他の者の資力を考慮して可能な限り無償で与えられる』(23条)としています。
 これらに基づいた、乳幼児期にふさわしい支援こそ必要です。」

 (2005年5月12日日比谷公会堂・野外音楽堂で全国から当事者・関係者が5000人規模で集まって行われた、「障害者自立支援法」を考えるみんなのフォーラムでの、障害児通園施設の職員の意見発表を援用。)

 

20050522(1)
 過去の現実を 「夢見る力=想像する力」を、ではなく、未来の現実を夢み、想像し、それを現実に変える力を大切にして、

 生きていくべき。

 そのような未来の現実は、人間一人一人が未来の現実にそのようにありうべき「人間らしさ」とか、「友情」とか、「愛」とか、「誠実さ」とか、「やさしさ」とか、「人の美しさ」とか、「幸福の美しさ」とか、「人が運命と呼んでいるものとのたたかいに、うち勝っていくための勇気や努力や知恵」などの「しるし=言葉」で表わされるもの (「未来の現実」) に、かかわらざるを得ないだろう。



20050522(2)
 専門的技術力の向上・蓄積と、その方向性について

 どんなに高度の専門的技術力の向上・蓄積をめざす場合にも、"既存の経営組織がその職に所属する人々の仕事を通して社会に供給しているもの (「商品」または「公的なサービス」) についての専門的技術の、実務研修的な習得" が、その不可欠的な基本的な出発点になると考えられる。

 ここで、一人一人が自分自身を一つの経営組織としてみて、自分の職の仕事を通して社会に供給していくものを、「商品」だと言い切ることには抵抗を感じる人が多いかもしれない。
 しかし、自分の職の仕事を通して社会に供給していくものは「公的サービス」であると考える人がいても、自分の職の仕事が属する経営組織の経営の観点は、本来不可欠である。
   たとえば自由業でみた場合、自己の職の仕事によって社会に供給していくものを、商品であると把握するか、公的サービスであると把握するか、両方の要素をも含むものであると把握するか、については、基本的にその両方を含むものだ、といえる。
 しかし、他の職でも - たとえば公務員であっても、ボランティア的な組織の専従者の場合でも、商店経営者であっても - その区分は、本来絶対的なものではない。公務員の場合に、政治的・行政的な制約は当然に、より大きいとしても。

   専門的技術力の向上・蓄積と、その方向性については、以上のような点の認識をふまえてなされ、選択されるべき。
 


20050517
 専門的技術力に関して
 マスコミや、各種ポータルサイト、リンクページ - たとえば当サイト内リンクの「青空文庫」 - など参照し、
 文学作品の中の最良の部分・最適な部分、画像や、イメージ・音声・音響・音楽・絵画・映画・モデル・運動家などのそのような部分、つまり、最新のものを含む古典的作品など参照し、
 「産業分類表」などでの興隆・衰退の記録など参照し、
 専門的技術力に関するより有効な - と考えられる - 法則性の認識 をも「創造=想像」し、しるしていくこと・・。



20050516
 人生での、一定の獲得すべき金銭的目標を持つことの、実践的・技術的な有効性について

 すなわち、人生での、基本的には一定期間での仕事を通して獲得すべき 「 (金銭に換算できる) 利益収入」 目標を持つことは、それによって、「高邁=こうまい」なものも、本当に切実なものも、下劣なものも含みうる (多くの場合それらの中間的・混合的なものである) 種々雑多な、その目標達成によって得られると想像され・予感される感性的・具体的なイメージを、描きやすくさせることになる。

 しかも、人生の中で、その人生の目標を継続的に保持することに関しても、また、生活の中で記憶の中から見失っていたその人生の目標を「再起=再現」させることに関しても、それらに関わる獲得すべき一定の金銭的目標を持つことを通して、すなわち一定期間での仕事を通して獲得すべき利益収入目標を持つことを通して (そしてそれを絶えず再起していくことを通して)、その (人生の) 目標を保持し続け、また、記憶の中から再起させることの方が、しやすいものである。

 おそらくそのために、多くの人にとって、たとえば交際を拡げ、広く「親睦=しんぼく=友情」 を培い、逆境に耐え、それに打ち勝つヒロイズムを鼓舞してたたかっていく、などのことも、そのような金銭的目標の実現のためにという課題を通しての方が、継続的には、しやすくなるのである。

 特に、本当に切実な課題や目標についての保持力及び再起力が、(たとえば、感性的なあるいは精神的な環境変化に負けやすいなどのために) 劣る人にとっては、そうである。たとえば、自分自身で検討しても。



20050504
 課題は、どうにもならないような受け入れがたい部分をどうこうするというのではなくて、-あるいはそれへの取組はあってもそれをすべてにするのではなくて、たとえば少しでも愛せる対象のたとえば幸福を愛せること、などを通して幸福を獲得すること、していくことの方。



20050503
 思考は、身体の運動と感性にも影響を与え、一方、身体の運動(静止するなど姿勢の保持の運動も含み、また、見る、聞く、食べるなどの運動を含む。活動というべきかもしれない。)は、思考と感性にも影響を与える。
 幸福獲得へのたたかいの成果は、単に思考の成果ではなく、思考と身体の運動の双方を含む「実践的運動(実践的なたたかい)」の成果である。 -フォイエルバッハについての認識=命題で述べられているように。



20050420
 歴史とは、生きられた一人一人の人生の物語の集合体。



20050319
 「しかしながらどんなに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。」(紫式部・与謝野晶子訳・源氏物語・桐壺・「青空文庫」より)
 しかし、現実もまた実践的に変えうるものでもある。あるいは、現実もまた、創造されるものでもある。どんなに困難な課題であっても。


20050308(1)
 平和とは、
 特定又は一定の人間による、他の特定あるいは一定の人間への、組織的なものを含む意識的暴力が行使されるということがない状態と、その時。 つまり戦争も暗殺もテロルもない状態と時。
 それはさらに、そのような暴力が行使されることに抗してそのような暴力が行使されるということがない状態と時を創造するたたかいは互いに援助を受けるということをも含めて抵抗権の行使の限りでたたかわれ創造されていくことが正当だと、大多数の各人に認識されるような状態とその時。
 それはさらには、核兵器はもちろん、軍備の縮小協定などに反する行為をすること、その他戦争をしようとして行動を起こすことそれ自体が犯罪と考える人が、大多数になるような状態とその時。



20050308(2)
 今日、経済とは (つまりは経済的豊かさとは) 、
 基本的・実践的には、いかに各人が、自身にとってよりよい就職 (職の仕事の獲得) をし、その (経営までを含む) 職の仕事をしていくか、ということだ。



20050305(1)
 それでも、つねに「精神労働」(←→「肉体労働」)が先導して「持ちこたえていく」たたかいという要素がたぶん必要 ?
 思考や感性が、身体的運動 (に支えられることも認識して、それ) を制御していく、というありようで、だ。



20050305(2)
 「愛しえる対象」というしるしの意味、そしてそれと「美しい」というしるしの意味についてのノート
 「本当に美しい時と世界」やその持続があったとしても、前者 -愛しえる対象- が、あるいはその幸福のためにも、という要素がなければ、寒々しい。一人でも、幾人でも。ほとんどの時間において、自身以外のそれが。 たとえばサン・テグジュペリの物語がしるしたような。



20050301
 本当に美しい時や世界の持続は無理だとしても、そのような対象やそれらの可能な限りでの持続の発見や際会や想像に向けての、それらの前提としての想像の努力やたたかいの継続は、なされていくべきだろう ?
「本当に美しい時と世界」も、「そのような対象」も、「それらの持続」も、それぞれ「しるし」のひとつづつでもあるのだから ?
 ただし、この世界で、愛しえるものの幸福 (そのもの) 、及びそののしるしを伴うのでなければ、ならない。つねに。そして、こちらの方がむしろ肝心・・。



20050227
 現在しるす(=記す=著す=標す=徴す・・)こと、ノートすることができること。
 見いだすことや出会うことや創造することは、実践的には想像することを前提としている。そのために努力することや判断することや決断することは、「運命」とのたたかいといってよい。判断が決断であるとき、勇気が必要になる。感情や体験の「しるし」を把握することは、それらをよりよく獲得していくために有益だからである。「しるし」は、根源的にはおそらく「著し」であって、それ自体は明確に把握でき、それによって体験や感情やそれらの思い出をよりよく獲得していくことのできる、操作可能なもののことである。そして、「運命」との共通のたたかいにおいて、共通のたたかいの道具となりるうものである。科学は、有益な法則性それ自体を「しるし」によって把握できるようにするための実践である。技術は、基本的には科学によって把握された有効な法則性のしるしを、より使いやすくしたものの集合のことである。記された言葉は技術でもあるこのような「しるし」である。記された数式も、技術でもあるこのような「しるし」である。記された法律も、技術でもあるこのような「しるし」である。しるされた物語(言葉によって記−しる−されたり、画像や映像や音声を伴って描かれることによって−しるされ−た物語)も、これは技術ではないが、このような「しるし」である。??



20050108(1)
 行動 (行為) としての待つことを除いては、待っているだけではそれ以上 (成り行き以上) には何も得られない。?



20050108(2)
 運命と呼ぶことのできるものから人が勝ち取るものとしての個々人の、人生の中の幸福あるいはその充実を、一つ一つであっても、そのチャンス・機会・可能性を (想像することや模倣することも含めて) 創造し、獲得し、実現させていく機会・可能性は、生きていく限り亡くなってしまうわけではない、という認識は、おそらくそれ自体当然に一つの価値だろう ?
 何より、実践的に検証されるべき、実践的に獲得されていくことによって検証されていく -そして、いる- 価値。



20050108(3)
 創造し実現させていくこと、そのために必要で有効な何かを得ること、さらにはそれらのために必要で有効な法則性を認識すること (学ぶこと) の原点・出発点としての「判断して取り入れること・判断して模倣すること・判断して見習うこと」、などは、創造し 実現させていく行動の方法として、必要でかつ有効な基本的過程である。
 模倣・学習という行動も、一つの創造でもある。想像は、おそらく、基本的に模倣を伴うその創造の過程に伴うものである。(しかも、少なからず「しるし」を通してのそれらが伴うもとのして。)
(実践・行動は、対象把握的活動であるかぎりで充実した成果を生むことに照らしても。)



20050108(4)
 幸福・美しさ・愛しうる対象の充実は、おそらく体験の中の−何らかの目的意識からみた事実としての−情報や、情報の一つもである認識や、認識の一つでもありうる技術などとは異なる体験、ないし体験の中の出来事(事実と呼ぶことも困難なもの)である。
 たぶんもっと全体的なものだ。
 幸福や、美しさや、愛しうる対象のイメージは、それぞれ情報でありうるとしても。
 記憶も、残像も、印象も、知覚も、感覚も、感情も、情動も、意識も、それ自体はそれぞれ、情報とはいえない体験、ないし体験の中の出来事(事実と呼ぶことも困難なもの)だ・・・。



20050108(5)
 幸福とその充実は、一人一人の人生の物語の-出来事としての体験-の中に存在するものであり、しうるものだろう。
 (物語とは、その人の人生の全体の、その一部としての-その出来事としての-人生のこと。)
 それゆえ、幸福は、一人一人の人生の物語の-出来事としての体験-のなかに想像=創造し、獲得し、実現させていくべきものだろう。



20050108(6)
 「小説とは、何よりも認識の一手段である。(ポール・ニザン)」。
 そして、おそらく、他者の物語は、言葉で表現される小説を含む物語の形式によるものを介してでないと、自身の体験の中に、それを判断して取り入れることが、基本的に、できない。(「会話・対話を含めて」の物語の形式によるものでないと。)



20050108(7)
 最も美しい時の思い出、最も美しい物語の思い出 (というおそらくそれぞれが機会・チャンス・可能性であったもの) なども、すべて生かして。また、「束の間の幸福の輝き」も、「ほんの少しの幸福」も、すべて生かしていって。?
 ただし、判断は (批判的な摂取は) いつも伴わせて。
 「しるし」も生かして。
 


20050108(8)
 「なぜ?」と問うのは、基本的には、実践的に有益な法則性を「見出す=創造する=想像する=獲得する」ため。そして、その有効性・有益性に疑問が残る時には「ほんとうに?」という問いを、勇気を出して提出すべきだ。この二つの問いは、科学的な方法 (批判的な摂取) の出発点になるものだ。



20050108(9)
 認識とその活用可能性の観点から、必然性=偶然性。法則性は、それらの共通の反意語。その「性」は、認識とその活用可能性。法則性の認識+その活用=自由。幸福追求の自由権。思想と言論の自由権。その「権」は、正当性の認識とその活用に基づく力である。
 戦争や暗殺やテロリズムという社会的な疾病、身近な人々の間でも生じうる憎しみや、嫌悪や、八つ当たりする怒りという社会的な病い、などに対しても。



20050108(10)
 「絶望をとなえてはならない。目前の許しがたい世界に目を奪われてはならない。運命を変えたいと思う人びとの、行動と怒りに含まれる価値をとり出さなければならない。」
 (ポール・ニザン『責任ある文学のために』・高橋治男氏訳。)
 取り出して対象として現実化させなければならない。



20050108(11)
 基本的には、「身体(全体)はごく僅かのものしか必要としない。苦痛を取り去ってくれるものはすべて、身体のために多大の愉楽をもたらすことができる。」「肉体的苦痛はいつまでも持続するものではない。もっとも激しい苦痛は非常に短い。肉体的快楽を越える苦痛でさえ、幾日も続くわけではない。さらに、慢性的な病気の場合には、肉体的快楽が苦痛を凌駕している。」「過度の苦痛は君の生命を終わらせるだろう。」
 (ポール・ニザン『古代の唯物論者たち』・最前段はルクレチウスからの、後段はエピクロスからの引用・加藤晴久氏訳。)
 この場合 (そして基本的にはつねに) 身体とは、人間の生きている身体全体のことだろう。



20050108(12)
 「エピクロスは愛には厳しいが、友情はこれを賛美している。愛他主義はまったくない。友情はある必要を充足させてくれるのである。ひとはそれぞれ己れ自身の快楽のために友情を培うべきである。友情はさらに他の人間たちの関係で安全を確保する手段である。友人はわれわれを保護してくれるからである。」(ポール・ニザン『古代の唯物論者たち』加藤晴久氏訳でのニザンのエピクロス解釈。)
 戦争とテロリズムなどから生活を守ることに関しても、
 それは、他者を抑圧することのない愛情は、これを生の中で現実化させようとするときには、少なくとも自身などの場合基本的に、すべてを (すべての判断力や意志や努力などを) そこに集中させるほどの判断力や意思や努力を集中していくことが要求され、そうしていかない限り対象的に現実化させられないものだからだ。



20050108(13)
 政治的方法の一種としての民主主義の方法論としての、「多数意見の尊重と同時的な少数意見の留保」という方法の価値
 を検討していかなくてはならない。



20050108(14)
 社会の中で他者に対する物質的・破壊的な力の行使は、抵抗権の行使としてのものを越える場合には
 暴力となる、といえる。



20050108(15)
 西暦(キリスト紀元歴)19450806の午前8時15分。



20050108(16)
 20040609のラジオニュース「ドイツで徴兵忌避者が50%をこえる。」



20050108(17)
 戦争をなくすこと(減少させること)、暴力をなくすこと、大多数の人間の仕事の成果としての経済的財産に対する一部の人間の偏有をなくすこと、などはいずれも、
 各人の運命とのたたかいの一つ一つ。



20050108(18)
 子が、親の愛情を要求できるのは、
 親にとってそれに応えることが、本来は (ないし親の大多数にとっては) 幸福だからだ。
 応えられないのは、
 それ以上に傷付けられていると錯覚しているから (ことによると一生の間)。



20050108(19)
 「子供時代(6歳から18歳くらい)の倫理」・「大人時代の倫理」・「 (親に対する) 子の倫理」・「 (子に対する) 親の倫理 (何よりも子が不機嫌さを表示したり八つ当たりするようなときにも少なくとも精神的に抱きしめてあげられる、ないしそうしようと判断して対応するそれ) 」は、
 それぞれ、より明確なしるしをもって獲得され、(試行を含むものとして) 実践され、検証されていくべきだろう。



20050108(20)
 倫理とは、
 正当性の法則性の認識というよりはむしろ不当性の忌避についての法則性の認識と、その認識の活用可能性のことだ。正当性・不当性とは、何よりも社会的な受け入れられやすさ・にくさのこと・・・。



20050108(21)
 「富(財とサービス)」の、偏有から遍有への促進は、
 法改正により果される部分もありうるとしても、基本的・最終的には、個々人の意志と経営自立力に基づくべきものだ。法改正によりなされていくべき経営自立への促進化を含めて。



20050108(22)
 永遠は、
 何よりも人の心 (創造=想像) の中に存在するもの。



20050108(23)
 一番つらいのは、
 最も幸福だった時と世界の、その幸福の体験そのものに絶対に手が届かないように感じられるから。本当はつねにそうではないのに。生きている限り、現に体験している幸福でさえも。



20050108(24)
 時と世界は、
 一人一人の物語の中に存在するものであって、一人一人のそのような時と世界をよりよいものに、一人一人がそこでより幸福が得やすいものに変えていくことが課題になる。



20050108(25)
 高望みは、
 それ自体が幸福の物語の「創造=想像」であって、少なからざる人びとにとって、その幸福の物語のために、不可欠だ。
 Such girls and boys and elders be rather overambitious.・・・



20050108(26)
 特に体験の判断に基づく認識の、人生での位置づけについてのノート
 認識、特に体験の判断に基づく認識は、それ自体が機会・可能性の一つだが、人が運命と呼ばれるものとたたかうための最良の「術 (すべ) =技術」の一つとなりうるもの (機会・可能性) でもある。認識も「創造=想像=獲得」のひとつだ。


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